2017-09-01から1ヶ月間の記事一覧
哀帝建平四年(前3年)、匈奴単于が入朝の許可を求めましたが、哀帝は拒否しました。 西漢時代297 哀帝(十二) 匈奴の入朝 前3年(3) 黄門郎・揚雄が諫めて言いました「臣が聞くに、『六経』の治とは、乱が起きる前に治めることを貴び(貴於未乱)、兵家の勝と…
西漢哀帝建平三年(前4年)、王嘉が丞相になりました。 西漢時代294 哀帝(九) 東平王事件 前4年 当時は政治が苛急(厳酷)で、郡国の守相の変動が激しかったため、王嘉が上書しました。以下、『資治通鑑』からです。 「臣が聞くに、聖王の功は人を得ることに…
今回で西漢が滅びます [七] 『資治通鑑』からです。 期門郎・張充等六人が共謀し、王莽を脅迫して楚王を擁立しようとしました。 しかし発覚して誅死しました。 『資治通鑑』胡三省注によると、この時の楚王は劉紆で、宣帝の曾孫に当たります(成帝綏和元年・…
今回は西漢王莽(孺子)始初元年です。二回に分けます。 西漢王莽(孺子)始初元年 戊辰 8年 本年十一月に王莽が始初に改元します(下述します)。 [一] 『資治通鑑』からです。 春、地震があり、天下に大赦しました。 [二] 『資治通鑑』からです。 翟義を滅…
今回は西漢王莽(孺子)居摂二年です。 西漢王莽(孺子)居摂二年 丁卯 7年 [一] 『資治通鑑』からです。 春、竇況等が西羌を撃破しました(前年参照)。 [二] 『資治通鑑』からです。 五月、改めて貨幣を造りました。 錯刀は一枚が銭五千に値し、契刀は一枚…
今回は西漢王莽(孺子)居摂元年です。 西漢王莽(孺子)居摂元年 丙寅 6年 王莽が摂政したので居摂に改元します。 『資治通鑑』胡三省注はこう書いています。「上に天子がいないため、『資治通鑑』は王莽によって年をつなげなければならなかった(『資治通…
今回で西漢平帝元始五年が終わります。 [十三] 『漢書・平帝紀』と『資治通鑑』からです。 この頃は既に平帝が成長していました(春秋益壮)。平帝は衛后の件(母・衛后が京師に入れず、親族は全て殺されました)が原因で怨みを抱いて喜べませんでした。 冬…
今回は西漢平帝元始五年の続きです。 [七] 『資治通鑑』からです。 王莽が上奏しました「市場の売り物に複数の価格がないこと(売買が公平に行われていることを意味します。原文「市無二賈」)、官に獄訟(訴訟)がないこと、邑に盗賊がいないこと、野に飢民…
今回は西漢平帝元始五年です。三回に分けます。 西漢平帝元始五年 乙丑 5年 [一] 『漢書・平帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月、明堂で祫祭しました。 『資治通鑑』胡三省注によると、「祫祭」というのは廟を廃した先祖を全て太祖と合わせて祭る儀式で…
今回は西漢平帝元始四年の続きです。 [十] 『資治通鑑』からです。 太学に『楽経』を設けました。 博士の定員を増やして各経を五人にしました。 天下から一芸(一経)に通じて十一人以上に教授した者および逸礼(失われた古礼。または古文の『礼記』)、古書…
今回は西漢平帝元始四年です。二回に分けます。 西漢平帝元始四年 甲子 4年 [一] 『漢書・平帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月、高祖を郊祀して天に配し、孝文を宗祀して上帝に配しました。 郊祀は郊外で行う祭祀、宗祀は明堂で行う祭祀です 「上帝」に…
今回で西漢平帝元始三年が終わります。 [五] 『資治通鑑』からです。 王莽は礼に明るい少府・宗伯鳳(宗伯が姓で鳳が名です)を招き、宮廷で人の後嗣となった者の誼(大義)を説かせました。王太后に報告して令を出させ、公卿、将軍、侍中、朝臣の全てに聴か…
今回は西漢平帝元始三年の続きです。 [四] 『漢書・平帝紀』と『資治通鑑』からです。 大司徒・司直・陳崇が張敞(宣帝時代の京兆尹)の孫・張竦に上奏文を起草させ、安漢公の功徳を盛んに称えてこう言いました「公(王莽)の国(封国)を拡大して周公のよう…
今回は西漢平帝元始三年です。三回に分けます。 西漢平帝元始三年 癸亥 3年 [一] 『資治通鑑』からです。 王莽は娘を平帝の皇后に立ててその権力を固めようと欲し、こう上奏しました「皇帝は即位して三年になりますが、長秋宮(『資治通鑑』胡三省注によると…
今回は西漢平帝元始二年の続きです。 [七] 『資治通鑑』からです。 六月、鉅鹿に二つの隕石が落ちました。 [八] 『資治通鑑』からです。 光禄大夫・楚国の人・龔勝と太中大夫・琅邪の人・邴漢が王莽の専政を見て引退を乞いました(乞骸骨)。 王莽は王太后か…
