2015-05-01から1ヶ月間の記事一覧

春秋時代137 東周簡王(十九) 彭城の戦い 前572年

今回で東周簡王の時代が終わります。 簡王十四年 前572年 己丑 [一] 春正月、魯襄公が即位しました。この年、四歳です。 [二] 己亥(恐らく「乙亥」の誤り。二十五日)、晋の欒黶、魯の仲孫蔑、宋の華元、衛の甯殖および曹人・莒人・邾人・滕人・薛人が彭城…

春秋時代 晋悼公

晋で悼公が即位しました。 春秋時代136 東周簡王(十八) 晋悼公の政治 前573年(2) 『国語・晋語七』に悼公の政策と人事に関する記述があるので、ここで紹介します。 晋悼公は即位すると百事(政事)を議定し、百官を任命しました。厲公時代までの旧制が改めら…

春秋時代136 東周簡王(十八) 晋悼公の政治 前573年(2)

今回は東周簡王十三年の続きです。 [五] 二月乙酉朔、晋悼公(周子)が朝廷で正式に即位しました。 『史記・晋世家』から十四歳で即位した悼公の言葉です「大父(祖父)と父は即位することができず、周に難を避けて客死(他国で死ぬこと)した。寡人はもとも…

春秋時代 孫周(晋悼公)

晋で悼公が即位しました。悼公は晋の覇業を恢復する名君です。 春秋時代135 東周簡王(十七) 周子の帰国 前573年(1) 『国語・周語下』には即位前の悼公の話が書かれています。 晋悼公は周子(孫周)といい、即位前は周の単襄公に仕えていました。 周子は立っ…

春秋時代135 東周簡王(十七) 周子の帰国 前573年(1)

今回は東周簡王十三年です。二回に分けます。 簡王十三年 前573年 戊子 [一] 春正月庚申(初五日)、晋の欒書と荀偃(中行偃)が程滑を翼に派遣して、前年捕えた厲公を殺しました。厲公の在位年数は八年になります。 『史記・晋世家』には、厲公は捕えられて…

春秋時代134 東周簡王(十六) 郤氏討伐 前574年(2)

今回は東周簡王十二年の続きです。 [十四] 晋厲公は贅沢を好み、外嬖(寵愛する大夫。胥童・夷陽五・長魚矯等)も多数いました。 鄢陵の戦い(前年)で晋が大勝したため、慢心した厲公は諸大夫を退けて左右の近臣を抜擢しようとしました。 胥童(胥之昧。之…

春秋時代133 東周簡王(十五) 斉の内乱 前574年(1)

今回は東周簡王十二年です。二回に分けます。 簡王十二年 前574年 丁亥 [一] 春正月、鄭の子駟が晋の虚と滑を侵しました。 衛の北宮括(または「北宮結」。成公の曾孫)が晋を援けるため、鄭を攻めて高氏に至りました。 夏五月、鄭が太子・髡頑と大夫・侯獳…

春秋時代 郤至の入朝

東周簡王十一年(前575年)、鄢陵で楚に大勝した晋は、郤至を周に送って戦勝を報告しました。 本編は『春秋左氏伝』の内容を元にしました。 春秋時代132 東周簡王(十四) 叔孫僑如の亡命 前575年(4) ここでは『国語・周語中』の記述を紹介します。 郤至が簡王…

春秋時代132 東周簡王(十四) 叔孫僑如の亡命 前575年(4)

今回で東周簡王十一年が終わります。 [十四] 秋、晋侯(厲公)・魯公(成公)・斉侯(霊公)・衛侯(献公)と宋の華元および邾人が沙隨(宋地)で会見しました。鄭討伐の相談がされます。 これ以前に魯の叔孫僑如(宣伯)が使者を送って晋の郤犨にこう伝えま…

春秋時代131 東周簡王(十三) 鄢陵の戦い(後) 前575年(3)

今回も東周簡王十一年の続きです。 [十二] 六月癸巳(二十八日。前回の内容は二十九日のことです。一日前にさかのぼります)、楚の潘尫の子・潘党と養由基が射術の腕を披露するため、甲(鎧)に矢を射ました。矢は七札(層)を貫きます(当時の革甲は通常、…

春秋時代130 東周簡王(十二) 鄢陵の戦い(中) 前575年(2)

今回は東周簡王十一年の続きです。 [十一] 六月甲午晦(二十九日)、楚が早朝から晋軍に接近して陣を構え始めました。東夷の兵を率いています。 晋の軍吏(将士)が憂いてどう対応するか話しあいました。 すると、公族大夫の士匄(范匄。士燮の子)が小走り…

春秋時代 士燮の諫言

鄢陵の戦いの前、晋の士燮が戦いに反対しました。 春秋時代129 東周簡王(十一) 鄢陵の戦い(前) 前575年 ここでは士燮の言葉を『国語・晋語六』から紹介します。 鄢陵の役で晋が鄭を攻撃したため、荊(楚)が救援に来ました。晋の大夫達は楚との決戦を望みま…

春秋時代129 東周簡王(十一) 鄢陵の戦い(前) 前575年(1)

今回は東周簡王十一年です。四回に分けます。 簡王十一年 前575年 丙戊 [一] 春正月、魯で雨が降り、木冰(雨や霧が寒冷によって凍り、樹木が白くなること)になりました。 [二] 春、楚共王が武城から公子・成を鄭に派遣し、汝陰の田(汝水南の地)を譲るこ…

