2017-11-01から1ヶ月間の記事一覧

新更始時代61 更始劉玄(十三) 劉秀即位 25年(2)

今回は玄漢劉玄更始三年の続きです。 [六] 『資治通鑑』からです。 孟津将軍・馮異が洛陽の李軼に書を送って禍福について述べ、蕭王・劉秀に帰順するように勧めました。 李軼は長安(更始帝政権)が既に危ういと知っていましたが、劉縯の死に関わっていたた…

新更始時代60 更始劉玄(十二) 公孫述即位 25年(1)

今回は玄漢劉玄更始三年です。 玄漢劉玄更始三年 東漢光武帝建武元年 乙酉 25年 本年六月に東漢光武帝が即位し、九月に更始政権が滅びます。 [一] 『後漢書・光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。 春正月、平陵の人・方望(かつては隗囂に仕えていました。…

新更始時代59 更始劉玄(十一) 赤眉の西進 24年(8)

今回で玄漢劉玄更始二年が終わります。 [十五] 『後漢書・劉玄劉盆子列伝(巻十一)』と『資治通鑑』からです。 赤眉の樊崇等が兵を率いて潁川に入り、その衆を二部に分けました。樊崇と逢安が一部、徐宣、謝祿、楊音が一部です。 樊崇と逢安は長社を攻めて…

新更始時代58 更始劉玄(十) 銅馬討伐 24年(7)

今回も玄漢劉玄更始二年の続きです。 [十一] 『後漢書・光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。 当時は長安の政治が混乱しており、四方が背叛していました。梁王・劉永が睢陽で擅命し(命を勝手に発し)、公孫述が巴蜀で王を称し(後述)、李憲が自立して淮南…

新更始時代57 更始劉玄(九) 王郎滅亡 24年(6)

今回も玄漢劉玄更始二年の続きです。 [九(続き)] 上谷と漁陽の軍が前進して広阿に至った時、城中に多数の車騎がいると聞きました。景丹等が兵を整えて「それはどこの兵だ(此何兵)?」と問うと、(城の守備兵が)「大司馬・劉公です」と答えました。 二郡…

新更始時代56 更始劉玄(八) 上谷と漁陽の帰順 24年(5)

今回も玄漢劉玄更始二年の続きです。 [六] 『資治通鑑』からです。 南鄭の人・延岑(延が氏、岑が名です)が挙兵して漢中を占拠しましたが、更始政権の漢中王・劉嘉が延岑を撃って下しました。劉嘉は衆数十万を擁します。 『資治通鑑』のこの記述では、延岑…

新更始時代55 更始劉玄(七) 劉秀の反撃 24年(4)

今回も玄漢劉玄更始二年の続きです。 [五(続き)] 劉秀は二郡(信都と和成)の兵が弱いと考えたため、城頭子路や力子都(刁子都)の軍中に投じようとしました。 しかし任光が劉秀に反対したため、劉秀は周辺の県から人を集めて精兵四千人を得ました。 城頭子…

新更始時代54 更始劉玄(六) 劉秀の逃走 24年(3)

今回も玄漢劉玄更始二年の続きです。 [五] 『後漢書・光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。 上谷太守・耿況が子の耿弇に上奏文を持たせて長安に派遣しました。耿弇はこの時二十一歳です。 耿弇が宋子に至った時、ちょうど王郎が挙兵しました。耿弇の従吏・…

新更始時代53 更始劉玄(五) 更始政権の混乱 24年(2)

今回は玄漢劉玄更始二年の続きです。 [三] 『漢書・王莽伝下(巻九十九下)』と『資治通鑑』からです。 更始帝は趙萌の娘を娶って夫人にしており、寵愛していたため、政治を趙萌に委ね、自身は日夜、後庭(後宮)で婦人と飲讌(飲宴)しました。 群臣が進言…

新更始時代52 更始劉玄(四) 長安遷都 24年(1)

今回は玄漢劉玄更始二年です。 玄漢劉玄更始二年 甲申 24年 [一] 『後漢書・光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。 春正月、王郎が新たに隆盛したため、更始政権の大司馬・劉秀が北徇(北巡)して薊県に入りました。 [二] 『漢書・王莽伝下(巻九十九下)』…

