東漢時代460 献帝(百四十二) 江陵陥落 219年(8)

今回も東漢献帝建安二十四年の続きです。
 
[十四(続き)] 呂蒙が尋陽に至りました。
全ての精兵を𦩷𦪇(船の一種)の中に伏せ、白衣(平民)に櫓を漕がせました。彼等には商賈人(商人)の服を着させます。
昼夜兼行して関羽が置いた江辺の屯候(見張りの兵)を全て捕縛したため、関羽呂蒙に関する報告を聞くことがなく、その行動を知りませんでした。
 
麋芳と士仁は以前から関羽が自分を軽視していることを嫌っていました。
関羽が出撃してから、麋芳と士仁が軍資を供給しましたが、必要な物資を完全に満足させることができなかったため(不悉相及)関羽が「還ったらこれを治めよう(罪を裁こう。原文「還,当治之」)」と言いました。
麋芳と士仁は共に懼れを抱きます。
そこで呂蒙は故(元)騎都尉・虞翻に命じ、書信を送って士仁を説得させました。士仁に成敗の道理を述べます。
三国志・呉書十二・虞陸張駱陸吾朱伝』によると、以前、孫権虞翻を騎都尉に任命しましたが、虞翻がしばしば孫権に逆らって諫争したため(犯顔諫争)孫権は悦べませんでした。また、虞翻の性格は俗人と協調できなかったため(性不協俗)、多数の謗毀(誹謗)を受けました。その結果、罪に坐して丹陽涇県に移されました。
呂蒙関羽を取ろうと図り、疾(病)と称して建業に還った時、虞翻が医術も知っていたため、呂蒙孫権に対して虞翻を自分に従わせることを請い、合わせてこれを機に虞翻の罪が赦されることを欲しました。
資治通鑑』胡三省注によると、虞翻呂蒙に従った時は官爵がなかったため、「故騎都尉」と書いています。
 
本文に戻ります。
虞翻の書を得た士仁はすぐに投降しました。
虞翻呂蒙に言いました「これは譎兵です。士仁を連れて行き、兵を留めて城の備えとするべきです(原文「此譎兵也,当将仁行,留兵備城」。「譎兵」は詐術による兵ですが、理解が困難です。『資治通鑑』胡三省注は「呂蒙が譎計(詭計・謀略)によって兵を用いたことを指している(謂蒙以譎計行兵也)」と解説しています。「此譎兵也,当将仁行,留兵備城」は「呂蒙の軍事行動は謀略を用いるべきなので、士仁(とその兵)を連れて行き、自分の兵は城に留めるべきだ」という意味だと思います)。」
 
呂蒙が士仁を連れて南郡に至りました。
麋芳は城を守りましたが、呂蒙が士仁を示すと、門を開き、城から出て投降しました。
 
三国志・呉書二・呉主伝』は「閏月、孫権関羽を征討した。先に呂蒙を派遣して公安を襲わせ、将軍・士仁を獲た。呂蒙が南郡に到ると、南郡太守・麋芳が城を挙げて降った」と書いています。
この「閏月」は「閏十月」だと思われますが、『資治通鑑』は省いています。
 
呂蒙は江陵に入って占拠すると、老弱の者を慰撫し、于禁の囚を解きました関羽に捕えられていた于禁を釈放しました。この後、于禁は呉に仕えます)
また、関羽および将士の家属を得て、全て撫慰しました。
 
呂蒙が規則を作って軍中に令を発しました「人の家を干歴(侵犯。騒がすこと)したり、(財物を)求取(強要)してはならない(不得干歴人家,有所求取)。」
呂蒙の麾下の兵士に呂蒙と同郡の者がいました。ある時、その兵士が民家から一つの笠を取って官鎧を覆いました。官鎧は公の物でしたが、呂蒙は兵士が軍令を犯したとみなし、郷里の者であることを理由に法を廃すことはできないので、涙を流して処刑しました(垂涕斬之)
そのため、軍中が震慄(震撼戦慄)し、道に落ちている物も拾わなくなりました(道不拾遺)
 
呂蒙は旦暮(朝夕)に親近の者を派遣して耆老(老人)を存恤(慰労救済)し、不足している物がないか問いました。疾病の者には医薬を与え、飢寒の者には衣糧を施します。
関羽の府藏の財宝は全て封閉(密閉。封鎖)して孫権の到着を待ちました。
 
