東漢時代462 献帝(百四十四) 孫権と曹操 219年(10)
また、桓階に厚く賞賜を与えて尚書にしました。
これは『資治通鑑』の記述で、『晋書・高祖宣帝紀』には「曹操は荊州の遺黎(移民)や潁川で屯田している者が南寇(南の賊。孫権)に逼近(近接)していると考えて、全て移そうとした」とあります。「潁川」は恐らく「漢川」の誤りです。
司馬懿が言いました「荊楚(荊州)は軽脆(軟弱、脆弱)で動じ易く(これは『資治通鑑』の記述で、原文は「荊楚軽脆易動」です。『晋書・高祖宣帝紀』では「荊楚は軽脱(軽薄・軽率)で、動じ易くて安んじ難く(荊楚軽脱,易動難安)」です)、関羽が破れたばかりで、諸々の悪を為した者達は逃げ隠れして様子を窺っています(藏竄観望)。今、善の者を移したらその意(心)を傷つけ、去った者を還れないようにしてしまいます(将令去者不敢復還)。」
この後、逃亡した者達がことごとく還って本業を恢復しました。
以下、『資治通鑑』からです。
侍中・陳群等がそろって言いました「漢祚(漢の国運)は既に終わっており、今日そうなったのではありません(非適今日)。殿下の功徳は巍巍(高大な様子)としており、群生(一切の生物)が注望(嘱望、期待)しています。だから孫権が遠い地で臣を称したのです。これは天人の応(天と人の反応、感応)であり、気が異なるのに声を等しくしています(原文「異気斉声」。「異気」は本質・性質が異なることです。ここでは「天・人を含む万物」を指し、「異気斉声」は「万物が意見を同じくしている」という意味だと思います。あるいは「異気」は「異なる人々」を指し、「異気斉声」は「異口同音」の意味かもしれません)。殿下は大位を正すべきです。何をまた疑うのでしょうか(躊躇するのでしょうか)。」
侍中・陳群と尚書・桓階が上奏しました「漢は安帝以来、政(政権)が公室を去り、国統がしばしば途絶え、今に至っては、ただ名号があるだけで、尺土一民も(一尺の土地も一人の民も)全て漢が有してはいません。期運(機運)が尽きて既に久しく、歴数が終わって既に久しく、今日そうなったのではありません(非適今日也)。そのため、桓・霊(桓帝・霊帝)の間に図緯(預言書)に明るい諸々の者が皆、『漢の行気(呼吸)は尽き、黄家が興るだろう(漢行気尽,黄家当興)』と言いました。殿下は期に応じ、天下を十分してその九を有しながら漢に服事しているので、群生が注望(嘱望、期待)し、遐邇(遠近)が怨嘆(怨恨嘆息)しています。だから孫権が遠くにおいて臣を称したのです。これは天人の応であり、気が異なるのに声を等しくしています(異気斉声)。臣の愚見によるなら(臣愚以為)、虞(舜)・夏(禹)は謙辞を用いず、殷(商)・周は誅放(誅殺放逐)を惜しみませんでした(不吝誅放)。天を畏れて命を知ったら、与譲(譲与。謙譲)しないものです(畏天知命無所與譲也)。」
夏侯惇が曹操に言いました「天下は皆、漢祚が既に尽きて異代(次の時代)が起きていることを知っています。古以来、民の害を除くことができて百姓が帰した者こそが民の主です(能除民害為百姓所帰者即民主也)。今、殿下は即戎(兵を用いること)して三十余年が経ち、黎庶(庶民)において功徳が顕著で、天下が依帰するところとなっています。天に応じて民に順じるのに、また何を疑うのでしょう(躊躇するのでしょう)。」
「施於有政,是亦為政」は『論語・為政篇』の言葉です。孔子は「(親に対する孝と兄弟に対する友愛)これを行って政治に影響を及ぼすのも、政治を為すことである」と言いました。実際に仕官して政治を行わなくても、身を修めて家を正せば世に影響を与えるので、政治をしているのと同じであるという意味です。曹操はこの言葉を使って自ら天子になる必要はないという意志を示しました。
最後は『曹瞞伝』および『世語』からです。
この二書によると、桓階が曹操に位を正す(帝位に即く)ように勧めましたが、夏侯惇は、まず蜀を滅ぼし、蜀が亡んだら呉が服すので、二方を平定してから舜・禹の軌(道)に則るべきだと考えました。曹操はこれに従います。
この記述に対して、孫盛がこう評しています「夏侯惇は漢官を恥じて魏印(魏の印綬)を受けることを求めた。桓階は夏侯惇に較べて義直の節があった。彼等の伝記を考察するに、『世語』(と『曹瞞伝』)は妄(妄言。道理に合わないこと)である。」
次回に続きます。