東漢時代 漢中王劉備(2)

献帝建安二十四年219年)劉備が漢中王の位に即きました。

東漢時代455 献帝(百三十七) 漢中王劉備 219年(3)

東漢時代 漢中王劉備(1)

 

劉備が上書して漢帝に言いました「臣は具臣の才(臣下の列に加わるだけの凡庸な才)によって上将の任を負い、三軍を董督(総督)し、外において辞(詔)を奉じていますが、寇難を掃除して王室を靖匡することができず(皇室を安んじて正すことができず)、久しく陛下の聖教を陵遅(衰退)させ、六合(上下と四方。天下)の内が混乱したままで泰平にできないので(否而未泰)、これを憂いて眠りにつけず(原文「惟憂反側」。「反側」は何回も寝返りを打つことで、眠れない様子です)、頭痛を病んだようにうなされています(原文「疢如疾首」。「疢」は「病」、「疾首」は「頭痛」で、直訳すると「頭痛のような病」です。激しい憂慮心痛を表す比喩として使います)

以前、董卓が乱階(乱の発端)を造り、その後、群兇(群凶)が縦横して海内を残剥(破壊搾取)しましたが、陛下の聖徳威霊に頼り(聖徳威霊のおかげで)人と神が共に応じ、あるいは忠義(の士)が奮討し、あるいは上天が罰を降したので、暴虐が並んで倒れて徐々に氷が融けるように消滅しました(暴逆並殪以漸冰消)。しかし曹操だけは久しく梟除(誅滅)されず、国権を侵擅(侵犯専断)し、心を恣にして乱を極めています。臣は昔、車騎将軍董承と曹操討滅を図りましたが(図謀討操)、機事が密ではなかったため、董承は害に陥らされ(殺害され。原文「承見陷害」)、臣(私)は流亡して拠点を失い、忠義を果たせませんでした(播越失拠忠義不果)。その結果、ついに曹操に凶を尽くして逆を極めさせることになり(窮凶極逆)、主后(皇后)が戮殺(殺戮)され、皇子が鴆害鴆毒による殺害)されました。たとえ同盟を糾合し、念が奮力にあっても(力を奮いたいと思っていても)、軟弱で勇武がないので、年を経ても成果がなく(懦弱不武,歴年未效)、常に殞没(死亡。漢帝よりも先に自分が死ぬこと)して国恩に孤負すること(裏切ること)を恐れ、寝ても覚めても長嘆し、朝から夜まで危難に臨んだ時のように心を引き締めています(寤寐永歎,夕惕若厲)

今、臣の群寮はこう考えています。昔、『虞書』に『九族を厚く遇して序列を決め、衆明(多数の賢明な士)を輔翼にする(敦叙九族,庶明勵翼)』とあり、五帝は損益しましたが(五帝はそれぞれ前の時代の制度を修正してきましたが)、この道(『虞書』の道理)は廃しませんでした。周は二代(夏商)に鑑み、諸姫氏を並べて封建しました周監二代並建諸姫)(そのおかげで)実に晋鄭による夾輔(補佐)の福に頼ることができたのです。高祖は龍興(帝王が興隆すること)してから子弟を尊んで王とし、大いに九国を啓き(開き)、その結果、最後は諸呂を斬って大宗を安んじました。今、曹操は直を嫌って正を憎み(悪直醜正)、実に多くの徒を集め(原文は「寔繁有徒」ですが、通常は「実繁有徒」と書きます)、禍心(悪を為す心)を隠し持ち(包藏禍心)、簒盗(の意志)が顕かになっています。既に宗室が微弱になり、帝族に位がないので(官位に就いている皇族もいないので)(臣の群寮は)古式(古の方法)を斟酌(考慮)し、暫時、権宜に則って(原文「依假権宜」。「依假」は暫定的に用いること、「権宜」は臨機応変かつ適切な処置です。ここでは皇帝の許可を待たず、暫定的に適切な処置をするという意味です)、臣(私)を大司馬漢中王に推しました(上臣大司馬漢中王)。臣は伏して自ら三省し、国の厚恩を受けて一方の任を負いながら、力を出しても成果がなく(陳力未效)、獲ているもの(地位官職)が既に度を過ぎているので(所獲已過)、また高位を忝くして(能力がないのに高位に就いて)罪謗(罪や批判)を重ねるべきではないと考えました。しかし群寮が義によって臣に逼迫しました(「群寮が義によって臣に王を称すように要求しました」。または「群寮も逼られているので、義によって臣に迫りました」。原文「群寮見逼迫臣以義」)。臣が退いて思うに、寇賊が誅されず(寇賊不梟)、国難がまだ止まず、宗廟が傾危(転覆の危機)にあり、社稷が墜ちようとしており(消滅しようとしており)(これらの状況が)臣の憂責碎首の負(憂慮自責して命を懸けるべき負担、責任)と成っています。もし権に応じて変に通じることで(原文「応権通変」。臨機応変に適切な対処をすることで)、聖朝を寧靖(安寧)にできるのなら、たとえ水火に赴くとしても、辞すことではなく、敢えて常宜(通常の道義)を考慮して後悔を防ぐつもりです(原文「雖赴水火所不得辞,敢慮常宜以防後悔」。後半は誤訳かもしれません。本来は、「後悔しないために、敢えて通常の道義を考慮せず、臨時の手段として王位に即くつもりです」という意味だと思います)。よって、衆議に順じて印璽を拝受し、そうすることで国威を崇めます。仰いでこの爵号を思うに、位が高く寵が厚く、俯して(伏して)報效(恩に報いて尽力すること)を思うに、憂いが深く責(責任)が重いので、驚き怖れて息をひそめ、深谷に臨んだ時のようです(驚怖累息如臨于谷)。力を尽くして忠誠を捧げ(尽力輸誠)、六師(六軍)を奨厲(奨励)し、群義(諸義士)を率斉(統率)し、天に応じて時に順じ、凶逆を撲討(討伐)することで、社稷を安寧にし、国恩の万分の一だけにでも報いるつもりです(以寧社稷以万分)。謹んで拝章し(「拝章」は上奏文を献上することです)(拝章に使う)(駅馬、駅車)によって授かっていた左将軍宜城亭侯の印綬を上還(返上)します。」