東漢時代 漢中王劉備(1)

献帝建安二十四年219年)劉備が漢中王の位に即きました。

東漢時代455 献帝(百三十七) 漢中王劉備 219年(3)


以下、『三国志蜀書二先主伝』からです。
 
秋、群下(群臣)劉備を漢中王に推し、漢帝献帝に上表しました「平西将軍都亭侯馬超、左将軍長史領鎮軍将軍許靖、営司馬龐羲、議曹従事中郎軍議中郎将射援(『三国志・先主伝』裴松之注によると、射援の字は文雄といい、扶風の人です。先祖の本姓は謝といい、北地の諸謝(謝氏諸族)と同族です。始祖の謝服が将軍になって出征した時、天子が「謝服(謝罪して服す)」は令名(美名)ではないと考え、「射服」に改めさせたため、子孫がそれを氏にしました。兄の射堅は字を文固といい、若い頃から美名があったため、公府に招聘されて黄門侍郎になりました。しかし献帝の初期に三輔が飢乱したため、射堅は官を去り、弟の射援と共に南の蜀に入って劉璋を頼りました。劉璋は射堅を長史にしました。劉備劉璋に代わると、射堅を広漢や蜀郡の太守にしました。射援も若い頃から名行(名声品行)があり、太尉皇甫嵩がその才を賢と認めて娘を嫁がせました。その後、蜀の丞相諸葛亮が射援を祭酒にし、更に後に従事中郎にしました。官に就いたまま死にます)、軍師将軍諸葛亮、盪寇将軍漢寿亭侯関羽、征虜将軍新亭侯張飛、征西将軍黄忠鎮遠将軍賴恭、揚武将軍法正、興業将軍李厳等一百二十人が上表します(上言曰)
昔、唐堯は至聖でしたが四凶が朝(朝廷)におり、周成西周成王)は仁賢でしたが四国が作難し(反乱を起こし)、高后呂后が称制して諸呂が竊命し(権勢を盗み)、孝昭西漢昭帝)が幼冲(幼少)で上官が逆謀しました(叛逆を謀りました)。皆、世寵を利用し(皆馮世寵)、国権を借りて行使し(藉履国権)、凶悪を尽くして乱を極め(窮凶極乱)社稷を危うくするところでした社稷幾危)。大舜、周公、朱虚(劉章)、博陸(霍光)がいなければ、流放(追放放逐)禽討(捕縛誅滅)して、安危定傾(危機転覆から救って安定させること)することはできなかったでしょう。伏して思うに、陛下は誕姿(恐らく「立派な姿」です)聖徳によって万邦(全国)を統理(統治)していますが、厄運不造の艱(不運不幸な困難。国が衰退する危難)に遭っています。董卓が始めに難を為して京畿を転覆動乱させ董卓首難蕩覆京畿)曹操が禍を招いて天衡(天子の権威)を盗み行使し曹操階禍竊執天衡)、皇后太子が鴆殺によって害され鴆毒によって殺害され。原文「鴆殺見害」)曹操が)天下を剥乱(騒乱)させて民物(民や物)を残毀(破滅破壊)し、久しく陛下を蒙塵憂厄(流浪と困苦)させ、虚邑(人がいない貧しい村。恐らく許都を指します)に幽処(幽閉)しています。人神(人民と祭祀)に主がなくなり、曹操が)王命を遏絶(阻止隔絶)し、皇極を厭昧して(皇帝、皇権を制御して覆い隠し)、神器(皇権の象徴)を盗もうと欲しています。
左将軍司隷校尉豫荊益三州牧宜城亭侯劉備は朝廷の爵秩を受け、念(思い)は輸力(尽力)によって国難に殉じることにあります。その機兆(先兆。曹操による簒奪の兆し)を見て、赫然(憤怒の様子)として憤発したので、車騎将軍董承と共に曹操誅殺を共謀し(同謀誅操)、国家を安んじて旧都(雒陽)を克寧(安定)させようとしました。しかしたまたま董承の機事(大事)が密ではなかったため(機密が漏れてしまったため)曹操の游魂が長悪(長期の悪事)を遂げられるようにさせ、海内を残泯(破壊破滅)しています。臣等はいつも王室において、大は閻楽の禍(秦末、趙高が閻楽を送って二世皇帝を殺しました。秦二世皇帝三年207年参照)があり、小は定安の変西漢末、王莽が孺子を廃して定安公にしました。新王莽始建国元年9年参照)があることを懼れており、朝から夜まで惴惴(不安な様子)とし、戦慄して息をひそめています(夙夜惴惴戦慄累息)。昔は『虞書』に『九族を厚く遇して序列を決める(敦序九族)』とあり、周は二代(夏商)に鑑みて(周監二代)同姓を封建し、『詩詩経』がその義(意義道理)を著して長久に年を重ねました(歴載長久)。漢興の初めは、疆土(領土)を割裂し、子弟を尊んで王に立てました尊王子弟)。それによってついに諸呂の難を折り(挫折させ)、太宗の基(文帝の功業の基礎)を成すことができたのです。臣等が思うに、劉備は肺腑の枝葉(皇室の一族)、宗子の藩翰(皇族の子弟で王室を守る重臣であり、心には国家があり、念は乱を静めることにあります(心存国家,念在弭乱)曹操を漢中で破ってから、海内の英雄が名声を聞いて蟻が集まるように帰附しているのに(海内英雄望風蟻附)、爵号が顕かではなく(高くなく)、九錫がまだ加えられていないのは、社稷を鎮衛(守護)して万世に(功績を)光昭(発揚高揚)することにはなりません。
劉備は)(詔)を奉じて外におり、礼命(皇帝の命)が断絶しています。昔、河西太守梁統等はちょうど漢の中興の時に当たりましたが、山河に阻まれており、官位が同じで権力が等しかったため、互いに統率することができませんでした(限於山河位同権均不能相率)。そこで皆が竇融を推して元帥とし、最後は效績(功績)を立てて隗囂を摧破しました(打ち破りました)。今の社稷の難は隴蜀より急です。曹操が外で天下を併呑し、内で群臣を害し(外吞天下,内残群れ寮)、朝廷には蕭墻の危(内乱の危機)があるのに、(天子が)侵略を防ぐ者を設けないのは、心を寒くさせます(禦侮未建可為寒心)。そこで臣等は旧典に則り、劉備を漢中王に封じ、大司馬に拝し(任命し)、六軍を董斉(統率)させ、同盟を糾合して凶逆を掃滅することにしました。漢中広漢犍為をもって国とし、署置(任官配置)は漢初の諸侯王の故典(旧典)に則ります。権宜の制臨機応変な制度、方法)とは、とりあえず社稷を利すのなら、専断も許されるものです(苟利社稷専之可也)。その後、功が成って事が立ったら、臣等は退いて矯罪(勝手に天子の詔を作った罪)に伏します。たとえ死んでも恨みはありません。」
 
こうして沔陽に壇場が設けられました。兵を並べて陣を布き(陳兵列衆)、群臣が陪位(同席)し、奏(上奏文)を読み終えてから、劉備に王冠を進めます。
 
 
次回に続きます。

東漢時代 漢中王劉備(2)