2015-04-01から1ヶ月間の記事一覧

春秋時代116 東周定王(二十一) 楚の匱盟 前589年(4)

今回で東周定王十八年が終わります。 [十] 晋師が凱旋しました。士燮(范文子)が最後に国に入ります。 父の士会(武子)が言いました「わしが汝の帰還を待ち望んでいないと思ったか(なぜ早く帰って来なかったのだ)。」 士燮が言いました「師(軍)は郤子…

春秋時代115 東周定王(二十) 巫臣と夏姫 前589年(3)

今回も東周定王十八年の続きです。 [六] 八月壬午(二十七日)、宋文公が在位二十二年で死に、子の固(または「瑕」)が継ぎました。これを共公といいます。 [七] 九月庚寅(初五日)、衛穆公が在位十一年で死にました。子の定公・臧が継ぎます。 凱旋途中の…

春秋時代114 東周定王(十九) 鞌の戦い(後) 前589年(2)

今回は東周定王十八年、鞌の戦いの続きです。 [四] 戦いの前日、晋の司馬・韓厥が夢で子輿(韓厥の父)にこう言われました「明朝は車の左右を避けよ。」 通常では、元帥となる者が戦鼓がある車の中央に立って指揮をとり、元帥ではない場合は、御者が中央に立…

春秋時代113 東周定王(十八) 鞌の戦い(前) 前589年(1)

今回から東周定王十八年です。四回に分けます。 定王十八年 前589年 壬申 [一] 春、斉頃公が魯の北境を攻撃し、龍(または「隆」)を包囲しました。 斉頃公の嬖人(寵臣)・盧蒲就魁(盧蒲が氏)が城門を攻撃しましたが、龍人に捕えられました。頃公は「殺す…

春秋時代112 東周定王(十七) 魯の政変 前591~590年

今回は東周定王十六年と十七年です。 定王十六年 前591年 庚午 [一] 春、晋景公と衛の世子・臧が斉を攻撃して陽穀に至りました。 斉侯(頃公)は晋侯(景公)と繒(詳細位置不明)で盟を結びます。斉の公子・彊が人質として晋に送られました。 晋は兵を還し…

春秋時代111 東周定王(十六) 郤克と䔥同叔子 前592年

今回は東周定王十五年です。 定王十五年 前592年 己巳 [一] 春正月庚子(二十四日)、許昭公(許男・錫我)が在位三十年で死にました。その子・寧が継ぎます。これを霊公といいます。 [二] 二月丁未(初二日)、蔡文侯が在位二十年で死に、その子・固が立ち…

春秋時代110 東周定王(十五) 士会の入朝 前593年

今回は東周定王十四年です。 定王十四年 前593年 戊辰 [一] 春正月、晋の士会が軍を率いて赤狄の甲氏、留吁、鐸辰を滅ぼしました。 『資治通鑑外紀』はここで趙荘子(趙朔)と狄(翟)の話を紹介しています。この元になる話は『説苑・辨物(巻十八)』に記載…

春秋時代109 東周定王(十四) 楚と宋の講和 前594年

今回は東周定王十三年です。 定王十三年 前594年 丁卯 [一] 春、魯の公孫帰父が宋で楚荘王に会見しました。 [二] 前年九月から楚に包囲されている宋は、晋に楽嬰斉を派遣して急を告げました。 晋景公が援軍を送ろうとしましたが、伯宗が言いました「いけませ…

春秋時代108 東周定王(十三) 楚の宋討伐 前596~595年

今回は定王十一年と十二年です。 定王十一年 前596年 乙丑 [一] 莒が晋に頼って斉に逆らいました。斉が莒を攻撃しました。 [二] 夏、楚荘王が宋を攻めました。楚が䔥を攻めた時、宋が䔥を援けたからです。 君子は「清丘の盟(前年)においては、宋だけが非難…

春秋時代107 東周定王(十二) 楚の䔥討伐 前597年(4)

今回で東周定王十年が終わります。 [三] 邲の戦いの前、鄭の石制(子服)が楚と内通して出兵を誘いました。鄭を分裂させて半分を楚に与え、半分は公子・魚臣(僕叔)を擁立して政権を握るためです。 辛未(恐らく七月二十九日)、鄭が公子・魚臣と石制を殺し…

