東漢時代459 献帝(百四十一) 徐晃 219年(7)
『三国志・魏書十七・張楽于張徐伝』はこう書いています「太祖(曹操)が自ら陽平に至り、漢中諸軍を率いて出た。また、徐晃を派遣し、曹仁を助けて関羽を討たせた。(徐晃は)宛に駐屯した(太祖遂自至陽平,引出漢中諸軍。復遣晃助曹仁討関羽,屯宛)。」
本文に戻ります。
関羽は兵を派遣して偃城に駐屯さます。
その後、徐晃は営を連ねて少しずつ前進しました。
趙儼が諸将に言いました「今、賊の包囲は元々固く、水潦(大水)もなお盛んなのに、我が徒卒(兵卒)は単少(寡少)で、しかも曹仁と隔絶していて力を一つにできない(不得同力)。この挙はまさに(樊城の)内外を損なうことになる(此挙適所以敝内外耳)。今は軍を前進させて包囲に迫り(前軍偪囲)、諜(間諜)を派遣して曹仁と通じ、外救(援軍)が来たことを知らせて将士を奨励した方がいい。計るに北軍は十日を過ぎず(北からの援軍が来るのは十日も必要とせず)、(十日程度なら樊城は)なお、堅守するに足りる。その後(北軍が来てから)、表裏(内外)そろって発すれば、賊を破るのは必至だ。もし緩救の戮(救援に遅れた罪)があるようなら、余(私)が諸君に替わってそれに当たろう。」
諸将は皆、趙儼の策を聞いて喜びました。
孫権は内心で関羽を憚っており(恐れ嫌っており)、外に対しては功績を立てたいと思っていたため、牋(書信)を準備しました。使者を派遣して曹操に送り、関羽を討って朝廷に貢献することを請い、合わせて関羽に備えを設けさせないため、情報を漏らすことがないように求めます。
曹操が群臣に意見を求めると、群臣は皆、秘密にするべきだと言いました。
しかし董昭がこう言いました「軍事とは臨機応変を貴び、合宜(道理に合っていること。適切なこと)を求めるものです(軍事尚権,期於合宜)。孫権には秘密にすると応え、内部でそれを漏らすべきです(宜応権以密而内露之)。関羽が孫権の上(西上。西進)を聞いて、もし還って自護するようなら(自分を守るようなら)、包囲が速やかに解かれてその利を獲ることになり、両賊を双方対峙させて(相対銜持)、坐してその敝(衰弱)を待つことができます。もし秘密にして漏らさなかったら(祕而不露)、孫権に志を得させることになるので、上計ではありません(非計之上)。また、包囲の中の将吏が、救援があることを知らなかったら、(城中の)食糧を計って恐れを抱き(計糧怖懼)、もしも他意(謀反や投降の意思)を持ったら、危難が小さくありません(儻有他意為難不小)。これを漏らすことが便(利)となります(露之為便)。そもそも関羽の為人は強梁(凶暴)であり、自ら二城の守固(江陵、公安の固い守り)に恃んでいるので、必ず速く退くことはありません。」
包囲の中では情報を聞いて志気(士気)が百倍になります。
一方の関羽は躊躇して去れませんでした。
曹操が曹仁と関羽に孫権の書を伝えた部分は『資治通鑑』を元にしました。『三国志・呉書二・呉主伝』は少し異なり、こう書いています「曹公(曹操)は暫く関羽と孫権を対峙して闘わせようと欲したため、駅(駅馬・駅車)で(曹仁に)孫権の書を伝え、曹仁から弩を射させて関羽に示した。関羽は猶豫(躊躇)して去れなかった。」
関羽は江陵、公安二城の守りが固いことに頼って孫権がすぐには攻略できないと思っています。また、水勢を利用して樊城を包囲しており、必ず攻略できる形勢にあります。もしもここで包囲を解いたら今までの功績もなくなってしまうので、孫権が向かっていると聞いても撤兵を躊躇しました。
群下は皆、こう言いました「王が速く行かなかったら、今にも敗れてしまいます(王不亟行今敗矣)。」
桓階が問いました「それではなぜ自ら行くのですか?」
桓階が言いました「今、曹仁等は重囲の中にいますが、死ぬまで節を守って二心を抱く者がいません(守死無貳者)。誠に大王が遠くにいるという形勢のためです(または「大王が遠くで為している勢(威勢。外援)のためです。原文「誠以大王遠為之勢也」)。万死の地にいたら、必ず死争の心を持つものです。内に死争を抱き、外に強救(強い救援。徐晃等の援軍)がおり、大王が六軍を按じる(制御する)ことで余力を示しているのに、なぜ失敗を憂いて自ら行こうと欲するのでしょうか(何憂於敗而欲自往)?」
曹操はこの言を称賛して摩陂に駐軍しました。
そこから前後して殷署、朱蓋等を派遣し、合わせて十二営を徐晃の営に向かわせます。
以下、『資治通鑑』からです。
傅方と胡脩が死に、関羽は包囲を撤去して退却しました。
次回に続きます。