東漢時代458 献帝(百四十) 呂蒙と陸遜 219年(6)

今回も東漢献帝建安二十四年の続きです。
 
[十四] 『三国志・蜀書二・先主伝』からです。
孫権関羽を襲って殺し、荊州を取りました。
 
以下、『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』から詳しく書きます。
陸渾の民・孫狼等が乱を為しました。県の主簿を殺し、南に向かって関羽に附きます。
資治通鑑』胡三省注によると、陸渾県は弘農郡に属します。秦・晋が陸渾の戎をこの地に遷しました。
 
関羽は孫狼に印を授けて兵を与え、還して寇賊にさせました(朝廷曹操にとっては「寇賊」ですが、蜀にとっては味方の勢力です)
許以南の各地が遠くから関羽に呼応し、関羽の威が華夏(中原)を震わせます。
 
魏王・曹操が許都を遷して鋭鋒を避けることを議論しましたが、丞相軍司馬・司馬懿、西曹属・蒋済が曹操にこう言いました「于禁等は水に没したのであり、戦攻の失(失敗)ではないので、国家の大計においてまだ損害を有すには足りません(まだ大きな損害はありません。原文「未足有損」)劉備孫権は、外見は親しくしていても内実は疎んでいます(外親内疏)関羽が志を得ることは、間違いなく孫権が願っていません(権必不願也)。人を派遣して孫権にその後を突くように勧めるべきです(原文「可遣人勧権躡其後」。「躡其後」は「後を追う」ですが、「後を突く」と訳しました)。江南を割いて孫権を封じることを許せば孫権を江南の地に封じることに同意すれば)、樊の包囲は自ずから解けます。」
曹操はこれに従いました。
 
『晋書・巻一・高祖宣帝紀』はこう書いています。
当時、漢帝が許を都にしていましたが、曹操は賊(関羽)に近いと考えたため、河北に遷ろうと欲しました。
司馬懿曹操を諫めて言いました(『晋書』には蒋済の名がありません)于禁等は水に没したのであり、戦守で失したところではないので(戦守における失敗ではないので)、国家の大計においてまだ損なうことはありません(未有所損)。それなのにすぐに遷都したら、敵に弱(劣勢)を示すだけでなく、淮沔の人が大いに不安になります。孫権劉備は、外見は親しくしていても内実は疎んでいるので(外親内疏)関羽が意を得るのは、孫権が願っていないことです。孫権側を諭してその関羽の)後ろを牽制させれば(可喩権所令掎其後)、樊の包囲は自ずから解けます。」
曹操はこれに従いました。
果たして孫権は将・呂蒙を派遣し、西進して公安を襲わせました。呂蒙は)これを攻略し、関羽はついに呂蒙に捕えられました。
 
本文に戻ります。
以前、魯粛は、曹操がまだ存在しているので、暫くは関羽を安撫して和睦するべきであり、仇(敵)を同じくして(協力して曹操に対抗し)関羽との関係を失ってはならないと孫権に勧めました。
しかし呂蒙魯粛に代わって陸口に駐屯すると、関羽はかねてから驍雄で兼併の心があり、しかも国(呉)の上流にいるので、この形成を久しく保つのは困難だと考えました。
そこで呂蒙が秘かに孫権に言いました「今、征虜(『資治通鑑』胡三省注によると、当時の征虜将軍は孫皎です)に南郡を守らせ、潘璋を白帝に行かせ(『資治通鑑』胡三省注によると、甘寧の楚関を拠点にする計です)、蒋欽に游兵一万人を率いさせ、江に沿って上下して敵がいる場所で対応させ(循江上下応敵所在)、蒙(私)が国家のために前進して襄陽を拠点にすれば、どうして曹操を憂い、関羽に頼る必要があるでしょう(如此何憂於操,何賴於羽)。そもそも関羽の君臣劉備の勢力)はその詐術と武力を誇っており(矜其詐力)、至る所で反覆しているので、腹心(真心)をもって待遇することはできません(所在反覆,不可以腹心待也)。今、関羽がすぐ東に向かえないのは、至尊孫権が聖明で、蒙等(私達)がまだいるからです今羽所以未便東向者以至尊聖明蒙等尚存也)。今、(我々が)強壮の時にこれを図らず、一旦にして僵仆(倒れること。死ぬこと)してからまた力を施そうとしても、どうして得られるでしょう(一旦僵仆欲復陳力其可得邪)。」
孫権が問いました「今、先に徐州を取り、その後、関羽を取ろうと欲するが如何だ?」
資治通鑑』胡三省注によると、広陵以北が全て徐州の地に当たります。
 
呂蒙が答えました「今、曹操は遠く河北におり、幽・冀を撫集(安撫招集)して東顧する暇がありません。徐土(徐州。『資治通鑑』は「余土(他の地)」としていますが、『三国志・呉書九・周瑜魯粛呂蒙伝』では「徐土」なので、「徐土」が正しいはずです)の守兵は、聞くところによると語るに足りないので(聞不足言)、向かえば自ずから克てます。しかしその地勢は陸で通じており、勇猛な騎兵が馳せるところなので(驍騎所騁)、至尊孫権が今日、徐州を取ったとしても、後旬(十日後)には曹操が必ず来て争い、たとえ七八万人で守ったとしても、なお憂いを抱かなければなりません。関羽を取って長江を全て占拠したほうがいいでしょう。形勢(勢力)がますます張り(拡大し)荊州なら)守るのが容易です。」
孫権はこの意見を称賛しました。
 
