東漢時代460 献帝(百四十二) 江陵陥落 219年(8)
全ての精兵を𦩷𦪇(船の一種)の中に伏せ、白衣(平民)に櫓を漕がせました。彼等には商賈人(商人)の服を着させます。
麋芳と士仁は共に懼れを抱きます。
『三国志・呉書十二・虞陸張駱陸吾朱伝』によると、以前、孫権が虞翻を騎都尉に任命しましたが、虞翻がしばしば孫権に逆らって諫争したため(犯顔諫争)、孫権は悦べませんでした。また、虞翻の性格は俗人と協調できなかったため(性不協俗)、多数の謗毀(誹謗)を受けました。その結果、罪に坐して丹陽涇県に移されました。
本文に戻ります。
虞翻の書を得た士仁はすぐに投降しました。
虞翻が呂蒙に言いました「これは譎兵です。士仁を連れて行き、兵を留めて城の備えとするべきです(原文「此譎兵也,当将仁行,留兵備城」。「譎兵」は詐術による兵ですが、理解が困難です。『資治通鑑』胡三省注は「呂蒙が譎計(詭計・謀略)によって兵を用いたことを指している(謂蒙以譎計行兵也)」と解説しています。「此譎兵也,当将仁行,留兵備城」は「呂蒙の軍事行動は謀略を用いるべきなので、士仁(とその兵)を連れて行き、自分の兵は城に留めるべきだ」という意味だと思います)。」
呂蒙が士仁を連れて南郡に至りました。
この「閏月」は「閏十月」だと思われますが、『資治通鑑』は省いています。
また、関羽および将士の家属を得て、全て撫慰しました。
呂蒙の麾下の兵士に呂蒙と同郡の者がいました。ある時、その兵士が民家から一つの笠を取って官鎧を覆いました。官鎧は公の物でしたが、呂蒙は兵士が軍令を犯したとみなし、郷里の者であることを理由に法を廃すことはできないので、涙を流して処刑しました(垂涕斬之)。
そのため、軍中が震慄(震撼戦慄)し、道に落ちている物も拾わなくなりました(道不拾遺)。
しかし趙儼が反対してこう言いました「孫権は関羽の連兵の難を幸いとし(孫権は関羽が曹仁と戦っていることを幸いとし。原文「権邀羽連兵之難」。『資治通鑑』胡三省注は「邀は徼と書くべきだ」と解説しています。「徼」は「徼幸(幸運)」の意味です)、その後ろを襲って制しようと欲しましたが(欲掩制其後)、関羽が還って救うことを顧慮し、我々が両疲(関羽と孫権の疲弊)に乗じることを恐れたので、辞を従順にして自ら朝廷に貢献することを願いました(順辞求效)。隙に乗じて変化を利用し(状況に応じて臨機応変に行動し)、そうやって利鈍(勝敗)を観察しているだけのことです(乗釁因変以観利鈍耳)。今、関羽は既に孤迸(孤立離散)したので、更にこれを存続させて孫権の害と為すべきです。もし深入りして追北(敗北した者を追うこと)したら、孫権が向こうで虞(態度)を改め、我々に患いが生まれることになります(権則改虞於彼,将生患於我矣)。王(曹操)は必ずこれを深慮と為します(「曹操も深くこの事を考慮するはずです」または「曹操はこれを深い憂慮とするはずです」。原文「王必以此為深慮」)。」
呂蒙はいつも使者を厚遇し、城中を週遊して家家を致問(訪問)させました。(城内の)ある人は手書(手書きの書信)によって信を示しました(城内のある人は使者に手紙を渡して関羽に仕えている家族に音信を伝えました)。
孫権は人を送り、牀(寝床)をもって潘濬の家に行かせ、担いで連れて来させました(権遣人以牀就家輿致之)。潘濬は顔を牀席に伏せたまま起ちあがらず、顔中に涙を流し、哀哽(悲哀のために発する声)をこらえることができませんでした(涕泣交横,哀哽不能自勝)。
ついに潘濬が起き上がり、地に下りて拝謝します。
武陵部従事・樊伷が諸夷を誘導し、武陵を挙げて漢中王・劉備に附こうと図りました。
外(地方)の者が督(将)を選んで一万人を監督させ、樊伷の討伐に行かせるように進言しました。
しかし孫権は同意せず、特別に潘濬を招いて意見を求めました。
潘濬が答えました「五千の兵を行かせれば樊伷を捕えるに足ります(以五千兵往,足以擒伷)。」
孫権が問いました「卿はなぜこれを軽んじるのだ?」
潘濬が言いました「樊伷は南陽の旧姓で(「旧姓」は世族、古くからの大族です。『資治通鑑』胡三省注によると、南陽の樊氏は光武帝の母党(母の一族)なので、旧姓と呼ばれました)、頗る唇吻を弄ぶことができますが(弁舌は得意ですが)、実は才略がありません。臣がそれを知っているのは、樊伷は昔、州人のために饌(飲食。宴席)を設けたことがありましたが、日中(正午)に至っても(客は)食事を得られず、十余回も自ら起ちあがったからです(原文「食不可得而十余自起」。食事が出てこないため客が何回も席を立って様子を見に行ったのだと思います)。これもまた、侏儒は一節を観れば分かるという験(効果。結果)です(此亦侏儒観一節之験也)。」
最後の部分は、「樊伷が口先だけで才略がないと言ったのは、彼の行動の一部を観ただけで判断した結果です」という意味です。
「侏儒」は役者、「一節」は演技の一部で、「侏儒観一節」は「役者は演技の一部を見ればその技量が分かる」という意味です。
孫権は大笑してすぐに潘濬を派遣し、五千人を率いて樊伷に向かわせました。
果たして潘濬は樊伷を斬って乱を平定しました。
次回に続きます。