新更始時代51 更始劉玄(三) 王郎即位 23年(12)

今回で新王莽地皇四年・玄漢劉玄更始元年が終わります。 [三十二] 『後漢書・光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。 劉秀が邯鄲に入ってから、かつての趙繆王の子・劉林が劉秀に進言し、列人(県名)を決壊させて河水を赤眉に注ぐように勧めました。 『資治…

新更始時代50 更始劉玄(二) 劉秀の北上 23年(11)

今回も玄漢劉玄更始元年の続きです。 [二十九] 『後漢書・光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。 更始帝は洛陽に入ってから、親近する大将に河北を巡行させようとしました。 大司徒・劉賜が言いました「諸家の子では、文叔(劉秀の字)だけが用いることがで…

新更始時代49 更始劉玄(一) 更始政権の拡大 23年(10)

前回で王莽が死んだので、今回から更始時代とします。 劉玄 劉玄は字を聖公といい、東漢光武帝の族兄に当たります。 西漢舂陵戴侯・劉熊渠が蒼梧太守・劉利を生み、劉利が劉子張を生み、劉子張が劉玄を生みました。 劉玄は帝位に即いてから更始に改元したた…

新更始時代48 新王莽(四十八) 王莽の死 23年(9)

今回も新王莽地皇四年の続きです。 [十九(続き)] 九月戊申朔(『漢書・王莽伝下』では「十月戊申朔」です)、長安周辺に集まった兵達が宣平城門(長安城東の北側第一門)から進入しました。民間では「都門」と呼ばれている門です。 城門を巡行していた張邯が…

新更始時代47 新王莽(四十七) 九虎将 23年(8)

今回も新王莽地皇四年の続きです。 [十九] 『漢書・王莽伝下(巻九十九下)』と『資治通鑑』からです。 (『漢書・王莽伝下』は「この月」としていますが、何月かはっきりしません。『資治通鑑』は八月に書いています)析の人・鄧曄と于匡が南郷で百余人の兵…

新更始時代46 新王莽(四十六) 隗囂・公孫述・劉望 23年(7)

今回も新王莽地皇四年の続きです。 [十五] 『漢書・王莽伝下(巻九十九下)』と『資治通鑑』からです。 成紀の隗崔と隗義、上邽の楊広、冀の人・周宗が同時に兵を挙げて漢に応じました。 『資治通鑑』胡三省注によると、成紀県は天水郡に属します。隗姓は赤…

新更始時代45 新王莽(四十五) 董忠事件 23年(6)

今回も新王莽地皇四年の続きです。 [十二] 『漢書・王莽伝下(巻九十九下)』と『資治通鑑』からです。 新の衛将軍・王渉(『資治通鑑』胡三省注によると、曲陽侯・王根の子です)は以前から道士・西門君恵(西門が姓です)を養っていました。 君恵は天文・…

新更始時代44 新王莽(四十四) 劉縯の死 23年(5)

今回も新王莽地皇四年の続きです。 [八] 『漢書・王莽伝下(巻九十九下)』と『資治通鑑』からです。 王莽は漢兵が「王莽が孝平皇帝を鴆殺した」と宣伝しているのを聞きました。 そこで、公卿以下群臣を王路堂に集め、平帝のために命請いをした金縢の策(平…

新更始時代43 新王莽(四十三) 昆陽の戦い 23年(4)

今回も新王莽地皇四年の続きです。 [五(続き)] 王尋と王邑が兵を放って昆陽の包囲を開始しました。 厳尤が王邑を説得しようとして「昆陽は城が小さいとはいえ堅固です。今、偽の号を称している者(原文「假号者」。更始帝を指します)は宛におり、急いで大兵…

新更始時代42 新王莽(四十二) 王莽の反撃 23年(3)

今回も新王莽地皇四年の続きです。 [五] 『漢書・王莽伝下(巻九十九下)』『後漢書・光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。 三月、更始政権の王鳳と太常偏将軍・劉秀等が昆陽、定陵、郾を巡って全て降しました(これは『資治通鑑』の記述です。『漢書・王莽…

新更始時代41 新王莽(四十一) 王莽の皇后 23年(2)