孫権はかつて自分の子のために関羽の娘との婚姻を求めました。しかし関羽が使者を罵って婚姻に同意しなかったため、孫権は怒りを抱いていました。
関羽が樊を攻めると、呂蒙が上書しました「関羽は樊を討ちましたが、多くの備兵(守備兵)を留めています。これは蒙(私)がその後ろを図ることを恐れているからに違いありません(必恐蒙図其後故也)。蒙(私)は常に病があるので、士衆を分けて建業に還り、治疾(療養)をその名(名義。理由)にすることを乞います。関羽がそれを聞いたら、必ず備兵を撤して(除いて)ことごとく襄陽に赴かせます。そこで、大軍が江に浮いて昼夜馳せ上り孫権の大軍が昼夜兼行して長江を遡り)、その空虚を襲えば、南郡は下すことができ、関羽も禽(虜)にできます。」
資治通鑑』胡三省注によると、この南郡は江陵を指します。
 
呂蒙は自分の病が篤いと称しました。
孫権は露檄(公開の文書)によって呂蒙を呼び戻し、秘かに計を図ります。
敢えて露檄を使ったのは関羽に知らせるためです。
 
呂蒙が長江を下って蕪湖に至った時、定威校尉陸遜呂蒙に問いました「関羽が境を接しているのに、なぜ遠く離れて下って来たのですか。後のことは憂いる必要がないのですか(如何遠下,後不当可憂也)?」
呂蒙が言いました「汝の言う通りだが、私は病が篤いのだ(原文「誠如来言,然我病篤」。この「来」は「汝の」の意味です)。」
陸遜が言いました「関羽は驍気(勇猛な気勢)を誇って人を陵轢(侮って虐げること)しており(矜其驍気陵轢於人)、大功があったばかりなので、意が驕って志が放縦になり(意驕志逸)、ただ北進に務めて我々を疑っていません(未嫌於我)呂蒙の)病の情報があれば、必ずますます備えがなくなります(有相聞病必益無備)。今、その不意に出れば、自ずから禽制(捕えて制すこと)できます。下って至尊孫権に会見したら、好く計を為すべきです。」
呂蒙が言いました「関羽はかねてから勇猛なので、元々敵にするのは難しい。しかも既に荊州を占拠し、恩信が大いに行われ、更に功を立てたばかりなので、膽勢(胆と威勢)がますます盛んだ。まだ図るのは容易ではない(未易図也)。」
 
呂蒙が呉の都に至ると、孫権が問いました「誰が卿に代われるか(誰可代卿者)?」
呂蒙が答えました「陸遜は意思(思慮)が深長で、才が負重(重任)に堪えられ、その規慮(謀慮。計画)を観るに、最後は大いに任用できます(終可大任)。しかもまだ遠名がなく、関羽に忌とされるところではないので関羽に警戒される人物ではないので)、彼以上に相応しい者はいません(無復是過也)。もし彼を用いるなら、外は自ら韜隠(才能や行動を隠すこと)させ、内は形便(形勢や利便、機会)を観察させるべきです。そうすれば克つことができます(然後可克)。」
孫権陸遜を招いて偏将軍右部督に任命し、呂蒙の代わりにしました。
 
陸遜は陸口に至ると書信を書いて関羽に送り、その功美(功労美徳)を称えて自ら深く謙抑(謙遜)しました。こうして関羽に忠を尽くして自分を託す意志を示します。
関羽は大いに安心して疑うことがなくなったので、徐々に撤兵して樊に赴かせました。
陸遜孫権に詳しく状況を報告し、関羽を捕える戦術の要旨を述べます(陳其可禽之要)
 
関羽于禁等の人馬(軍隊)数万を得てから糧食が欠乏したため、勝手に孫権の湘関の米を取りました。
資治通鑑』胡三省注によると、呉と蜀は荊州を分ける時、湘水を境にしたため、関が置かれました。
 
情報を聞いた孫権はついに兵を発して関羽を襲いました。
孫権は征虜将軍・孫皎(『資治通鑑』胡三省注によると、征虜将軍は光武帝が祭遵を任命したのが始めです)呂蒙を左右部大督に任命したいと思いましたが、呂蒙がこう言いました「もし至尊孫権が征虜をもって能とするならそれを用いるべきです(征虜将軍に能力があると思うのなら彼を用いるべきです。原文「以征虜能宜用之」)。蒙(私)をもって能とするなら蒙(私)を用いるべきです(以蒙能宜用蒙)。昔、周瑜と程普が左右部督になり、兵を督(都督・監督)して江陵を攻めた時、事は周瑜によって決せられましたが、程普が久しく将でいることに自ら恃み(程普は将としての経験が豊富であることを自負し)、しかも二人とも督(都督)だったので、共に不睦(不和)となり、危うく国事を失敗させるところでした(幾敗国事)。これは目前の戒(現在戒めとするべき事)です。」
誤りを悟った孫権呂蒙に謝ってこう言いました「卿をもって大督とし、孫皎に命じて後継とする(『資治通鑑』の原文は「以卿為大督,命皎為後継可也」ですが、『三国志・呉書六・宗室伝』では「以卿為大督,命皎為後継」で、「可也」がありません。ここは『三国志』に従いました)。」
 
 
 
次回に続きます。