東漢時代461 献帝(百四十三) 関羽の死 219年(9)

今回も東漢献帝建安二十四年の続きです。
 
[十四(続き)] 孫権呂蒙を南郡太守に任命して孱陵侯に封じ、銭一億・黄金五百斤を下賜しました。
また、陸遜に宜都太守を領(担当)させました(領宜都太守)
 
三国志・呉書十三・陸遜伝』によると、陸遜は宜都太守を領した時、撫辺将軍に任命され、華亭侯に封じられました。
 
十一月、劉備が置いた宜都太守・樊友が郡を棄てて走りました。諸城の長吏および蛮夷の君長が全て陸遜に降ります。
陸遜は帰順したばかりの者に金・銀・銅印を授与することを請いました。
 
陸遜が蜀将・詹晏(詹が姓です。『資治通鑑』胡三省注によると、周に詹父がおり、楚に詹尹がいました)等や秭帰の大姓で兵を擁す者達を撃ちました。皆、破れて陸遜に降ります。
陸遜は秭帰を取った後、枝江、夷道も獲ました。前後して斬獲・招納した者は数万人を数えます。
孫権陸遜を右護軍・鎮西将軍に任命し、封を婁侯に進めました。蜀に備えるために戻って夷陵に駐屯させ、峽口を守らせます。
『中国歴史地図集(第三冊)』を見ると、秭帰は三国時代・呉の建平郡東漢の南郡の一部)に属し、宜都郡の西に位置します。枝江は三国時代・呉の南郡に属し、宜都郡の東に位置します。峽口は宜都郡のほぼ中央、夷道は宜都郡の東南に位置します。
 
関羽は自分が孤窮(孤立困窮)したと知って当陽に還り、西に向かって麦城を守りました。
資治通鑑』胡三省注は「南郡当陽県東南に麦城があった」と書いていますが『中国歴史地図集(第三冊)』を見ると麦城は当陽の南西(「西」というよりもほぼ「南」)にあります。
 
孫権が使者を送って関羽を誘うと、関羽は偽りの投降をしてから、城壁の上に幡旗を立て、象人(人形)を作り、(城に人がいるように見せて)その隙に遁走しました。兵が皆、解散(離散)しましたが、なお十余騎が関羽に従います。
しかし孫権があらかじめ朱然潘璋に徑路(小路。近路。ここでは帰路です)を断たせていました。
十二月、潘璋の司馬・馬忠関羽とその子・関平および都督・趙累等を章郷で捕えて斬りました。
こうして荊州が平定されます。
 
後漢書孝献帝紀』は冬十一月に「孫権荊州を取った」と書いています。
 
以下、『資治通鑑』からです。
かつて偏将軍・呉郡の人・全琮(全が氏、琮が名です)孫権に上書して関羽を攻略する計関羽可取之計)を述べました。
しかし孫権は事が洩れるのを恐れたため、上書を寝かせて答えませんでした(寝而不答)
関羽が虜になってから、孫権が公安で酒宴を開き、顧みて全琮に言いました「君が以前これを述べた時、孤(私)は答えなかったが、今日の捷(勝利)は君の功でもある(抑亦君之功也)。」
孫権は全琮を陽華亭侯に封じました。
 
孫権劉璋益州牧に戻して秭帰に駐留させました劉備益州に入ってから劉璋は公安に遷されていました。建安十九年・214年参照)
劉璋は暫くして死にました。
 
呂蒙は正式に封を受ける前に発病しました。
孫権呂蒙を迎え入れて自分の館の傍に置き、あらゆる方法を用いて治護(治療・看護)しました(所以治護者万方)。鍼を打つ時は、呂蒙のために惨慼(憂苦・悲傷)します。
孫権はしばしば呂蒙の顔色を見たいと欲しましたが、労苦・疲労させることを恐れ(恐労働)、いつも壁に穴をあけて窺いました。少しでも食事ができたのを見ると、喜んで左右を顧み、そうでなければ咄唶(嘆息)して夜も眠れませんでした(夜不能寐)
病が半分ほど治った時(病中瘳)孫権がそのために赦令大赦令)を下し、群臣が全て慶賀しました。
しかし暫くして呂蒙は死んでしまいました。四十二歳でした。
孫権は哀痛が甚だしく、呂蒙のために守冢(墓守)三百家を置きました。
 
