東漢時代459 献帝(百四十一) 徐晃 219年(7)

今回も東漢献帝建安二十四年の続きです。
 
[十四(続き)] 魏王・曹操が漢中に出た時、曹仁を助けるために平寇将軍・徐晃を宛に駐屯させました。
 
ここは『資治通鑑』の記述を元にしました。原文は「魏王操之出漢中也,使平寇将軍徐晃屯宛以助曹仁」です。「魏王操之出漢中也」は「曹操が漢中に出た時」ではなく、「漢中を出た時」かもしれません。
三国志・魏書十七・張楽于張徐伝』はこう書いています「太祖曹操が自ら陽平に至り、漢中諸軍を率いて出た。また、徐晃を派遣し、曹仁を助けて関羽を討たせた。徐晃は)宛に駐屯した(太祖遂自至陽平,引出漢中諸軍。復遣晃助曹仁関羽,屯宛)。」
三国志武帝紀』は八月に于禁が捕えられてから、「曹操が)徐晃にこれ曹仁を救わせた」と書いていますが、徐晃が派遣されたのはもっと前の事です。
資治通鑑』胡三省注によると、平寇将軍は曹操が置いた将軍号のようです。
 
本文に戻ります。
于禁が水没すると、徐晃は前進して陽陵陂に至りました。
関羽は兵を派遣して偃城に駐屯さます。
 
徐晃は偃に到着してから、詭道(詐術)を行って都塹(大塹。「都」は「大」に通じます)を掘り(原文「詭道作都塹」。誤訳かもしれません)、後ろを断とうとする姿を示しました。
関羽の兵は屯営を焼いて走り、徐晃が偃城を得ます。
その後、徐晃は営を連ねて少しずつ前進しました。
 
曹操が趙儼を派遣し、議郎の立場で曹仁の軍事に参与させました。
趙儼は徐晃と共に前進しましたが、他の救兵がまだ到着せず、徐晃が監督する兵だけでは樊の包囲を解くには足りません。
しかし諸将は徐晃を呼責(叱責、譴責)し、曹仁を救いに行くように催促します。
趙儼が諸将に言いました「今、賊の包囲は元々固く、水潦(大水)もなお盛んなのに、我が徒卒(兵卒)は単少(寡少)で、しかも曹仁と隔絶していて力を一つにできない(不得同力)。この挙はまさに(樊城の)内外を損なうことになる(此挙適所以敝内外耳)。今は軍を前進させて包囲に迫り(前軍偪囲)、諜(間諜)を派遣して曹仁と通じ、外救(援軍)が来たことを知らせて将士を奨励した方がいい。計るに北軍は十日を過ぎず(北からの援軍が来るのは十日も必要とせず)(十日程度なら樊城は)なお、堅守するに足りる。その後北軍が来てから)、表裏(内外)そろって発すれば、賊を破るのは必至だ。もし緩救の戮(救援に遅れた罪)があるようなら、余(私)が諸君に替わってそれに当たろう。」
諸将は皆、趙儼の策を聞いて喜びました。
 
徐晃関羽の包囲網から三丈離れた場所に営を構えました。地道を造ったり矢で文書を飛ばして曹仁に送り、互いに何回も消息を通じさせます。
 
孫権は内心で関羽を憚っており(恐れ嫌っており)、外に対しては功績を立てたいと思っていたため、牋(書信)を準備しました。使者を派遣して曹操に送り、関羽を討って朝廷に貢献することを請い、合わせて関羽に備えを設けさせないため、情報を漏らすことがないように求めます。
 
曹操が群臣に意見を求めると、群臣は皆、秘密にするべきだと言いました。
しかし董昭がこう言いました「軍事とは臨機応変を貴び、合宜(道理に合っていること。適切なこと)を求めるものです(軍事尚権,期於合宜)孫権には秘密にすると応え、内部でそれを漏らすべきです(宜応権以密而内露之)関羽孫権の上(西上。西進)を聞いて、もし還って自護するようなら(自分を守るようなら)、包囲が速やかに解かれてその利を獲ることになり、両賊を双方対峙させて(相対銜持)、坐してその敝(衰弱)を待つことができます。もし秘密にして漏らさなかったら(祕而不露)孫権に志を得させることになるので、上計ではありません(非計之上)。また、包囲の中の将吏が、救援があることを知らなかったら、(城中の)食糧を計って恐れを抱き(計糧怖懼)、もしも他意(謀反や投降の意思)を持ったら、危難が小さくありません(儻有他意為難不小)。これを漏らすことが便(利)となります(露之為便)。そもそも関羽の為人は強梁(凶暴)であり、自ら二城の守固(江陵、公安の固い守り)に恃んでいるので、必ず速く退くことはありません。」
 
