東漢時代458 献帝(百四十) 呂蒙と陸遜 219年(6)
陸渾の民・孫狼等が乱を為しました。県の主簿を殺し、南に向かって関羽に附きます。
『資治通鑑』胡三省注によると、陸渾県は弘農郡に属します。秦・晋が陸渾の戎をこの地に遷しました。
魏王・曹操が許都を遷して鋭鋒を避けることを議論しましたが、丞相軍司馬・司馬懿、西曹属・蒋済が曹操にこう言いました「于禁等は水に没したのであり、戦攻の失(失敗)ではないので、国家の大計においてまだ損害を有すには足りません(まだ大きな損害はありません。原文「未足有損」)。劉備と孫権は、外見は親しくしていても内実は疎んでいます(外親内疏)。関羽が志を得ることは、間違いなく孫権が願っていません(権必不願也)。人を派遣して孫権にその後を突くように勧めるべきです(原文「可遣人勧権躡其後」。「躡其後」は「後を追う」ですが、「後を突く」と訳しました)。江南を割いて孫権を封じることを許せば(孫権を江南の地に封じることに同意すれば)、樊の包囲は自ずから解けます。」
曹操はこれに従いました。
『晋書・巻一・高祖宣帝紀』はこう書いています。
司馬懿が曹操を諫めて言いました(『晋書』には蒋済の名がありません)「于禁等は水に没したのであり、戦守で失したところではないので(戦守における失敗ではないので)、国家の大計においてまだ損なうことはありません(未有所損)。それなのにすぐに遷都したら、敵に弱(劣勢)を示すだけでなく、淮沔の人が大いに不安になります。孫権と劉備は、外見は親しくしていても内実は疎んでいるので(外親内疏)、関羽が意を得るのは、孫権が願っていないことです。孫権側を諭してその(関羽の)後ろを牽制させれば(可喩権所令掎其後)、樊の包囲は自ずから解けます。」
曹操はこれに従いました。
本文に戻ります。
そこで呂蒙が秘かに孫権に言いました「今、征虜(『資治通鑑』胡三省注によると、当時の征虜将軍は孫皎です)に南郡を守らせ、潘璋を白帝に行かせ(『資治通鑑』胡三省注によると、甘寧の楚関を拠点にする計です)、蒋欽に游兵一万人を率いさせ、江に沿って上下して敵がいる場所で対応させ(循江上下応敵所在)、蒙(私)が国家のために前進して襄陽を拠点にすれば、どうして曹操を憂い、関羽に頼る必要があるでしょう(如此何憂於操,何賴於羽)。そもそも関羽の君臣(劉備の勢力)はその詐術と武力を誇っており(矜其詐力)、至る所で反覆しているので、腹心(真心)をもって待遇することはできません(所在反覆,不可以腹心待也)。今、関羽がすぐ東に向かえないのは、至尊(孫権)が聖明で、蒙等(私達)がまだいるからです(今羽所以未便東向者以至尊聖明蒙等尚存也)。今、(我々が)強壮の時にこれを図らず、一旦にして僵仆(倒れること。死ぬこと)してからまた力を施そうとしても、どうして得られるでしょう(一旦僵仆欲復陳力其可得邪)。」
呂蒙が答えました「今、曹操は遠く河北におり、幽・冀を撫集(安撫招集)して東顧する暇がありません。徐土(徐州。『資治通鑑』は「余土(他の地)」としていますが、『三国志・呉書九・周瑜魯粛呂蒙伝』では「徐土」なので、「徐土」が正しいはずです)の守兵は、聞くところによると語るに足りないので(聞不足言)、向かえば自ずから克てます。しかしその地勢は陸で通じており、勇猛な騎兵が馳せるところなので(驍騎所騁)、至尊(孫権)が今日、徐州を取ったとしても、後旬(十日後)には曹操が必ず来て争い、たとえ七八万人で守ったとしても、なお憂いを抱かなければなりません。関羽を取って長江を全て占拠したほうがいいでしょう。形勢(勢力)がますます張り(拡大し)、(荊州なら)守るのが容易です。」
