東漢時代462 献帝(百四十四) 孫権と曹操 219年(10)

今回で東漢献帝建安二十四年が終わります。
 
[十五] 『三国志・呉書二・呉主伝』からです。
この年は大疫に襲われたため、(孫権)荊州の民の租税を全て除きました。
 
[十六] 『資治通鑑』からです。
孫権が藩を称した時(魏に帰順した時)、魏王・曹操張遼等諸軍(東部で孫権に備えています)を招いて全て帰還させ、樊を救援させようとしました。しかし張遼等が樊に到着する前に包囲が解かれました。
 
徐晃が振旅(兵を整えて凱旋すること)して摩陂に戻りました。
曹操は七里外まで徐晃を出迎えに行き、大きな酒宴を開きます(置酒大会)
曹操が酒(杯)を挙げて徐晃に言いました「樊と襄陽を全うできたのは将軍の功である。」
また、桓階に厚く賞賜を与えて尚書にしました。
 
[十七] 『晋書・巻一・高祖宣帝紀』と『資治通鑑』からです。
曹操荊州の残民や漢川(『資治通鑑』胡三省注によると、この「漢川」は襄・樊の南北、漢水の左右周辺の地を指します)屯田している者を嫌い、全て移そうとしました。
これは『資治通鑑』の記述で、『晋書・高祖宣帝紀』には「曹操荊州の遺黎(移民)や潁川で屯田している者が南寇(南の賊。孫権に逼近(近接)していると考えて、全て移そうとした」とあります。「潁川」は恐らく「漢川」の誤りです。
 
司馬懿が言いました「荊楚荊州は軽脆(軟弱、脆弱)で動じ易く(これは『資治通鑑』の記述で、原文は「荊楚軽脆易動」です。『晋書・高祖宣帝紀』では「荊楚は軽脱(軽薄・軽率)で、動じ易くて安んじ難く(荊楚軽脱,易動難安)」です)関羽が破れたばかりで、諸々の悪を為した者達は逃げ隠れして様子を窺っています(藏竄観望)。今、善の者を移したらその意(心)を傷つけ、去った者を還れないようにしてしまいます(将令去者不敢復還)。」
曹操は「そのとおりだ(是也)」と言いました(民の移住を中止しました)
この後、逃亡した者達がことごとく還って本業を恢復しました。
 
[十八] 『三国志・呉書二・呉主伝』と『資治通鑑』からです。
魏王・曹操が上表して孫権を驃騎将軍(票騎将軍)に任命し、符節を授けて荊州牧を兼任させ(假節領荊州牧)、南昌侯に封じました。
孫権は校尉・梁寓を派遣して漢(朝廷)に入貢させ、王惇に命じて馬を買わせました(市馬)
また、朱光等を帰らせました(朱光は建安十九年・214年に孫権軍に捕えられました)
 
三国志・呉主伝』裴松之注によると、梁寓は字を孔儒といい、呉の人です。
孫権は梁寓を派遣して曹操を観望させました。曹操はこれを機に梁寓を掾に任命しましたが、暫くして南に還らせました。
 
以下、『資治通鑑』からです。
孫権曹操に上書して臣を称し、天命を述べて帝位に即くように説きました。
『晋書・巻一・高祖宣帝紀』では、曹操孫権を討伐して破った時に、孫権が臣と称し、天命を陳述しています。建安二十二年217年)に書きました。
 
曹操孫権の書を外に示して「こいつは(原文「是児」。若者を指す言葉です)(わし)を爐炭(炉中の炭火)の上に坐らせたいのか(是児欲踞吾著爐火上邪)」と言いました。
資治通鑑』胡三省注によると、漢は火徳によって帝王になったので、「爐火に坐らせる」というのは曹操を漢の上に加えるという意味があります。曹操孫権の書を外に示したのは、衆心を観察したかったからです。
 
