東漢時代456 献帝(百三十八) 関羽の進撃 219年(4)
当時は諸州の兵が淮南を守っていました。
『資治通鑑』胡三省注によると、魏が漢の九江郡を淮南郡に改めました。
魏の揚州刺史・温恢が兗州刺史・裴潜に言いました「この間(一帯)に賊(孫権)がいるが、憂いるには足りない。しかし今は水潦(雨水による大水)が発生しており、子孝(曹仁の字)が縣軍(敵地に深入りすること)して遠備(遠地の備え)がない。関羽は驍猾(勇猛狡猾)なので、正に征南(征南将軍・曹仁)に変があることを恐れるだけだ(政恐征南有変耳)。」
果たして、暫くすると関羽が南郡太守・麋芳に江陵を守らせ、将軍・傅士仁(「傅」が氏、「士仁」が名。但し、中華書局の『資治通鑑』は「傅」を「衍(余分な文字)」としています。その場合は、「士」が氏、「仁」が名です)に公安を守らせ、自ら衆を率いて樊にいる曹仁を攻撃しました。
八月、大雨が続きました(大霖雨)。
『三国志・呉書二・呉主伝』はこう書いています「関羽が襄陽で曹仁を包囲した。曹公(曹操)は左将軍・于禁を派遣して救わせた。ちょうど漢水が暴起した(氾濫した)。関羽は舟兵で于禁等歩騎三万を全て捕虜にし、江陵に送った。城(襄陽)だけはまだ抜けなかった(攻略できなかった)。」
本文に戻ります。
龐徳は隄(堤防)の上におり、甲冑を着て弓を持ち、矢を無駄に放ちませんでした(被甲持弓箭不虚発)。
平旦(日の出)から力戦して正午を越え、関羽の攻撃がますます激しくなり、矢が尽きたため、短兵で敵兵と接します。龐徳は戦えば戦うほど憤怒し、気がますます勇壮になりましたが、水がしだいに増えていき、吏士がことごとく投降しました。
関羽の前に来た龐徳は立ったままでおり、跪きませんでした。
龐徳が関羽を罵って言いました「豎子(相手を罵る言葉です)!降るとは何だ(なぜ投降すると思うのだ。原文「何謂降也」)!魏王には帯甲百万がおり、威が天下に振るっている。汝の劉備は庸才に過ぎない。どうして匹敵できるか(豈能敵邪)!私は国家の鬼(幽鬼)になることはあっても、賊将になることはない(我寧為国家鬼不為賊将也)!」
関羽は龐徳を殺しました。
これを聞いた魏王・曹操は「吾(私)は于禁を知って三十年になるが、どうして危機に臨んで難に身を置いた時、却って龐徳に及ばないと予想できただろう(何意臨危処難,反不及龐徳邪)」と言い、龐徳の二子を列侯にしました。
関羽が樊城を囲んで急攻しました。
城内に水が入り、所々が崩壊したため、衆人が皆、恟懼(恐惧)します。
汝南太守・満寵が言いました「山水は変化が速いので、現状が長く続かないことを期待できます(山水速疾冀其不久)。聞くところによると、関羽は別将を派遣して既に郟下にいるため、許以南の百姓が擾擾(混乱の様子)としています。関羽が敢えて遂進(前進)しようとしないのは、我が軍が後ろを牽制することを恐れているからです(羽所以不敢遂進者,恐吾軍掎其後耳)。今、もしも遁去(遁走)したら、洪河(大河。黄河)以南が国家のものではなくなってしまいます(非復国家有也)。君(あなた)は(状況が変わるのを)待つべきです。」
関羽は船に乗って城に臨み、すぐに包囲を数重にして内外を断絶させました。
また、別将を派遣して襄陽を守る将軍・呂常を包囲させました。
胡脩と傅方に関しては『晋書・巻一・高祖宣帝紀』に記述があります。
沛国の人・魏諷は字を子京といい(『三国志・武帝紀』裴松之注によると、一説では「済陰の人」ともいいます)、衆人を惑わす才があったため、鄴都(魏の都)で敬慕されていました(傾動鄴都)。そこで魏の相国・鍾繇が招聘して西曹掾にしました。
滎陽の人・任覧は魏諷と友善な関係にありました。
しかし同郡の鄭袤がいつも任覧にこう言いました「魏諷は姦雄なので、いずれ必ず乱を為す(終必為乱)。」
九月、曹操が率いる大軍が帰還する前に、魏諷が秘かに徒党と結び、長楽衛尉・陳禕と共に鄴襲撃を謀りました。
曹丕は魏諷を誅殺し、連坐して死んだ者が数千人に上りました。
相国・鍾繇も罪に坐して免官されました。
次回に続きます。