春秋時代128 東周簡王(十) 宋大夫の出奔 前576年

今回は東周簡王十年です。 簡王十年 前576年 乙酉 [一] 春二月、衛が定公を埋葬しました。 [二] 三月乙巳(初三日)、魯の仲嬰斉(仲遂の子。公孫帰父の弟。嬰斉の子孫は仲氏を名乗りました)が死にました。 [三] 癸丑(十一日)、晋侯(厲公)、魯公(成公)…

春秋時代127 東周簡王(九) 衛献公即位 前577年

今回は簡王九年です。 簡王九年 前577年 甲申 [一] 春正月、莒子・朱(渠丘公)が死にました。子の密州(犂比公)が継ぎます。 楊伯峻の『春秋左伝注(成公十四年)』には、渠丘公の名が「季佗」と書かれています。しかし『世本(秦嘉謨輯補本)』には「季佗…

春秋時代126 東周簡王(八) 絶秦書 前578年(2)

今回は東周簡王八年の続きです。 [四] 夏四月戊午(初五日)、晋厲公が呂相(魏相。魏錡の子)を秦に送って断絶を告げました。この時の文書を「絶秦書」といいます。 「昔、我が献公と貴国の穆公は友好を築いて協力し合い、盟誓によって両国の関係を表明し、…

春秋時代125 東周簡王(七) 叔孫僑如と仲孫蔑 前578年(1)

今回は東周簡王八年です。二回に分けます。 簡王八年 前578年 癸未 [一] 春、晋厲公が郤錡(駒伯)を魯に派遣して出兵を求めました。秦を攻めるためです。 しかしその時の態度が不敬だったため、魯の仲孫蔑(孟献子)が言いました「郤氏は亡ぶだろう。礼とは…

春秋時代124 東周簡王(六) 第一次弭兵の会 前580~579年

今回は東周簡王六年と七年です。 簡王六年 前580年 辛巳 [一] 晋は魯成公が楚に通じていると疑い、帰国を許可しませんでした(前年)。 春三月、魯成公が晋と盟を結ぶことを求めたため、晋は魯成公を帰国させました。 晋厲公が郤犨(または「郤州」。郤豹の…

春秋時代123 東周簡王(五) 晋景公の死 前581年

今回は東周簡王五年です。 簡王五年 前581年 庚辰 [一] 春、晋景公が大夫・糴茷を楚に送りました。前年、楚の大宰・子商が晋を訪問したことへの答礼です。 [二] 衛定公の弟・子叔黒背が鄭を攻撃しました。晋の命による戦いです。 [三] 鄭の公子・班(子如)…

春秋時代122 東周簡王(四) 鄭の背反 前582年

今回は東周簡王四年と五年です。 簡王四年 前582年 己卯 [一] 春正月、杞桓公が魯に入朝し、前年死んだ叔姫の霊柩を受け取って帰国しました。 叔姫は杞桓公に嫁ぎましたが、離縁されて(東周定王二十一年・前586年参照)魯に帰国してから死にました。魯が遺…

春秋時代 趙氏孤児

東周簡王三年(晋景公十七年・前583年)、晋の趙同と趙括が族滅され、趙武が趙氏を継ぎました。 春秋時代121 東周簡王(三) 晋の趙武 前583年 『史記・趙世家』は「趙氏孤児」の話を載せています。本編の内容とは大きく異なるので、ここで紹介します。 以前、…

春秋時代121 東周簡王(三) 晋の趙武 前583年

今回は東周簡王三年です。 簡王三年 前583年 戊寅 [一] 春、晋景公が韓穿を魯に派遣して汶陽の田(地)について交渉し、斉への返還を要求しました。 季孫行父(季文子)が宴を設けて私人の立場で言いました「大国の行為に義があるからこそ、盟主になることが…

春秋時代120 東周簡王(二) 晋呉の国交 前584年

今回は東周簡王二年です。 簡王二年 前584年 丁丑 [一] 春正月、魯で鼷鼠(小さい鼠)が郊牛(郊祭の犠牲に使う牛)の角をかじったため、改めて祭祀で使う牛を卜いました。しかしその牛の角も鼷鼠にかじられたため、牛の卜いをあきらめました。 [二] 春、呉…

春秋時代119 東周簡王(一) 晋の遷都 前585年

今回から東周簡王の時代です。 簡王 定王が死んで子の夷が立ちました。これを簡王といいます。 簡王元年 前585年 丙子 [一] 春正月、魯成公が蟲牢の会(前年)から帰国しました。 [二] 鄭悼公が晋に行き、講和の成立を謝しました。子游(公子・偃)が相(儀…

春秋時代118 東周定王(二十三) 呉国登場 前587~586年

今回で東周定王の時代が終わります。 定王二十年 前587年 甲戍 [一] 春、宋の華元が魯を聘問しました。宋共公が二年前に即位したばかりなので、魯との関係を厚くすることが目的です。 [二] 三月壬申(楊伯峻『春秋左伝注』によるとこの年三月に壬申の日はな…

春秋時代117 東周定王(二十二) 宋文公の厚葬 前588年

今回は東周定王十九年です。 定王十九年 前588年 癸酉 [一] 春正月、晋景公・魯成公・宋共公・衛定公・曹宣公が鄭を攻め、伯牛(恐らく鄭地)に駐軍しました。邲の役(東周定王十年・前597年)の報復です。 鄭の公子・偃(子游。鄭穆公の子)が諸侯の軍に対…