春秋時代106 東周定王(十一) 邲の戦い(後) 前597年(3)

今回も邲の戦いの続きです。 [二(続き)] 乙卯(楊伯峻の『春秋左伝注』によると、この年の六月は乙卯の日がないので、恐らく秋七月十三日ではないかとしています)、まず魏錡が楚陣に入りました。しかし楚の潘党が魏錡を追い返して熒沢まで追撃します。 そ…

春秋時代105 東周定王(十) 邲の戦い(中) 前597年(2)

前回の続きです。 [二(続き)] 楚荘王は北上して郔に駐軍しました。 沈尹(沈県の尹。一説では「沈」は「寝」と同じで、後に寝丘に封じられた令尹・孫叔敖を指すといわれていますが、はっきりしません)が中軍を、子重(公子・嬰斉)が左軍を、子反(公子・…

春秋時代104 東周定王(九) 邲の戦い(前) 前597年(1)

今回から東周定王十年です。四回に分けます。 定王十年 前597年 甲子 [一] 春、陳の国内が安定したため、やっと霊公を埋葬しました。 [二] 厲の役(一説では東周定王四年・前603年の楚が鄭を攻めて講和した戦いを指すといわれていますが、はっきりしません)…

春秋時代 楚荘王

『資治通鑑外紀』が『国語』『韓非子』『淮南子』『説苑』から楚荘王や申叔時、太子等に関する故事を引用しています。 春秋時代103 東周定王(八) 楚の陳討伐 前598年 本編では書けなかったので、ここでまとめて紹介します。 まずは『国語・楚語上』からです…

春秋時代103 東周定王(八) 楚の陳討伐 前598年

今回は東周定王九年です。 定王九年 前598年 癸亥 [一] 春、楚荘王が鄭を討伐して櫟に至りました。 鄭の子良(公子・去疾)が言いました「晋も楚も徳を修めず兵を用いて争っている。我々は来た者と結べばいい。晋も楚も信がない。我々に信がなくても当然なこ…

春秋時代102 東周定王(七) 夏氏の乱 魯の卿大夫 前599年

今回は東周定王八年です。 定王八年 前599年 壬戍 [一] 春、魯宣公が斉に朝見し、暫くして帰国しました。 魯が斉に服したため、済水西の地(東周匡王五年・前608年参照)を返還しました。 [二] 夏四月丙辰(朔日)、日食がありました。 [三] 己巳(十四日)…

春秋時代101 東周定王(六) 夏姫 前600年

今回は東周定王七年です。 定王七年 前600年 辛酉 [一] 春正月、魯宣公が斉に行き、暫くして帰国しました。 [二] 周定王が魯に聘問するよう要求しました。 夏、魯の仲孫蔑(孟献子。公孫敖の孫。文伯・穀の子)が京師に入って周定王を聘問しました。 定王は…

春秋時代100 東周定王(五) 陳の頽廃 前601年(2)

今回は東周定王六年の続きです。 [十] 陳と晋が講和しました。 そのため楚が陳を討伐しました。 陳は楚と講和し、楚は兵を還しました。 『資治通鑑外紀』には「冬、楚が鄭を伐つ」とありますが、鄭は陳の誤りではないかと思われます。 『春秋左氏伝(宣公八…

春秋時代99 東周定王(四) 楚の拡大 前601年(1)

今回は東周定王六年です。二回に分けます。 定王六年 前601年 丙申 [一] 春、魯宣公が黄父の会から帰国しました。 [二] 白狄と晋が講和しました。 夏、白狄が晋と共に秦を攻めました。 晋が秦の諜(間諜)を捕えて絳(晋都)の市で処刑しましたが、六日後に…

春秋時代 楚荘王と孫叔敖(二)

今回も楚荘王や孫叔敖に関する記述を紹介します。前回の続きです。 春秋時代 楚荘王と孫叔敖(一) まずは『呂氏春秋・不苟論・賛能』からです。孫叔敖の登用について、前回と異なる説が紹介されています。沈尹茎という友人が孫叔敖を推挙したことになっており…

