東漢時代466 献帝(百四十八) 孟達 220年(4)

今回も東漢献帝延康元年の続きです。
 
[二十一] 『三国志・魏書二・文帝紀』本文および裴松之注と『資治通鑑』からです。
六月辛亥(初七日)、魏王・曹丕が東郊で治兵(閲兵)しました。
公卿が儀礼を助け(原文「公卿相儀」。誤訳かもしれません)、魏王が華蓋を御して金鼓の節を見ました(「華蓋」は帝王の車につける傘ですが、ここでは「帝王の車」を指します。「金鼓の節」は恐らく軍楽の意味ですが、ここでは「軍楽に合わせた行進」を指すと思われます)
 
庚午(二十六日)曹丕が軍を率いて南巡しました。
 
以下、『三国志・文帝紀裴松之注からです。
魏王・曹丕が出征(兵を率いての南巡)しようとした時、度支中郎将・新平の人・霍性が上書して諫めました「臣は(西周)文王と紂の事を聞いたことがあります。当時、天下は口を閉ざして咎(過失、譴責)から逃れ(原文「括囊無咎」。「括囊」は袋の口をくくるように口を閉じることです)、全ての君子が陳述しませんでした(凡百君子莫肯用訊)。今、大王の体は乾坤(天下。国家)であり、広く四聡(四方への聴覚)を開き、賢愚にそれぞれ規(意見、策謀)とするところを建てさせています(賢者にも愚者にも進言させています)(そこで臣も敢えて諫言いたします。)
伏して思うに、先王曹操の功はこれと比す者(匹敵する者)がいなかったのに、(戦争が多かったため)今、能言の類(言論を善くする者達)(先王を)徳として称賛してはいません。よって、聖人は『百姓の歓心を得よ』と言い、兵書は『戦は危事(危険な事)である』と言い、これ(この道理)によって、六国が力戦して強秦がその疲弊に乗じ(彊秦承弊)、豳王(文王)は争うことなく周道がそこから興きたのです。愚見によるなら(愚謂)、大王はしばらく重(重責)を本朝(漢朝)に委ねてその雌(柔弱、安静な態度)を守るべきであり、威を抑えて虎が臥すようにしていれば(抗威虎臥)、功業を成すことができます。ところが今、創基(創業の基礎)においてすぐにまた兵を起こしました。兵(兵器)とは凶器であり、必ず凶擾(不吉な騒擾)があります(兵者凶器,必有凶擾)。擾があったら(人々は)乱を思うようになり、乱は不意に出ます(不意に発生します)。臣がこの危うさを思うに、卵を積んだ状態よりも危険です(危于累卵)。昔、夏啓(禹の子)は三年隠神しました(精神を隠しました。表に出ませんでした)。『易』には『遠くなる前に戻る(原文「不遠而復」。「過失を犯してもひどくなる前に善に戻る」という意味です)』とあり、『論論語』には『(過失があっても)畏れず改める(不憚改)』とあります。誠に大王が過去を量って今を察し(揆古察今)、深謀遠慮して三事大夫(三公)とその長短を算じる(計算する)ことを願います。臣は先王に遇されるという恩恵を蒙り(原文「沐浴先王之遇」。この「沐浴」は「恩恵を蒙る」の意味です)、また、改政したばかりの時に曹丕が政治を始めたばかりの時に)更に重任を受たので、この言が龍鱗(逆鱗)に触れ、阿諛すれば福に近くなると知っていますが、今述べたことを心中で感じており、危険を顧みませんでした(原文「竊感所誦,危而不持」。「危而不持」は危機に臨んでも助け起こさないことで、ここでは霍性自身が危険から自分を守らないことを指します)。」
 
上奏文が通されると、曹丕は怒って刺奸(姦者を取り締まる官)を派遣し、霍性を拷問して殺してしまいました(就考竟殺之)
曹丕は暫くして後悔したため、追って霍性を赦しましたが、間に合いませんでした。
 
[二十二] 『三国志・呉書二・呉主伝』
秋、魏将・梅敷が張倹を呉に派遣し、撫納されることを求めました(呉に収容を求めました。原文「求見撫納」)
南陽に属す陰・鄼・筑陽・山都・中盧の五県の民五千家が呉に来附(帰順)しました。
 
[二十三] 『三国志・魏書二・文帝紀』からです。
秋七月庚辰(初六日)、魏王・曹丕が令を発しました「軒轅(黄帝)には明台の議(明台での討議。明台は聴政の場です。黄帝は明台で賢才を観ました)があり、放勛(帝堯)には衢室の問(衢室での諮問。帝堯は衢室で民意を聴きました)があった。皆、広く下に意見を求めるためである(所以広詢於下也)。百官・有司(官員)はその職責に基いて規諫を尽くすことに務め(務以職尽規諫)、将率(将帥)は軍法を陳述し(陳軍法)、朝士は制度を明らかにし(明制度)、牧守(州牧・太守)は政事を述べ(申政事)、縉紳は六芸を研究せよ(考六芸)。吾()はそれを兼覧しよう(全ての意見を確認しよう)。」
 