今回は新王莽地皇四年の続きです。 [三] 『漢書・王莽伝下(巻九十九下)』と『資治通鑑』からです。 更始帝の即位を聞いた王莽はますます恐れましたが、自分の安定と健在を外に示そうと欲して須髪(鬚と髪)を染めました。 また、天下から集めた淑女の中か…

新更始時代40 新王莽(四十) 更始帝即位 23年(1)

今回は新王莽地皇四年。玄漢更始元年です。二月に劉玄が即位し、九月に王莽の新王朝が滅亡します。 新王莽地皇四年 玄漢劉玄更始元年 癸未 23年 [一] 『漢書・王莽伝下(巻九十九下)』『後漢書・光武帝紀上』『後漢書・劉玄劉盆子列伝(巻十一)』と『資治…

新更始時代39 新王莽(三十九) 小長安の敗戦 22年(5)

今回で新王莽地皇三年が終わります。 [十六] 『漢書・王莽伝下(巻九十九下)』と『資治通鑑』からです。 十一月、孛星(彗星の一種)が張(星宿)に現れました。東南に移動して五日で見えなくなります。 王莽はしばしば太史令・宗宣を召して意見を求めまし…

新更始時代38 新王莽(三十八) 劉縯兄弟の挙兵 22年(4)

今回も新王莽地皇三年です。 [十四(続き)] 『後漢書・光武帝紀上』から続きです。 この頃、宛の人・李通等が図讖の説を使って劉秀に言いました「劉氏が再び起ち、李氏が輔(補佐)になります(劉氏復起,李氏為輔)。」 劉秀は初めは敢えて自分を預言に符合…

新更始時代37 新王莽(三十七) 劉秀登場 22年(3)

今回も新王莽地皇三年の続きです。 [十三] 『漢書・王莽伝下(巻九十九下)』と『資治通鑑』からです。 冬、無鹽の人・索盧恢(『資治通鑑』胡三省注によると、索盧が姓、恢が名です。『呂氏春秋』で、禽滑釐の門人に索盧参がいます)等が挙兵し、城を拠点に…

新更始時代36 新王莽(三十六) 劉玄 22年(2)

今回は新王莽地皇三年の続きです。 [七] 『漢書・王莽伝下(巻九十九下)』からです。 当時、下江兵の勢力が盛んになったため、新市の人・朱鮪や平林の人・陳牧等が再び衆を集めて郷聚を攻撃しました。 王莽は司命大将軍・孔仁に豫州を指揮させ、納言大将軍…

新更始時代35 新王莽(三十五) 赤眉 22年(1)

今回は新王莽地皇三年です。五回に分けます。 新王莽地皇三年 壬午 22年 [一] 『漢書・王莽伝下(巻九十九下)』からです。 正月、九廟がほぼ完成して神主(牌位)を納めました。 王莽が廟を謁見します。大駕(帝王の儀仗で最大の規模のものです。儀仗には大…

新更始時代34 新王莽(三十四) 田況 21年(3)

今回で新王莽地皇二年が終わります。 [十六] 『後漢書・劉玄劉盆子列伝(巻十一)』と『資治通鑑』からです。 この年、荊州牧・某(姓名が伝わっていないため、史書は「某」としています)が奔命二万人を動員して緑林賊(緑林兵)を討伐しました。 しかし賊…

新更始時代33 新王莽(三十三) 相次ぐ挙兵 21年(2)

今回は新王莽地皇二年の続きです。 [七] 『漢書・王莽伝下(巻九十九下)』と『資治通鑑』からです。 秋、霜が降って菽(豆類)を殺しました。 関東を大飢饉が襲い、蝗害も起きました。 [八] 『漢書・王莽伝下(巻九十九下)』と『資治通鑑』からです。 王莽…

新更始時代32 新王莽(三十二) 王臨事件 21年(1)

今回は新王莽地皇二年です。三回に分けます。 新王莽地皇二年 辛巳 21年 [一] 『漢書・王莽伝下(巻九十九下)』からです。 正月、州牧の位を三公と同等にし、怠惰な官員を検挙させました。 また改めて牧・監に副を置きました。秩は元士と同等とし、法冠を被…