曹操は「善し(善)」と言い、すぐ徐晃に命じて孫権の書を包囲の中(樊城内)関羽の屯営に射させました。
包囲の中では情報を聞いて志気(士気)が百倍になります。
一方の関羽は躊躇して去れませんでした。
 
曹操曹仁関羽孫権の書を伝えた部分は『資治通鑑』を元にしました。『三国志・呉書二・呉主伝』は少し異なり、こう書いています「曹公曹操は暫く関羽孫権を対峙して闘わせようと欲したため、駅(駅馬・駅車)(曹仁)孫権の書を伝え、曹仁から弩を射させて関羽に示した。関羽は猶豫(躊躇)して去れなかった。」
 
関羽の躊躇について、『資治通鑑』胡三省注が解説しています。
関羽は江陵、公安二城の守りが固いことに頼って孫権がすぐには攻略できないと思っています。また、水勢を利用して樊城を包囲しており、必ず攻略できる形勢にあります。もしもここで包囲を解いたら今までの功績もなくなってしまうので、孫権が向かっていると聞いても撤兵を躊躇しました。
 
曹操が雒陽から南に向かいました。関羽を征討して曹仁を助けるためです。
群下は皆、こう言いました「王が速く行かなかったら、今にも敗れてしまいます(王不亟行今敗矣)。」
侍中・桓階が曹操に問いました「大王が思うに、曹仁等は事勢を料るに足りますか?」
曹操は「できる(能)」と答えました。
桓階が問いました「大王は二人(『資治通鑑』胡三省注によると、樊の曹仁と襄陽の呂常を指します)が力を残すこと(尽力しないこと)を恐れるのですか(大王恐二人遺力邪)?」
曹操は「そうではない(不然)」と答えました。
桓階が問いました「それではなぜ自ら行くのですか?」
曹操が言いました「吾(わし)は虜衆が多くて徐晃等の勢が不便なこと(形勢に利がないこと)を恐れるのだ。」
桓階が言いました「今、曹仁等は重囲の中にいますが、死ぬまで節を守って二心を抱く者がいません(守死無貳者)。誠に大王が遠くにいるという形勢のためです(または「大王が遠くで為している勢(威勢。外援)のためです。原文「誠以大王遠為之勢也」)。万死の地にいたら、必ず死争の心を持つものです。内に死争を抱き、外に強救(強い救援。徐晃等の援軍)がおり、大王が六軍を按じる(制御する)ことで余力を示しているのに、なぜ失敗を憂いて自ら行こうと欲するのでしょうか(何憂於敗而欲自往)?」
曹操はこの言を称賛して摩陂に駐軍しました。
そこから前後して殷署、朱蓋等を派遣し、合わせて十二営を徐晃の営に向かわせます。
資治通鑑』胡三省注によると、摩陂は潁川郟県にあります。魏の青龍年間に龍が陂(池や湖。または坂)に現れたため、龍陂に改名しました。
 
三国志武帝紀』は「(南下した曹操が)至る前に、徐晃が関羽を攻めてこれを破った。関羽が走って曹仁の包囲が解けた。王曹操は摩陂に駐軍した」と書いていますが、ここは『資治通鑑』に従いました。
 
以下、『資治通鑑』からです。
関羽は囲頭(地名)に屯営があり、別に四冢(地名)にも屯営を造りました。
徐晃は「囲頭屯を攻める」と揚声(宣言、公言)してから、秘かに四冢を攻めました。
四冢の屯が破壊されそうになったため、関羽が自ら歩騎五千を率いて出撃します。しかし徐晃がこれを撃ち、関羽は退走しました。
関羽は鹿角(軍営を守る防御物です。木で作られており、鹿の角に似ているので「鹿角」と呼ばれました)を十重にして塹(濠)の周りを囲んでいました。
徐晃関羽を追って共に囲みの中に入り、これを破ります徐晃は勝ちに乗じて関羽を追撃し、鹿角を突破して樊城周辺の包囲網を破りました)
傅方と胡脩が死に、関羽は包囲を撤去して退却しました。
しかし関羽の舟船がまだ沔水を占拠していたため、襄陽(呂常が守っています)とは隔絶して道が通じませんでした。
 
 
 
次回に続きます。

東漢時代460 献帝(百四十二) 江陵陥落 219年(8)