[二十四] 『三国志・魏書二・文帝紀』と『資治通鑑』からです。
孫権が使者を派遣して奉献しました。
 
『魏書』の記述なので、孫権は魏に使者を派遣したのだと思います。
 
[二十五] 『三国志・魏書二・文帝紀』と『資治通鑑』からです。
蜀の将軍・孟達が上庸に駐屯していましたが、副軍中郎将・劉封と不協(不和)でした。
劉封孟達を侵陵(侵犯・凌辱)したため、孟達は部曲四千余家を率いて魏に投降してしまいます。
 
孟達は容止才観があったため(容姿や動作が優れていて才覚があったため)、魏王・曹丕が甚だ器愛(尊重・寵愛)しました。孟達を招いて同じ輦に乗り、散騎常侍・建武将軍に任命し、平陽亭侯に封じます。
更に房陵、上庸、西城の三郡を合併して新城とし、孟達に新城太守を兼任させて(領新城太守)、西南の任を委ねました。
行軍長史・劉曄(『資治通鑑』胡三省注によると、当時、曹丕は軍を率いて南巡しており、劉曄を長史にしていました)曹丕に言いました「孟達には苟得の心(幸運によって利を得ようとする心)があり、しかも才に恃んで術(謀術)を好むので(恃才好術)、間違いなく恩に感じて義を抱くことはできません(必不能感恩懐義)。新城は孫・劉と接連(連接)しており(『資治通鑑』胡三省注によると、蜀の漢中と呉の宜都が新城と接していました)、もしも変態(態度・状態の変化)があったら、国に患いを生むことになります。」
曹丕は諫言を聞き入れませんでした。
 
曹丕は征南将軍・夏侯尚、右将軍・徐晃を派遣し、孟達と共に劉封を襲わせました。
上庸太守・申耽が劉封に叛して魏に来降します。
劉封は破れて成都に逃げ帰りました。
 
劉封は本来、羅侯(地名)・寇氏の子でした。漢中王・劉備荊州に入ったばかりの頃、まだ継嗣(後嗣)がいなかったため、寇封を養って自分の子にしました。
諸葛亮劉封が剛猛なため、易世の後(世代交代の後。劉備の死後)、最後は制御が困難になるのではないかと思慮しました。そこで今回の失敗を機に、劉備劉封を除くように勧めます。
劉備劉封に死を賜りました(自殺を命じました)
 
孟達に関しては『三国志・魏書三・明帝紀裴松之注にも記述があるので、別の場所で書きます。

東漢時代 孟達


[二十六] 『三国志・魏書二・文帝紀』と『資治通鑑』からです。
武都氐王・楊僕が種人(族人)を率いて内附(朝廷に帰順すること)しました。曹丕は)彼等を漢陽郡に住ませました。
 
[二十七] 『三国志・文帝紀裴松之注からです。
魏王・曹丕が直筆の令を発しました「先日、使者を派遣して国の威霊を宣揚したところ、孟達がすぐに来た。吾()は『春秋』が儀父春秋時代の邾子・克。邾は附庸国でしたが、『春秋』は敬意を表すために「邾子・克」を「邾儀父」と書きました。東周平王四十九年・前722年参照)を褒めたことを思ったので、即時、孟達を封拝(封爵・任命)し、還って新城太守を兼任させた(領新城太守)。最近はまた老人を助けて幼児を携え、王化に向かっている者がいる(近復有扶老携幼首向王化者)。吾()は夙沙の民が自らその君を縛って神農に帰し、豳国の衆(周王の先祖・亶父の衆)がその子を襁褓で背負って豊・鎬に入ったと聞いた。これらがどうして駆略迫脅がもたらしたものであろう。風化がその情を動かして仁義がその衷(内心)を感化させ、歓心が内から発してそうさせたのである。これを元に推察すると、西南は万里も外ではなくなる(西や南の地は万里離れていても外地ではなくなる。原文「西南将万里無外」)孫権劉備は誰と守死するのだ(原文「権備将與誰守死乎」。「守死」は「死ぬまで意思を変えないこと」で、この文は「孫権劉備は誰に対して抵抗し続けるつもりだ」という意味だと思います。または、「守死」は「死守」と同義で、「孫権劉備は誰と一緒になって死守するのだ」という意味かもしれません)。」
 
[二十八] 『三国志・魏書二・文帝紀』本文と裴松之注および『資治通鑑』からです。
甲午(二十日)、魏王・曹丕が故郷の譙に駐軍し、邑東(譙県の東)で大きな宴を開いて六軍および譙の父老を労いました。伎楽百戲(音楽・舞踏や各種の演芸)を設けます。
 
曹丕が令を発しました「先王は皆、生まれた場所を愛し(楽其所生)、礼とはその根本を忘れないものだ(礼不忘其本)。譙は霸王の邦()であり、真人(徳が高い人物)の本出(故郷)である。よって、譙の租税を二年免除する(其復譙租税二年)。」
三老・吏民が魏王の長寿を願って酒を献じ(三老吏民上寿)、日夕(夕方)になってやっと解散しました。
 
丙申(二十二日)曹丕が自ら譙陵を祀りました。
 
[二十九] 『三国志・魏書二・文帝紀』からです。
八月、石邑県が「鳳凰が止まった(または「集まった」。原文「鳳皇集」)」と報告しました。
 
 
 
次回に続きます。