関羽は南郡(江陵)が破れたと聞いてすぐ南に走り、還ろうとしました。
曹仁が諸将を集めて討議すると、皆こう言いました「今、関羽の危懼(危機と内心の恐怖)に乗じれば、追撃して虜にできます(可追禽也)。」
しかし趙儼が反対してこう言いました「孫権関羽の連兵の難を幸いとし孫権関羽曹仁と戦っていることを幸いとし。原文「権邀羽連兵之難」。『資治通鑑』胡三省注は「邀は徼と書くべきだ」と解説しています。「徼」は「徼幸(幸運)」の意味です)、その後ろを襲って制しようと欲しましたが(欲掩制其後)関羽が還って救うことを顧慮し、我々が両疲関羽孫権の疲弊)に乗じることを恐れたので、辞を従順にして自ら朝廷に貢献することを願いました(順辞求效)。隙に乗じて変化を利用し(状況に応じて臨機応変に行動し)、そうやって利鈍(勝敗)を観察しているだけのことです(乗釁因変以観利鈍耳)。今、関羽は既に孤迸(孤立離散)したので、更にこれを存続させて孫権の害と為すべきです。もし深入りして追北(敗北した者を追うこと)したら、孫権が向こうで虞(態度)を改め、我々に患いが生まれることになります(権則改虞於彼,将生患於我矣)。王曹操は必ずこれを深慮と為します(「曹操も深くこの事を考慮するはずです」または「曹操はこれを深い憂慮とするはずです」。原文「王必以此為深慮」)。」
曹仁はこの言に従って解厳しました(厳兵を解きました。「厳兵」は配置された兵です)
 
果たして、魏王・曹操関羽が走ったと聞き、諸将が追撃することを恐れました。そこで、すぐ曹仁に命令を下しましたが、その内容は趙儼の策と同じでした。
 
関羽がしばしば人を送って呂蒙と連絡を取ろうとしました。
呂蒙はいつも使者を厚遇し、城中を週遊して家家を致問(訪問)させました。(城内の)ある人は手書(手書きの書信)によって信を示しました(城内のある人は使者に手紙を渡して関羽に仕えている家族に音信を伝えました)
使者が還ると、関羽に仕える者達が個人的に情報を訊ねに行きました(私相参訊)。皆、家族が無事で平時以上に待遇されている(家門無恙見待過於平時)と知ったため、関羽の吏士から闘心がなくなっていきます。
 
孫権が江陵に至りました。荊州の将吏は全て帰附(帰順)しましたが、治中従事・武陵の人・潘濬だけは病と称して会いに行きませんでした。
孫権は人を送り、牀(寝床)をもって潘濬の家に行かせ、担いで連れて来させました(権遣人以牀就家輿致之)。潘濬は顔を牀席に伏せたまま起ちあがらず、顔中に涙を流し、哀哽(悲哀のために発する声)をこらえることができませんでした(涕泣交横,哀哽不能自勝)
孫権は字を呼んで(『資治通鑑』胡三省注によると、潘濬の字は承明といいます。字で呼ぶのは尊敬や親しみを表します)言葉をかけ、懇切に慰めて諭し(慰諭懇惻)、親近に命じて手巾で顔を拭かせました。
ついに潘濬が起き上がり、地に下りて拝謝します。
孫権はすぐに潘濬を治中に任命し、荊州の軍事に関しては全て潘濬に意見を求めました荊州軍事一以諮之)
 
武陵部従事・樊伷が諸夷を誘導し、武陵を挙げて漢中王・劉備に附こうと図りました。
資治通鑑』胡三省注によると、漢制では州牧や刺史が諸郡を部し(統括し)、各郡に部従事を置きました(部従事は州の属官です)
 
(地方)の者が督(将)を選んで一万人を監督させ、樊伷の討伐に行かせるように進言しました。
しかし孫権は同意せず、特別に潘濬を招いて意見を求めました。
潘濬が答えました「五千の兵を行かせれば樊伷を捕えるに足ります(以五千兵往,足以擒伷)。」
孫権が問いました「卿はなぜこれを軽んじるのだ?」
潘濬が言いました「樊伷は南陽の旧姓で(「旧姓」は世族、古くからの大族です。『資治通鑑』胡三省注によると、南陽の樊氏は光武帝の母党(母の一族)なので、旧姓と呼ばれました)、頗る唇吻を弄ぶことができますが(弁舌は得意ですが)、実は才略がありません。臣がそれを知っているのは、樊伷は昔、州人のために饌(飲食。宴席)を設けたことがありましたが、日中(正午)に至っても(客は)食事を得られず、十余回も自ら起ちあがったからです(原文「食不可得而十余自起」。食事が出てこないため客が何回も席を立って様子を見に行ったのだと思います)。これもまた、侏儒は一節を観れば分かるという験(効果。結果)です(此亦侏儒観一節之験也)。」
最後の部分は、「樊伷が口先だけで才略がないと言ったのは、彼の行動の一部を観ただけで判断した結果です」という意味です。
「侏儒」は役者、「一節」は演技の一部で、「侏儒観一節」は「役者は演技の一部を見ればその技量が分かる」という意味です。
 
孫権は大笑してすぐに潘濬を派遣し、五千人を率いて樊伷に向かわせました。
果たして潘濬は樊伷を斬って乱を平定しました。
 
 
 
次回に続きます。