今回は西漢平帝元始二年です。二回に分けます。 西漢平帝元始二年 壬戌 2年 [一] 『漢書・平帝紀』と『資治通鑑』からです。 春、黄支国が犀牛を献上しました。 黄支国は南海の中にあり、京師から三万里離れています。『資治通鑑』胡三省注によると、黄支国…
今回で西漢平帝元始元年が終わります。 [五] 『漢書・平帝紀』と『資治通鑑』からです。 王莽は平帝の外家・衛氏(平帝の母は衛姫です)が権勢を奪うことを恐れ、王太后にこう言いました「以前、哀帝が立った時、恩義に背いて勝手に外家の丁氏と傅氏を貴び、…
今回は西漢平帝元始元年の続きです。 [一(続き)] 平帝が即位前に招かれて経由した県邑を対象に、二千石以下から佐史に至る官吏に爵を与えました。爵位にはそれぞれ差があります。 諸侯王、公、列侯、関内侯で子がいなくても孫や同産(同母兄弟)の子がいる…
今回から西漢平帝の時代です。 孝平皇帝 中山孝王・劉康の子で、元の名は劉箕子といい、後に劉衎に改名します。 中山孝王・劉興は元帝の子なので、平帝は元帝の庶孫になります。 劉箕子の母は衛姫といいます。 劉箕子は三歳で中山王を継ぎ(成帝綏和元年・前…
今回で西漢哀帝元寿二年が終わります。 [七] 『資治通鑑』からです。 八月、王莽が再び太皇太后(王政君)に進言し、孝成皇后(趙飛燕)と孝哀皇后(傅氏)を廃して庶人に落としました。それぞれの園(成帝と哀帝の寝廟園)に就かせます。 この日、二人とも…
今回は西漢哀帝元寿二年の続きです。 [六] 『漢書・平帝紀』と『資治通鑑』からです。 七月辛卯、王莽がまた王太后に進言し、王太后から有司(官員)に詔を下させました。 皇太后(趙飛燕)がかつて妹の趙昭儀と共に成帝の寵愛を独占し、他の妃嬪が侍寝する…
今回は西漢哀帝元寿二年です。三回に分けます。 西漢哀帝元寿二年 庚申 前1年 [一] 『漢書・哀帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月、匈奴烏珠留単于と烏孫大昆彌・伊秩靡がそろって来朝しました(匈奴は二年前に入朝を約束していました)。 漢はこれを栄…
今回で西漢哀帝元寿元年が終わります。 [八] 『漢書・王貢両龔鮑伝(巻七十二)』と『資治通鑑』からです。 丞相・孔光が四時(四季)の園陵巡行を行いました。この時、丞相の官属が馳道の中央に車を走らせました(本来は皇帝が通る場所です。『漢書』の注に…
今回も西漢哀帝元寿元年の続きです。 [七(続き)] 『資治通鑑』本文に戻ります。 王嘉が梁相等三人を推挙した二十余日後に、王太后が董賢等を優遇する詔を発し、王嘉がそれに封をして返上しました(前回)。 哀帝は怒りを発して王嘉を召し、尚書に赴かせまし…
今回も西漢哀帝元寿元年の続きです。 [七] 『資治通鑑』からです。 哀帝が傅太后の遺詔と称して太皇太后(王政君)から丞相と御史に詔を下させました。その内容は、董賢に二千戸を加封し、孔郷侯、汝昌侯、陽新侯の三人に封国を下賜するというものです。 『…
今回も西漢哀帝元寿元年の続きです。 [三] 『資治通鑑』からです。 哀帝建平二年(前5年)に王莽が封国に帰されました。 王莽は門を閉じて人に会わず、自分の行いを正しました(杜門自守)。 ある日、王莽の中子・王獲が家奴を殺したため、王莽は王獲を厳し…
今回は西漢哀帝元寿元年の続きです。 [二(続き)] 元涼州刺史・杜鄴が方正として哀帝に答えました「臣が聞くに、陽尊陰卑(陽が尊くて陰が卑しいこと)とは天の道です。だから男はたとえ賎しくても(身分が低くても)、それぞれがその家の陽となり、女はたと…
今回は西漢哀帝元寿元年です。六回に分けます。 西漢哀帝元寿元年 己未 前2年 [一] 『資治通鑑』からです。 春正月辛丑朔、哀帝が将軍や中二千石の官員に詔を発し、兵法に精通している者をそれぞれ一人推挙させました。 その結果、孔郷侯・傅晏(傅皇后の父…
今回で西漢哀帝建平四年が終わります。 [十四] 『資治通鑑』からです。 匈奴烏珠留単于が上書して建平五年(翌年)に朝見することを請いました。 当時、哀帝が病を患っていたため、ある者がこう言いました「匈奴は上游(黄河上流。または高地)から来て人を…
今回は西漢哀帝建平四年の続きです。 [七] 『漢書・哀帝紀』からです。 夏五月、中二千石から六百石の官員および天下の男子に爵位を与えました(賜中二千石至六百石及天下男子爵)。 「男子」は恐らく庶民の未成年の男です。嫡長子を指すのかもしれません。 …