東漢時代 魏王曹操
献帝建安二十一年(216年)、魏公・曹操が魏王になりました。
東漢時代446 献帝(百二十八) 魏王曹操と崔琰 216年(1)
朕は不徳によって先祖の弘業(大業)を継承したが(継序弘業)、天下が崩壊して群凶が害毒をほしいままにする時代に遭い(遭率土分崩群兇縦毒)、西から東に移動して辛苦困窮した(自西徂東辛苦卑約)。その際に当たっては、ただ危難に溺れ入り、先帝の聖徳を辱めることだけを恐れた(唯恐溺入于難以羞先帝之聖徳)。しかし皇天の霊に頼り(皇天の霊のおかげで)、君(曹操)に義を持って身を奮わせ(秉義奮身)、神武を迅速に発揮させ(震迅神武)、艱難から朕を防ぎ(捍朕于艱難)、宗廟の安全を保つことができた(獲保宗廟)。華夏(中華)の遺民で気を含む類の者は(息をしている者、生きている者は。原文「含気之倫」)、(曹操の恩恵を)蒙らない者がいない。君の勤(勤労)は稷(后稷。周の始祖)・禹を過ぎ、忠は伊・周(伊尹・周公)と等しいのに、謙譲によってそれ(功績)を覆い隠し(掩之以謙讓)、ますます恭敬な態度をとることでそれを守っている(守之以彌恭)。そのため、以前、初めて魏国を開き、君に土宇(国土)を下賜したが(錫君土宇)、君が命に違えることを懼れ、君が固辞することを考慮したので、暫くは志(意向)を胸に抱きながら意を屈して(懐志屈意)、君を封じて上公にした(封王はせず、公爵にした)。(曹操の)高義を尊んでそれに順じ、そうして勳績(勲功・業績)を待とうと欲したのである(欲以欽順高義須俟勳績)。
やがて韓遂・宋建が南の巴・蜀と結び、群逆が合従し、社稷を危うくさせようと図ると、君はまた将に命じ、龍驤虎奮して(「龍驤」は龍が飛翔すること、「虎奮」は虎が奮い立つことで、武威を発揮することの比喩です)その元首(頭。首)を曝し(梟其元首)、その窟栖(すみか)を屠した(皆殺しにした)。西征するに至ると、陽平の役では自ら甲冑を身につけて険阻(な地)に深入りし、蝥賊(害虫)を取り除き(芟夷蝥賊)、凶醜を消滅させ(殄其兇醜)、西の辺境を平定して(盪定西陲)、万里に旗を掲げ(懸旌万里)、声教(名声と教化)が遠くに振るい(声教遠振)、我が区宇(天地。天下)を安寧にした(寧我区宇)。
唐・虞の盛においては(堯舜の盛時においては)三后(恐らく夏商周の始祖に当たる禹・契・后稷です)が功を樹立し、文・武の興においては(西周文王・武王が興隆した時は)旦・奭が作輔し(周公と召公が補佐の大臣になり)、二祖の成業においては(高祖と光武帝が大業を成した時は)英豪が命を輔佐した(曹操の功績もこれらと同じである)。聖哲の君をもって事を自分の任と為しても(堯・舜等の聖哲な君子が政事を自分の任務・責任としていても)、なお土地を下賜して瑞(諸侯の証しとなる玉)を与えることで功臣に報いたのだ(錫士班瑞以報功臣)。朕のように寡徳で、君に頼ることで救われているのに、賞典(賞賜・典礼)が充分でない者がいるだろうか(豈有如朕寡徳仗君以済而賞典不豊)。(賞典を充分にせず)どのようにして神祇(「祇」も「神」の意味です)に答えて万方(天下)を慰めるのか。
