新朝・更始時代に入る前に

今回から王莽の新朝と更始政権の時代が始まります。まずは概略です。
 
新王朝
西漢王莽(孺子)始初元年8年)西漢外戚王莽が新王朝建国を宣言し、翌年に改元して新始建国元年9年)としました。王莽が皇帝の位に即き、西漢帝国が滅びます。
 
国史では王朝が代わることを「易姓」といいます。「易」は「代わる」という意味で、「姓が代わる」とは統治者である帝王家が交代することを意味します。
西漢以前の「易姓政権交代」を見ると、夏から商(殷)への移り変わりでは夏王・桀を商王・成湯が討伐し、商から周への移り変わりでは商王・紂を西周文王と武王が討伐しました。
西周が衰えると長い分裂の時代である春秋戦国時代に入り、秦が周を滅ぼしました。その秦は二世皇帝の時代に再び分裂を招き、楚に滅ぼされました。
その後、混乱した天下を統一したのが西漢高帝・劉邦でした。
このように夏から漢までの歴代政権は、全て戦乱の中で滅ぼされています。
 
しかし、西漢から帝位を奪った王莽は、これらとは異なる「易姓政権交代」の方法を確立しました。「禅譲」です。
禅譲」とは、統治者が徳を持つ者に政権を譲ることで、伝説の時代の帝堯や帝舜が行ったといわれています。
王莽は西漢王朝の衰退を徳が衰えたためだと宣伝し、太古の帝王に倣って平和的に政権を譲り受けたという形を作りました。
王莽が立てた王朝はそれ以前の騒乱を共にする新国家の誕生とは異なり、旧王朝の内部から徐々に成長して静かに政権を樹立させた王朝でした。
 
王莽は西漢時代に新都侯に封じられていたことから国号を「新」としました。
しかし王朝名とは反対に、王莽が目指したのは「復古」でした。儒学が理想とする西周初期の社会こそが正しい社会だと信じ、様々な改革を行います。
主な内容は;
職官制度の改変
均田制の施行
奴婢の売買の禁止
五均賖貸、六管等の経済政策の実施
貨幣制度の改変
等が挙げられます。
 
王莽はこれらの政策を短期間で推し進めていきましたが、その多くが時代に逆行した改革であり、しかも頻繁に新しい政策が発布されるたびに、地名、官名、貨幣等が変更されたため、社会の混乱を招くことになりました。
更には匈奴、西域、高句麗西南夷を完全に夷狄とみなして高圧的な態度をとったため、周辺諸国との対立も招きます。
 
 
更始政権
前述の通り、王莽は静かに平和裏に政権を手に入れました。しかしそれは騒乱の時代を経験することがなかったため、旧勢力を徹底的に排除できなかったことを意味します。
社会の混乱にともなって、民衆は漢の世を懐かしむようになり、劉氏が再び天下を治めることを望むようになりました。各地で王莽に反対する挙兵が相次ぎ、天下は群雄割拠の混戦状態に陥っていきます。
 
最初に大きな勢力を擁したのは、荊州を中心とした「緑林」と、山東で蜂起した「赤眉」でした。
「緑林」はやがて「下江兵」と「新市兵」に分かれ、「新市兵」に呼応して「平林兵」も挙兵しました。下江兵、新市兵、平林兵の勢力は南陽で挙兵した劉縯・劉秀兄弟とも連合して新王朝の軍と戦い、勢力を拡大していきます。
 
新王莽地皇四年23年)、下江兵、新市兵、平林兵と劉縯の連合勢力は漢の皇族である劉玄を皇帝に立てて更始元年に改元しました。劉玄は更始帝といい、この政権は中国では「玄漢」と呼ばれています。
同年、更始軍が王莽の新王朝を滅ぼしました。建国からわずか十五年のことです。
 
新王朝を滅ぼした更始政権は長安に都を置きましたが、政治を正すことなく、天下は混乱したままでした。
山東で拡大していた赤眉は更始政権に投降しましたが、すぐに離反することになります。
それ以外にも王郎、公孫述等が独立し、更には更始政権に属していた劉縯が殺されてから、劉縯の弟・劉秀も更始政権から離れていきました。
劉秀は河北を討伐して王郎を滅ぼし、着々と足場を固めて玄漢劉玄更始三年(25年)に皇帝を名乗ります。これが東漢光武帝です。
 
同年、赤眉も漢の皇族・劉盆子を皇帝に擁立して更始政権に対抗しました。
更始政権は内部でも分裂が発生し、建国わずか三年で赤眉軍に滅ぼされます。
 
その約十年後に天下は東漢光武帝によって再統一されます。
 
次回から王莽の新王朝923年)と、劉玄の更始政権2325年)の時代に入ります。約十七年という短い時代です。
 
 
参考文献
今までと同じく、『資治通鑑』と正史の本紀を中心にします。
正史は『漢書』と『後漢書』です。
但し、王莽と更始帝は本紀がないので、『漢書・王莽伝中(巻六十九中)』『王莽伝下(巻六十九下)』『後漢書劉玄劉盆子列伝(巻十一)』を本紀とみなして全訳します。
これらの他にも必要に応じて他の列伝や『東観漢記』等から引用します。



次回から王莽の新朝です。

新更始時代1 新王莽(一) 王莽



新更始時代目録