2018-02-01から1ヶ月間の記事一覧

東漢時代99 章帝(五) 第五倫 77年(2)

今回は東漢章帝建初二年の続きです。 [六(続き)] 馬太后はかつて三輔に詔を発し、諸馬(馬氏)の婚親(親族縁戚)で郡県に属託(依託。私事を頼むこと)して吏治を干乱(干渉して乱すこと)する者がいたら法に則って報告させました(以法聞)。 太夫人(太后…

東漢時代98 章帝(四) 馬太后 77年(1)

今回は東漢章帝建初二年です。二回に分けます。 東漢章帝建初二年 丁丑 77年 [一] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』からです。 春三月辛丑、章帝が詔を発しました「比年(近年。連年)、陰陽が不調で飢饉が相次いで到っている。深く先帝の憂人の本(民に代わって憂…

東漢時代97 章帝(三) 東平王劉蒼 76年(3)

今回で東漢章帝建初元年が終わります。 [七] 『資治通鑑』からです。 東平王・劉蒼(光武帝の子。明帝の同母弟)が三点の便宜(国政に利益がある事項)を上書しました(上便宜三事)。 章帝が書を送って応えました「最近、吏民の奏事にもこの言があった。し…

東漢時代96 章帝(二) 耿恭帰還 76年(2)

今回は東漢章帝建初元年の続きです。 [三] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』からです。 二月、武陵の澧中蛮が叛しました。 [四] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』と『資治通鑑』からです。 酒泉太守・段彭等が柳中で兵を集結させ、車師を撃って交河城を攻めました。 『資治…

東漢時代95 章帝(一) 楊終の上書 76年(1)

今回から東漢章帝の時代です。 粛宗孝章皇帝 名を劉炟といいます。実母は賈貴人ですが、馬后が母として養い、明帝の嫡子になりました。 『後漢書・粛宗孝章帝紀』によると、章帝は顕宗明帝の第五子で、明帝永平三年(60年)に皇太子に立てられました。幼い頃…

東漢時代94 明帝(二十三) 外戚馬氏 75年(3)

今回で東漢明帝永平十八年が終わります。 [十四] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』と『資治通鑑』からです。 甲辰晦、日食がありました。 章帝は正殿を避けて生活し、兵事を中止して(寑兵)、五日間聴政しませんでした(謹慎しました)。 また、詔を発して有司(官…

東漢時代93 明帝(二十二) 西域救援 75年(2)

今回は東漢明帝永平十八年の続きです。 [八] 『後漢書・粛宗孝章帝紀』と『資治通鑑』からです。 八月壬子(初六日。明帝が死んだ日です)、太子・劉炟が即位しました。これを章帝といいます。 この時の章帝の年齢を『粛宗孝章帝紀』は十九歳、『資治通鑑』…

東漢時代92 明帝(二十一) 明帝の死 75年(1)

今回は東漢明帝永平十八年です。三回に分けます。 東漢明帝永平十八年 乙亥 75年 [一] 『資治通鑑』からです。 春二月、明帝が竇固等に詔を発し、撤兵して京師に還らせました。 [二] 『資治通鑑』からです。 北単于が左鹿蠡王を派遣し、二万騎を率いて車師を…

春節の北京

春節休みが明けました。 「春節」というのは旧暦の正月元日のことで、今年は2月16日でした。 我が家は北京に行ってきました。 冬から春にかけての北京といえば、空気の悪さが大問題になっており、中国でも日本でも頻繁に報道されています。 しかし、実際に行…

東漢時代91 明帝(二十) 瑞祥 74年(2)

今回は東漢明帝永平十七年の続きです。 [七] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』と『資治通鑑』からです。 この年、甘露が頻繁に降り、樹枝が内附(木の枝が外に伸びず、一つになること。または、根が異なる樹木の枝が巻きついて一つになること。和睦を表します)し、…

東漢時代90 明帝(十九) 兜題 74年(1)

今回は東漢明帝永平十七年です。二回に分けます。 東漢明帝永平十七年 甲戌 74年 [一] 『資治通鑑』からです。 春正月、明帝が原陵を謁拝しようとしました。 前夜、夢で先帝(光武帝)と太后(陰太后。明帝の母)を見ました。二人は平生(生前)のように楽し…

東漢時代89 明帝(十八) 廉范 73年(2)

今回は東漢明帝永平十六年の続きです。 [三] 『資治通鑑』からです。 淮陽王・劉延(文帝の異母兄弟)は性格が驕奢で下の者に対して厳烈でした。 ある者が上書しました「劉延と姫の兄・謝弇および姉壻(姉の夫)・韓光は姦猾の者を招き、図讖を尽くし、祠祭…

東漢時代88 明帝(十七) 班超 73年(1)

今回は東漢明帝永平十六年です。二回に分けます。 東漢明帝永平十六年 癸酉 73年 [一] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』と『資治通鑑』からです。 春二月、明帝が四路から北匈奴に兵を向けました。 太僕・祭肜と度遼将軍・呉棠(『資治通鑑』胡三省注によると、「呉…

東漢時代87 明帝(十六) 皇子封王 72年

今回は東漢明帝永平十五年です。 東漢明帝永平十五年 壬申 72年 [一] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』と『資治通鑑』からです。 春二月庚子(初四日)、明帝が東巡しました。 辛丑(初五日)、明帝が偃師を行幸しました。 詔を発し、亡命(逃亡)している殊死(死罪…