よって今、君の爵を進めて魏王にし、使持節・行御史大夫(符節を持った使者で御史大夫代行)・宗正・劉艾に策璽(任命の策書と印璽)と白茅で包んだ玄土(「玄土」は「黒土」で、北方の領土を象徴します。白茅で包んだ土を与えるのは封侯を意味します。原文は「玄土之社,苴以白茅」ですが、「之社」は省いて「玄土苴以白茅」と解釈しました。「玄土之社」は「北方の土地神」です)、金虎符第一から第五、竹使符第一から第十(「金虎符」と「竹使符」は兵を動員したり徴集する時に使う符です)を奉じさせる(劉艾にこれらを持たせて曹操に授けさせる)。君は王位を正せ。丞相として冀州牧を領すのは今まで通りとする(以丞相領冀州牧如故)。魏公の璽綬・符冊(符節・任命書)を返上せよ。謹んで朕の命に服し、汝の衆をよく考慮していたわり、諸事を克服して安定させ、そうすることで我が祖宗の美命を高揚させよ(敬服朕命,簡恤爾衆,克綏庶績,以揚我祖宗之休命)。」
また、献帝は手詔(手書きの詔書)を曹操に与えました「大聖は功徳を高美とし、忠和を典訓とするので、創業して名を残し、百世にわたって敬慕させることができ(刱業垂名使百世可希)、道を行って制義(制宜。状況に適した方法を制定すること)し、その力行(努力と実践)を模範とさせさせることができ(行道制義使力行可效)、それによって勳烈(功績)が無窮になり、美光が卓越するのである(休光茂著)。稷・契は元首(堯・舜)の聡明を上に戴き、周・邵(周公・召公)は文・武(文王・武王)の智用(智慧を運用すること)を頼りにし、確かに庶官(諸官)を経営したので、仰いだら嘆息し、俯いたら思念するが(稷・契や周・邵に対して感嘆敬慕するが。原文「仰歎俯思」)、その対(回答。封爵時の受け答え)がどうして君のよう(謙譲・恭敬の様子)であっただろう(其対豈有若君者哉)。朕は古人の功があのように美しいことを考え(朕惟古人之功,美之如彼)、君の忠勤の績(功績)がこのように盛んであることを思うので(思君忠勤之績,茂之如此)、いつも符に彫刻して瑞を加工したり(鏤符析瑞)、礼命(任命)を冊書に述べようとしており(陳礼命冊)、寝ても覚めても感慨して(気持ちがたかぶり。原文「寤寐慨然」)、自ら守文の不徳を忘れるのである(原文「自忘守文之不徳焉」。「守文」は先代の法度を守ることで、ここでの「文」は功臣には封爵するという大聖の制度を指します。「守文之不徳」は「守文における不徳」「守文ができていないという不徳(曹操に相応しい爵位を与えていないという不徳)」の意味か、「守文するだけの不徳な身」という意味だと思います。全体の意味は「曹操に王位を与える準備をすることで、気持ちが高揚して、自分が不徳であることを忘れてしまう」といった感じだと思いますが、誤訳かもしれません)。今、君は重ねて朕の命に違え、固辞して懇切だったが、それは朕の心にそい、しかも後世に訓す(教え導く)方法ではない(非所以称朕心而訓後世也)。志を抑えて節を制し、これ以上固辞してはならない(其抑志撙節勿復固辞)。」
『四体書勢序』では、梁鵠が公(曹操)を(雒陽)北部尉にしましたが、『曹瞞伝』では尚書右丞・司馬建公によって(曹操が北部尉に)挙げられています。
裴松之が司馬防について書いています「司馬彪の『(続漢書)序伝』を調べると、建公は(尚書)右丞になっていないが、恐らくそれは間違いだろう(疑此不然)。王隠の『晋書』では、趙王(司馬倫。司馬懿の子)が帝位を簒奪した時、祖(祖父)を尊んで帝にしたいと欲し、博士・馬平が議して『京兆府君(司馬防)は昔、魏武帝を挙げて北部尉にしたので、賊が界(領内)を侵さなくなりました』と称えた。このようであるので、(司馬防が尚書右丞になり、曹操を挙げたとする説には)証拠があることになる(如此則為有徵)。」