後に孫権周瑜魯粛呂蒙について陸遜と談論し、こう言いました「公瑾周瑜は雄烈で、膽略が常人を越えていたので(膽略兼人)、ついに孟徳曹操を破り、荊州を開拓した。彼は卓越していて匹敵する者がいない(邈焉寡儔)
子敬魯粛は公瑾周瑜によって孤(私)の所に至り周瑜の推薦によって私と知り合い。原文「因公瑾致達於孤」)、孤と宴語(閑談、雑談)したら、帝王の業を大略するに及んだ。これが一つ目の痛快なことだ(此一快也)。後に孟徳曹操が劉琮荊州を獲た勢いに乗じて、数十万の衆を率いて水歩(水陸)共に下っていると張言(大言)した。孤(私)は諸将を普請(全て招くこと)し、どうするべきかを諮問したが(咨問所宜)、誰も先に答えようとせず(無適先対)、張子布(張昭)、秦文表(秦松)に至っては、共に『使者を派遣して檄(文書)を修め、これ曹操を迎えるべきだ(宜遣使脩檄迎之)』と言った。しかし、子敬魯粛はすぐに『そうしてはならない(不可)』と駮言(反論。論争)し、急いで公瑾周瑜を呼び、衆をもって付任し(軍を周瑜に委任し)曹操を)迎撃すること(逆而撃之)を孤に勧めた。これが二つ目の痛快なことである(此二快也)。後には玄徳劉備に地を貸すことを吾(私)に勧めた。これは一つの短(過失)であるが、二つの長(貢献)を損なうには足りない(是其一短,不足以損其二長也)西周の)周公は一人に全てが備わっていることを求めなかった(周公不求備於一人)。だから孤(私)はその短を忘れてその長を貴び、常に(彼を)鄧禹と比方していたのだ(鄧禹と同等だとみなしていたのだ。『資治通鑑』胡三省注によると、鄧禹の建策によって光武帝の中興の業が開かれましたが、その後の鄧禹は赤眉を平定できませんでした)
子明呂蒙が若い頃は、孤(私)(彼が)劇易(難易。困難)を辞さず、果敢で膽があるだけだとみなしていたが、その身が長大(成長)するに及び、学問が開益(増益。進歩)し、籌略(策略)が奇を極め(籌略奇至)、公瑾周瑜に次ぐ人材とみなせるようになった(可以次於公瑾)。ただ言議(言論・議論)・英発(才能が溢れる様子)が及ばなかっただけであり、関羽を取ることを図った点では、子敬魯粛に勝る。
子敬魯粛は孤(私)に答えた書でこう言った『帝王が起きる時は、皆、駆除がいるので、関羽は忌む(恐れる)に足りません(原文「帝王之起,皆有駆除,羽不足忌」。「駆除」は呉のために道を駆除する者です。関羽を残しておけば呉のために道を開いてくれるので、恐れる必要は無いという意味です)。』これは子敬魯粛が内情は関羽に)対処できず、外に対して大言しただけのことだったが(此子敬内不能辦外為大言耳)、孤(私)はこれも寛恕し、みだりに譴責しなかった(孤亦恕之,不苟責也)。しかしその作軍屯営は(「魯粛が兵を用いて屯営したら」。または「魯粛が軍の屯営を造ったら」。原文「其作軍屯営」)、命令と禁令が損なわれることなく(原文「不失令行禁止(令行禁止を失うことがない)」。「令行禁止」は「命じたら実行し禁じたら止める」という意味で、指揮が徹底していることです)、部界(管轄する界域)には廃負(職責を全うしないために罪を負った官吏)がおらず、道に物が落ちていても拾って着服する人がおらず(路無拾遺)、その法(治理の方法)もまた美しかった(其法亦美矣)。」
 
ある時、孫権于禁が馬に乗って並行しました。
すると虞翻于禁を叱責して言いました「汝は降虜(投降した捕虜、賊)だ!どうして敢えて我が君と馬首を並べられるのだ(何敢與吾君斉馬首乎)!」
虞翻が鞭を上げて于禁を撃とうとしましたが、孫権が怒鳴って止めました(呵止之)
 
 
 
次回に続きます。