東漢時代86 明帝(十五) 楚獄 71年

今回は東漢明帝永平十四年です。 東漢明帝永平十四年 辛未 71年 [一] 『資治通鑑』からです。 春三月甲戌(初三日)、司徒・虞延を罷免しました。 虞延は自殺しました。 太常・周澤が司徒の政務を代行することになりましたが(行司徒事)、暫くして太常に戻…

東漢時代85 明帝(十四) 劉英事件 70年

今回は東漢明帝永平十三年です。 東漢明帝永平十三年 庚午 70年 [一] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』からです。 春二月、明帝が藉田を耕しました(古代は民に農耕を奨励するために天子や諸侯が田を耕しました。その地を「藉田」といいます)。 儀礼が終わってから…

東漢時代84 明帝(十三) 哀牢夷 68~69年

今回は東漢明帝永平十一年と十二年です。 東漢明帝永平十一年 戊寅 68年 [一] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月、沛王・劉輔、楚王・劉英、済南王・劉康、東平王・劉蒼、淮陽王・劉延、中山王・劉焉、琅邪王・劉京、東海王・劉政が…

東漢時代83 明帝(十二) 劉荊事件 66~67年

今回は東漢明帝永平九年と十年です。 東漢明帝永平九年 丙寅 66年 [一] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』からです。 春三月辛丑、明帝が詔を発しました。郡国の死罪囚(死刑囚)の罪を減らして妻子と共に五原、朔方に送り、その地の籍に入れさせます(占著)。 その…

東漢時代82 明帝(十一) 鄭衆の上書 65年(2)

今回は東漢明帝永平八年の続きです。 [七] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』と『資治通鑑』からです。 壬寅晦、皆既日食がありました(日有食之既)。 明帝が詔を発しました「朕は無徳によって大業を奉承(継承)したため、下に人の怨恨を残し(下貽人怨)、上は三…

東漢時代81 明帝(十) 仏教 65年(1)

今回は東漢明帝永平八年です。二回に分けます。 東漢明帝永平八年 乙丑 65年 [一] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月己卯(初二日)、司徒・范遷が死にました。 『顕宗孝明帝紀』の注によると、范遷の字は子閭といいます。 [二] 『後…

東漢時代80 明帝(九) 宗均 63~64年

今回は東漢明帝永平六年と七年です。 東漢明帝永平六年 癸亥 63年 [一] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』からです。 春正月、沛王・劉輔、楚王・劉英、東平王・劉蒼、淮陽王・劉延、琅邪王・劉京、東海王・劉政、趙王・劉盱(または「劉栩」)、北海王・劉興、斉王…

東漢時代79 明帝(八) 竇氏衰落 62年

今回は東漢明帝永平五年です。 東漢明帝永平五年 壬戌 62年 [一] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』と『資治通鑑』からです。 驃騎将軍・東平王・劉蒼は至親(皇帝との関係が最も親しい者)として輔政するようになってから、声望が日に日に重くなったため、心中で不…

東漢時代78 明帝(七) 于窴王と莎車 61年

今回は東漢明帝永平四年です。 東漢明帝永平四年 辛酉 61年 [一] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』からです。 春二月辛亥、明帝が詔を発しました「朕が自ら藉田を耕し、農事を祈った(以祈農事)。京師は冬に宿雪がなく(雪が積もらず)、春に燠沐(温暖湿潤)がな…

東漢時代77 明帝(六) 鐘離意 60年(2)

今回は東漢明帝永平三年の続きです。 [七] 『資治通鑑』からです。 明帝が北宮の大建築を開始しました。 当時は旱害に襲われていたため(本年は水害もありました)、尚書僕射・会稽の人・鍾離意(鐘離が氏です)が宮闕を訪ねて冠を脱ぎ、上書してこう言いま…

東漢時代76 明帝(五) 馬皇后 60年(1)

今回は東漢明帝永平三年です。二回に分けます。 東漢明帝永平三年 庚申 60年 [一] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』からです。 春正月癸巳、明帝が詔を発しました「朕は郊祀を奉じ(郊祀を行い)、霊台に登り、史官を接見して儀度を正した(『顕宗孝明帝紀』の注に…

東漢時代75 明帝(四) 桓栄 59年(2)

今回は東漢明帝永平二年の続きです。 [五] 『資治通鑑』からです。 明帝は太子だった頃に桓栄から『尚書』を習ったため、帝位に即いてからも桓栄を尊重して師礼(師に対する礼)を用いていました。 ある日、太常府を訪ねた時、桓栄を東面に座らせて几杖(肘…

東漢時代74 明帝(三) 養老の礼 59年(1)

今回は東漢明帝永平二年です。二回に分けます。 東漢明帝永平二年 己未 59年 [一] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月辛未(十九日)、明帝が光武皇帝を明堂で宗祀しました。 『資治通鑑』胡三省注によると、「宗」は「尊」に通じます…

東漢時代73 明帝(二) 焼当羌討伐 58年(2)

今回は東漢明帝永平元年の続きです。 [四] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』と『資治通鑑』からです。 秋七月、捕虜将軍・馬武等が焼当羌(滇吾と滇岸)を撃って大破しました。他の種族は全て東漢に降るか離散しました。 東漢は士卒を募って隴右を守らせ、一人当た…