侍中・陳群等がそろって言いました「漢祚(漢の国運)は既に終わっており、今日そうなったのではありません(非適今日)。殿下の功徳は巍巍(高大な様子)としており、群生(一切の生物)が注望(嘱望、期待)しています。だから孫権が遠い地で臣を称したのです。これは天人の応(天と人の反応、感応)であり、気が異なるのに声を等しくしています(原文「異気斉声」。「異気」は本質・性質が異なることです。ここでは「天・人を含む万物」を指し、「異気斉声」は「万物が意見を同じくしている」という意味だと思います。あるいは「異気」は「異なる人々」を指し、「異気斉声」は「異口同音」の意味かもしれません)。殿下は大位を正すべきです。何をまた疑うのでしょうか(躊躇するのでしょうか)。」
曹操が言いました「もし天命が吾(私)にあるのなら、吾(私)は周文王になろう(若天命在吾,吾為周文王矣)。」
西周文王は天下の三分の二を有しても殷(商)に仕え、その子・武王が殷を滅ぼして天下を統一しました。
 
この件に関して、『三国志・魏書一・武帝紀』裴松之注は三つの記述をしています。
まずは『魏略』からの引用です(上述の『資治通鑑』は『魏略』を元にしています)
孫権が上書して臣を称し、天命を述べて帝位に即くように説得すると、曹操孫権の書を外に示して「こいつは吾(わし)を爐炭(炉中の炭火)の上に坐らせたいのか(是児欲踞吾著爐火上邪)」と言いました。
侍中・陳群と尚書・桓階が上奏しました「漢は安帝以来、政(政権)が公室を去り、国統がしばしば途絶え、今に至っては、ただ名号があるだけで、尺土一民も(一尺の土地も一人の民も)全て漢が有してはいません。期運(機運)が尽きて既に久しく、歴数が終わって既に久しく、今日そうなったのではありません(非適今日也)。そのため、桓・霊桓帝霊帝の間に図緯(預言書)に明るい諸々の者が皆、『漢の行気(呼吸)は尽き、黄家が興るだろう(漢行気尽,黄家当興)』と言いました。殿下は期に応じ、天下を十分してその九を有しながら漢に服事しているので、群生が注望(嘱望、期待)し、遐邇(遠近)が怨嘆(怨恨嘆息)しています。だから孫権が遠くにおいて臣を称したのです。これは天人の応であり、気が異なるのに声を等しくしています(異気斉声)。臣の愚見によるなら(臣愚以為)、虞(舜)・夏(禹)は謙辞を用いず、殷(商)・周は誅放(誅殺放逐)を惜しみませんでした(不吝誅放)。天を畏れて命を知ったら、与譲(譲与。謙譲)しないものです(畏天知命無所與譲也)。」
 
次は『魏氏春秋』からです(『資治通鑑』は最後の部分を採用しています)
夏侯惇曹操に言いました「天下は皆、漢祚が既に尽きて異代(次の時代)が起きていることを知っています。古以来、民の害を除くことができて百姓が帰した者こそが民の主です(能除民害為百姓所帰者即民主也)。今、殿下は即戎(兵を用いること)して三十余年が経ち、黎庶(庶民)において功徳が顕著で、天下が依帰するところとなっています。天に応じて民に順じるのに、また何を疑うのでしょう(躊躇するのでしょう)。」
曹操が言いました「『政治に影響をもたらすことも、政治を為すことである(施於有政,是亦為政)』。もし天命が吾(私)にあるのなら、吾(私)は周文王になろう(若天命在吾,吾為周文王矣)。」
 
「施於有政,是亦為政」は『論語・為政篇』の言葉です。孔子は「(親に対する孝と兄弟に対する友愛)これを行って政治に影響を及ぼすのも、政治を為すことである」と言いました。実際に仕官して政治を行わなくても、身を修めて家を正せば世に影響を与えるので、政治をしているのと同じであるという意味です。曹操はこの言葉を使って自ら天子になる必要はないという意志を示しました。
 
最後は『曹瞞伝』および『世語』からです。
この二書によると、桓階が曹操に位を正す(帝位に即く)ように勧めましたが、夏侯惇は、まず蜀を滅ぼし、蜀が亡んだら呉が服すので、二方を平定してから舜・禹の軌(道)に則るべきだと考えました。曹操はこれに従います。
しかし曹操が死んでから、夏侯惇は前言を追恨(後悔)し、発病して死んでしまいました。
この記述に対して、孫盛がこう評しています「夏侯惇は漢官を恥じて魏印(魏の印綬を受けることを求めた。桓階は夏侯惇に較べて義直の節があった。彼等の伝記を考察するに、『世語』(と『曹瞞伝』)は妄(妄言。道理に合わないこと)である。」
 
 
 
次回に続きます。