東漢時代456 献帝(百三十八) 関羽の進撃 219年(4)

今回も東漢献帝建安二十四年の続きです。
 
[] 『三国志・魏書一・武帝紀』『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
孫権合肥を攻めました。
 
当時は諸州の兵が淮南を守っていました。
資治通鑑』胡三省注によると、魏が漢の九江郡を淮南郡に改めました。
 
魏の揚州刺史・温恢が兗州刺史・裴潜に言いました「この間(一帯)に賊孫権がいるが、憂いるには足りない。しかし今は水潦(雨水による大水)が発生しており、子孝曹仁の字)が縣軍(敵地に深入りすること)して遠備(遠地の備え)がない。関羽は驍猾(勇猛狡猾)なので、正に征南(征南将軍・曹仁に変があることを恐れるだけだ(政恐征南有変耳)。」
 
果たして、暫くすると関羽が南郡太守・麋芳に江陵を守らせ、将軍・傅士仁(「傅」が氏、「士仁」が名。但し、中華書局の『資治通鑑』は「傅」を「衍(余分な文字)」としています。その場合は、「士」が氏、「仁」が名です)に公安を守らせ、自ら衆を率いて樊にいる曹仁を攻撃しました。
 
曹操長安にいます)が左将軍・于禁を派遣し、曹仁を助けて関羽を撃たせました。
曹仁于禁や立義将軍・龐徳(龐等を樊北に駐屯させます。
資治通鑑』胡三省注によると、龐徳は漢中から帰順してから(建安二十年・215年)曹操によって立義将軍に任命されました。
本年春に曹仁が宛の侯音を攻略した時、龐徳も自分の兵を率いて曹仁と共に宛を攻撃しており、その後、樊に駐屯していました(『三国志・魏書十八・二李臧文呂許典二龐閻伝』参照)
 
八月、大雨が続きました(大霖雨)
漢水が溢れて平地の水かさが数丈になり、于禁の軍営に注ぎ込みます。
やがて、于禁等の七軍が全て水没したため、于禁は諸将と共に高地に登って水を避けましたが、関羽が大船に乗って攻撃を仕掛けると、于禁等は窮迫して遂に投降しました。
 
三国志・呉書二・呉主伝』はこう書いています「関羽が襄陽で曹仁を包囲した。曹公(曹操)は左将軍・于禁を派遣して救わせた。ちょうど漢水が暴起した(氾濫した)関羽は舟兵で于禁等歩騎三万を全て捕虜にし、江陵に送った。城(襄陽)だけはまだ抜けなかった(攻略できなかった)。」
しかし襄陽は呂常が守っており(下述)曹仁は樊にいたはずです。
三国志・先主伝』は「関羽が曹公曹操の将・曹仁を攻め、樊で于禁を禽(虜)にした」と書いています。
 
本文に戻ります。
龐徳は隄(堤防)の上におり、甲冑を着て弓を持ち、矢を無駄に放ちませんでした(被甲持弓箭不虚発)
平旦(日の出)から力戦して正午を越え、関羽の攻撃がますます激しくなり、矢が尽きたため、短兵で敵兵と接します。龐徳は戦えば戦うほど憤怒し、気がますます勇壮になりましたが、水がしだいに増えていき、吏士がことごとく投降しました。
龐徳は小船に乗って曹仁の営に還ろうと欲しましたが、水の勢いが盛んなため、小船が転覆しました。弓矢を失い、独り水中で転覆した船を抱えているところを(独抱船覆水中)関羽に捕えられます。
 
関羽の前に来た龐徳は立ったままでおり、跪きませんでした。
関羽が言いました「卿の兄は漢中にいる(『資治通鑑』胡三省注によると、龐徳の従兄・龐柔は蜀にいました)。私は卿を将にしたいと欲するが、早く降らないのは何故だ(不早降何為)。」
龐徳が関羽を罵って言いました「豎子(相手を罵る言葉です)!降るとは何だ(なぜ投降すると思うのだ。原文「何謂降也」)!魏王には帯甲百万がおり、威が天下に振るっている。汝の劉備は庸才に過ぎない。どうして匹敵できるか(豈能敵邪)!私は国家の鬼(幽鬼)になることはあっても、賊将になることはない(我寧為国家鬼不為賊将也)!」
関羽は龐徳を殺しました。
 