春秋時代 楚荘王と孫叔敖(一)

『資治通鑑外紀』は東周定王三年(前604年)に『新序』『説苑』等に書かれた楚荘王や孫叔敖に関する故事を複数記載しています。 春秋時代98 東周定王(三) 前604~602年 本編では書けなかったので、ここで二回に分けて紹介します。 まずは『新序・雑事第四』…

春秋時代98 東周定王(三) 前604~602年

今回は東周定王三年から五年までです。 定王三年 前604年 丁己 [一] 春、魯宣公が斉に行きました。 斉の高固が叔姫(魯女)を自分の妻にするため、斉恵公に進言して魯宣公を国内に留めさせました。 魯宣公は高固との婚姻を許可します。 夏、魯宣公が斉から還…

春秋時代97 東周定王(二) 食指が動く 楚の若敖氏 前605年

今回は東周定王二年です。 定王二年 前605年 丙辰 [一] 春正月、魯宣公と斉恵公が莒と郯(少皞の子孫の国。己姓または嬴姓)を講和させようとしました。しかし莒は従おうとしません。 魯宣公が莒を討伐して向邑を占領しました。 『春秋左氏伝(宣公四年)』…

春秋時代96 東周定王(一) 鼎の軽重を問う 前606年

今回から東周定王の時代です。 定王 匡王が在位六年で死に、弟の瑜が立ちました。これを定王といいます 定王元年 前606年 乙卯 [一] 春正月、魯で郊牛の口に傷があったため、他の牛を卜って選びました。 郊牛とは郊祭で犠牲に使う牛です。郊祭は郊外で収穫を…

春秋時代95 東周匡王(七) 大棘の戦い 晋霊公の死 前607年

今回で東周匡王の時代が終わります。 匡王六年 前607年 甲寅 [一] 春、鄭の公子・帰生が楚の命を受けて宋を攻撃しました。宋の華元と楽呂が鄭軍を防ぎます。 二月壬子(楊伯峻『春秋左伝注』によると、この年二月に壬子の日はありません)、両軍は大棘(宋地…

春秋時代94 東周匡王(六) 晋覇権の衰え 前608年

今回は東周匡王五年です。 匡王五年 前608年 癸丑 [一] 春正月、魯宣公が正式に即位しました。 [二] 魯の公子・遂(東門襄仲)が宣公の命を受けて斉に夫人(姜氏)を迎えに行きました。宣公の婚姻のためです。 三月、公子・遂が姜氏と共に帰国しました。 [三…

春秋時代 莒僕の出奔

莒紀公が太子・僕(莒僕)を廃したため殺された事件を書きました。 春秋時代93 東周匡王(五) 魯の政変 前609年 本編は『国語・魯語上』の記述を元にしましたが、ここでは『春秋左氏伝(文公十八年)』の内容を紹介します。 莒紀公には太子・穆と季佗が産まれま…

春秋時代93 東周匡王(五) 魯の政変 前609年

今回は東周匡王四年です。 匡王四年 前609年 壬子 [一] 春、斉懿公が魯への出兵の日を発表しましたが、病に倒れました。医者が懿公に言いました「秋までもたないでしょう。」 これを聞いた魯文公は「斉侯の命が出兵の日までもたなければいい」と言って占いを…

春秋時代92 東周匡王(四) 晋鄭の講和 前610年

今回は東周匡王三年です。 匡王三年 前610年 辛亥 [一] 春、晋の荀林父、衛の孔達、陳の公孫寧、鄭の石楚が宋を討ち、国君(昭公)弑殺を譴責しました。 しかし宋で即位した文公が晋に賄賂を贈って服従を示すと、晋はその地位を認めて兵を還しました。 [二] …

春秋時代91 東周匡王(三) 宋の政変 前611年(2)

今回は東周匡王二年(前611年)の続きです。 [五] 宋の公子・鮑(または「鮑革」。昭公の庶弟)は国人に礼を用いて接してきました。宋を飢饉が襲った時は、自分の食糧を施して民を救済します。七十歳以上の老人には必ず飲食を提供し、四季に応じて珍味も加え…