東漢時代461 献帝(百四十三) 関羽の死 219年(9)
陸遜は秭帰を取った後、枝江、夷道も獲ました。前後して斬獲・招納した者は数万人を数えます。
『中国歴史地図集(第三冊)』を見ると、秭帰は三国時代・呉の建平郡(東漢の南郡の一部)に属し、宜都郡の西に位置します。枝江は三国時代・呉の南郡に属し、宜都郡の東に位置します。峽口は宜都郡のほぼ中央、夷道は宜都郡の東南に位置します。
孫権が使者を送って関羽を誘うと、関羽は偽りの投降をしてから、城壁の上に幡旗を立て、象人(人形)を作り、(城に人がいるように見せて)その隙に遁走しました。兵が皆、解散(離散)しましたが、なお十余騎が関羽に従います。
こうして荊州が平定されます。
以下、『資治通鑑』からです。
孫権は全琮を陽華亭侯に封じました。
劉璋は暫くして死にました。
呂蒙は正式に封を受ける前に発病しました。
孫権はしばしば呂蒙の顔色を見たいと欲しましたが、労苦・疲労させることを恐れ(恐労働)、いつも壁に穴をあけて窺いました。少しでも食事ができたのを見ると、喜んで左右を顧み、そうでなければ咄唶(嘆息)して夜も眠れませんでした(夜不能寐)。
しかし暫くして呂蒙は死んでしまいました。四十二歳でした。
後に孫権が周瑜、魯粛、呂蒙について陸遜と談論し、こう言いました「公瑾(周瑜)は雄烈で、膽略が常人を越えていたので(膽略兼人)、ついに孟徳(曹操)を破り、荊州を開拓した。彼は卓越していて匹敵する者がいない(邈焉寡儔)。
子敬(魯粛)は公瑾(周瑜)によって孤(私)の所に至り(周瑜の推薦によって私と知り合い。原文「因公瑾致達於孤」)、孤と宴語(閑談、雑談)したら、帝王の業を大略するに及んだ。これが一つ目の痛快なことだ(此一快也)。後に孟徳(曹操)が劉琮(荊州)を獲た勢いに乗じて、数十万の衆を率いて水歩(水陸)共に下っていると張言(大言)した。孤(私)は諸将を普請(全て招くこと)し、どうするべきかを諮問したが(咨問所宜)、誰も先に答えようとせず(無適先対)、張子布(張昭)、秦文表(秦松)に至っては、共に『使者を派遣して檄(文書)を修め、これ(曹操)を迎えるべきだ(宜遣使脩檄迎之)』と言った。しかし、子敬(魯粛)はすぐに『そうしてはならない(不可)』と駮言(反論。論争)し、急いで公瑾(周瑜)を呼び、衆をもって付任し(軍を周瑜に委任し)、(曹操を)迎撃すること(逆而撃之)を孤に勧めた。これが二つ目の痛快なことである(此二快也)。後には玄徳(劉備)に地を貸すことを吾(私)に勧めた。これは一つの短(過失)であるが、二つの長(貢献)を損なうには足りない(是其一短,不足以損其二長也)。(西周の)周公は一人に全てが備わっていることを求めなかった(周公不求備於一人)。だから孤(私)はその短を忘れてその長を貴び、常に(彼を)鄧禹と比方していたのだ(鄧禹と同等だとみなしていたのだ。『資治通鑑』胡三省注によると、鄧禹の建策によって光武帝の中興の業が開かれましたが、その後の鄧禹は赤眉を平定できませんでした)。
子明(呂蒙)が若い頃は、孤(私)は(彼が)劇易(難易。困難)を辞さず、果敢で膽があるだけだとみなしていたが、その身が長大(成長)するに及び、学問が開益(増益。進歩)し、籌略(策略)が奇を極め(籌略奇至)、公瑾(周瑜)に次ぐ人材とみなせるようになった(可以次於公瑾)。ただ言議(言論・議論)・英発(才能が溢れる様子)が及ばなかっただけであり、関羽を取ることを図った点では、子敬(魯粛)に勝る。
子敬(魯粛)は孤(私)に答えた書でこう言った『帝王が起きる時は、皆、駆除がいるので、関羽は忌む(恐れる)に足りません(原文「帝王之起,皆有駆除,羽不足忌」。「駆除」は呉のために道を駆除する者です。関羽を残しておけば呉のために道を開いてくれるので、恐れる必要は無いという意味です)。』これは子敬(魯粛)が内情は(関羽に)対処できず、外に対して大言しただけのことだったが(此子敬内不能辦外為大言耳)、孤(私)はこれも寛恕し、みだりに譴責しなかった(孤亦恕之,不苟責也)。しかしその作軍屯営は(「魯粛が兵を用いて屯営したら」。または「魯粛が軍の屯営を造ったら」。原文「其作軍屯営」)、命令と禁令が損なわれることなく(原文「不失令行禁止(令行禁止を失うことがない)」。「令行禁止」は「命じたら実行し禁じたら止める」という意味で、指揮が徹底していることです)、部界(管轄する界域)には廃負(職責を全うしないために罪を負った官吏)がおらず、道に物が落ちていても拾って着服する人がおらず(路無拾遺)、その法(治理の方法)もまた美しかった(其法亦美矣)。」
次回に続きます。