これを聞いた魏王・曹操は「吾(私)于禁を知って三十年になるが、どうして危機に臨んで難に身を置いた時、却って龐徳に及ばないと予想できただろう(何意臨危処難,反不及龐徳邪)」と言い、龐徳の二子を列侯にしました。
 
関羽が樊城を囲んで急攻しました。
城内に水が入り、所々が崩壊したため、衆人が皆、恟懼(恐惧)します。
ある人が曹仁に言いました「今日の危(危機。危難)は、力で支えられるものではありません。関羽の包囲が完成する前に、軽船に乗って夜に走るべきです。」
汝南太守・満寵が言いました「山水は変化が速いので、現状が長く続かないことを期待できます(山水速疾冀其不久)。聞くところによると、関羽は別将を派遣して既に郟下にいるため、許以南の百姓が擾擾(混乱の様子)としています。関羽が敢えて遂進(前進)しようとしないのは、我が軍が後ろを牽制することを恐れているからです(羽所以不敢遂進者,恐吾軍掎其後耳)。今、もしも遁去(遁走)したら、洪河(大河。黄河以南が国家のものではなくなってしまいます(非復国家有也)。君(あなた)(状況が変わるのを)待つべきです。」
曹仁は「善し(善)」と言うと、白馬を犠牲にして水に沈め、軍人と盟誓(誓いを立てること)し、同心になって固守しました。
資治通鑑』胡三省注によると、満寵が汝南太守になった時、曹操が満寵に命じて曹仁を助けさせ、樊城に駐屯させていました。郟県は潁川郡に属します。
 
城中の人馬(軍隊)はわずか数千人しかおらず、城で水没していない部分は数板しかありませんでした(『資治通鑑』胡三省注によると、「板」は城壁の高さの単位で、一板は二尺です)
関羽は船に乗って城に臨み、すぐに包囲を数重にして内外を断絶させました。
また、別将を派遣して襄陽を守る将軍・呂常を包囲させました。
荊州刺史・胡脩と南郷太守・傅方が関羽に投降しました。
資治通鑑』胡三省注によると、東漢建安年間に南陽の一部を割いて南郷郡を置きました。荊州に属します。
 
胡脩と傅方に関しては『晋書・巻一・高祖宣帝紀』に記述があります。
司馬懿は、荊州刺史・胡脩が粗暴で、南郷太守・傅方が驕奢なので、辺境に居させるべきではないと曹操に進言しました。
しかし曹操は調査しませんでした(不之察)
蜀将・関羽曹仁を樊で包囲し、于禁等七軍が皆没すると(全滅すると)、胡脩と傅方は果たして関羽に降り、(関羽)曹仁に対する包囲が非常に厳しくなりました。
 
[] 『三国志・魏書一・武帝紀』本文と裴松之注および『資治通鑑』からです。
沛国の人・魏諷は字を子京といい(三国志武帝紀』裴松之注によると、一説では「済陰の人」ともいいます)、衆人を惑わす才があったため、鄴都(魏の都)で敬慕されていました(傾動鄴都)。そこで魏の相国・鍾繇が招聘して西曹掾にしました。
滎陽の人・任覧は魏諷と友善な関係にありました。
しかし同郡の鄭袤がいつも任覧にこう言いました「魏諷は姦雄なので、いずれ必ず乱を為す(終必為乱)。」
鄭袤は鄭泰霊帝中平六年・189年参照)の子です。
 
九月、曹操が率いる大軍が帰還する前に、魏諷が秘かに徒党と結び、長楽衛尉・陳禕と共に鄴襲撃を謀りました。
しかし約束の日が来る前に、陳禕が懼れて太子曹丕に告発しました。
曹丕は魏諷を誅殺し、連坐して死んだ者が数千人に上りました。
相国・鍾繇も罪に坐して免官されました。
 
 
 
次回に続きます。