孫権はこの意見を称賛しました。
関羽が樊を攻めると、呂蒙が上書しました「関羽は樊を討ちましたが、多くの備兵(守備兵)を留めています。これは蒙(私)がその後ろを図ることを恐れているからに違いありません(必恐蒙図其後故也)。蒙(私)は常に病があるので、士衆を分けて建業に還り、治疾(療養)をその名(名義。理由)にすることを乞います。関羽がそれを聞いたら、必ず備兵を撤して(除いて)ことごとく襄陽に赴かせます。そこで、大軍が江に浮いて昼夜馳せ上り(孫権の大軍が昼夜兼行して長江を遡り)、その空虚を襲えば、南郡は下すことができ、関羽も禽(虜)にできます。」
『資治通鑑』胡三省注によると、この南郡は江陵を指します。
呂蒙は自分の病が篤いと称しました。
敢えて露檄を使ったのは関羽に知らせるためです。
陸遜が言いました「関羽は驍気(勇猛な気勢)を誇って人を陵轢(侮って虐げること)しており(矜其驍気陵轢於人)、大功があったばかりなので、意が驕って志が放縦になり(意驕志逸)、ただ北進に務めて我々を疑っていません(未嫌於我)。(呂蒙の)病の情報があれば、必ずますます備えがなくなります(有相聞病必益無備)。今、その不意に出れば、自ずから禽制(捕えて制すこと)できます。下って至尊(孫権)に会見したら、好く計を為すべきです。」
呂蒙が言いました「関羽はかねてから勇猛なので、元々敵にするのは難しい。しかも既に荊州を占拠し、恩信が大いに行われ、更に功を立てたばかりなので、膽勢(胆と威勢)がますます盛んだ。まだ図るのは容易ではない(未易図也)。」
呂蒙が答えました「陸遜は意思(思慮)が深長で、才が負重(重任)に堪えられ、その規慮(謀慮。計画)を観るに、最後は大いに任用できます(終可大任)。しかもまだ遠名がなく、関羽に忌とされるところではないので(関羽に警戒される人物ではないので)、彼以上に相応しい者はいません(無復是過也)。もし彼を用いるなら、外は自ら韜隠(才能や行動を隠すこと)させ、内は形便(形勢や利便、機会)を観察させるべきです。そうすれば克つことができます(然後可克)。」
関羽は大いに安心して疑うことがなくなったので、徐々に撤兵して樊に赴かせました。
孫権は征虜将軍・孫皎(『資治通鑑』胡三省注によると、征虜将軍は光武帝が祭遵を任命したのが始めです)と呂蒙を左右部大督に任命したいと思いましたが、呂蒙がこう言いました「もし至尊(孫権)が征虜をもって能とするならそれを用いるべきです(征虜将軍に能力があると思うのなら彼を用いるべきです。原文「以征虜能宜用之」)。蒙(私)をもって能とするなら蒙(私)を用いるべきです(以蒙能宜用蒙)。昔、周瑜と程普が左右部督になり、兵を督(都督・監督)して江陵を攻めた時、事は周瑜によって決せられましたが、程普が久しく将でいることに自ら恃み(程普は将としての経験が豊富であることを自負し)、しかも二人とも督(都督)だったので、共に不睦(不和)となり、危うく国事を失敗させるところでした(幾敗国事)。これは目前の戒(現在戒めとするべき事)です。」
誤りを悟った孫権は呂蒙に謝ってこう言いました「卿をもって大督とし、孫皎に命じて後継とする(『資治通鑑』の原文は「以卿為大督,命皎為後継可也」ですが、『三国志・呉書六・宗室伝』では「以卿為大督,命皎為後継」で、「可也」がありません。ここは『三国志』に従いました)。」
次回に続きます。