2016-02-01から1ヶ月間の記事一覧
東周敬王二十八年(前492年)に『資治通鑑外紀』が『説苑』等から孔子に関する記述を書いているので、ここで紹介します。 春秋時代271 東周敬王(四十) 魯の火災 前492年 但し、孔子が魯を出てからの足取りは諸説があるので、以下の故事がいつの出来事かはは…
『資治通鑑外紀』は公父文伯(公父歜。公父穆伯の子。穆伯は季悼子・紇の子)の母・敬姜に関する記述を『国語』と『孔叢子』から引用しています。 春秋時代271 東周敬王(四十) 魯の火災 前492年 本編では書けなかったので、ここで紹介します。 まずは『国語…
今回は東周敬王二十八年です。 敬王二十八年 前492年 己酉 [一] 春、斉の国夏と衛の石曼姑が戚(蒯聵)を包囲しました。戚は中山(鮮虞)に救援を求めました。 [二] 夏四月甲午朔、魯で地震がありました。 [三] 五月辛卯(二十八日)、魯の司鐸(官名)の官…
今回は東周敬王二十七年です。 敬王二十七年 前493年 戊申 [一] 春二月、魯の季孫斯、叔孫州仇、仲孫何忌が邾を攻撃し、絞(邾の邑)を攻めました。 邾は絞の地を惜しんだため、漷水以東と沂水以西の田(土地)を魯に譲りました。 癸巳(二十三日)、叔孫州…
東周敬王二十六年(前494年)に呉が越に報復し、会稽山で句践を包囲しました。 春秋時代268 東周敬王(三十七) 会稽の戦い 前494年(1) 今回は『国語・越語上』から会稽の戦いに関する記述です。 越王・句践が会稽の山上で呉軍に包囲された時、三軍に号令を出…
東周敬王二十六年(前494年)に呉が越に報復し、会稽山で句践を包囲しました。 春秋時代268 東周敬王(三十七) 会稽の戦い 前494年(1) 今回は『国語・呉語』から会稽の戦いに関する記述です。 『国語』には複数の話があり、内容に重複する部分もあります。 呉…
東周敬王二十六年(前494年)に呉が越に報復し、会稽山で句践を包囲しました。 春秋時代268 東周敬王(三十七) 会稽の戦い 前494年(1) ここでは『史記』から会稽の戦いに関する記述を紹介します。 まずは『史記・呉太伯世家』です。 呉王夫差元年、呉が大夫・…
今回は東周敬王二十六年の続きです。 [五] 魯で鼷鼠(鼠)が郊牛(郊祭で使う牛)を齧ったため、改めて卜をして牛を選び直しました。 夏四月辛巳(初六日)、郊祭を行いました。 [六] 斉景公と衛霊公が邯鄲(趙稷)を援けるために五鹿(晋邑)を攻めました。…
今回は東周敬王二十六年です。二回に分けます。 敬王二十六年 前494年 丁未 [一] 春正月、魯哀公が即位しました。 [二] 楚子(昭王)、陳侯(閔公)、隨侯、許男(許国は一度滅ぼされています。いつ復国したのかは分かりません。東周敬王十六年・前504年参照…
今回は東周敬王二十五年です。 敬王二十五年 前495年 丙午 [一] 春正月,邾隠公が魯に来朝しました。 魯の子貢(端木賜。孔子の弟子)が邾隠公の様子を見ると、邾子は玉を持って高く挙げ、顔を上に向けていました。逆に魯定公は恭しく玉を受け取り、下を向い…
『資治通鑑外紀』が東周敬王二十四年(前496年)に『呂氏春秋』等を元に衛霊公の故事を紹介しています。 春秋時代265 東周敬王(三十四) 檇李の戦い 前496年(1) 本編では書けなかったのでここで紹介します。 まずは『呂氏春秋・似順論』からです。 ある冬の寒…
孔子の周遊の続きです。 孔子が蔡に遷って三年後、呉が陳を攻め、楚が陳を助けて城父に駐軍しました(東周敬王三十一年・前489年)。 楚は孔子が陳と蔡の国境に居ると知り、人を送って孔子を招きます。孔子が楚の誘いに応じようとした時、陳と蔡の大夫が謀っ…
孔子の周遊の続きです。 当時、晋の佛肸が中牟(趙氏の邑)の宰(長)を勤めていました。 趙鞅(趙簡子)が范氏と中行氏を討伐した時、中牟は趙氏に背きました。佛肸は使者を送って孔子を招きます。 孔子が招きに応じようとすると、子路が言いました「かつて…
東周敬王二十四年(前496年)に『資治通鑑外紀』を元に孔子が魯を去ったことを書きました。 春秋時代266 東周敬王(三十五) 孔子の周遊 前496年(2) 孔子が魯を出てから帰国するまでの足取りは諸説があります。ここでは『史記・孔子世家』の内容を紹介します。…
今回は東周敬王二十四年の続きです。 [十六] 『資治通鑑外紀』は『史記』等の記述から、孔子の事を書いています。 まずは『史記・孔子世家』からです。 魯定公十四年(本年)、五十六歳の孔子は大司寇のまま行攝相事(国相を補佐する官。宰相代理)になりま…
今回は東周敬王二十四年です。二回に分けます。 敬王二十四年 前496年 乙巳 [一] 以前、衛の公叔発(文子)が上朝(臣下が朝廷で国君に謁見し、政事の報告をしたり命を聞くこと)してから霊公を享宴に誘いました。 公叔発は献公の孫です。献公が成子・当を産…
晋で趙を中心にした内乱が起きました。 春秋時代264 東周敬王(三十三) 晋の内争 前497年 『国語』『呂氏春秋』等に趙鞅と董安于に関する記述があるのでここで紹介します。 まずは『国語・晋語九』からです。 下邑(国都以外の邑。ここでは趙鞅の食邑・晋陽)…
今回は東周敬王二十三年です。 敬王二十三年 前497年 甲辰 [一] 春、斉侯(景公)と衛侯(霊公)が垂葭(または「垂瑕」)に駐軍しました。垂葭は郹氏ともいいます。 斉が衛と共に晋を攻撃するため、黄河を渡ろうとしましたが、諸大夫が反対しました。しかし…
今回は東周敬王二十一年と二十二年です。 敬王二十一年 前499年 壬寅 [一] 春、宋景公の同母弟・辰と仲佗、石彄、公子・地が陳から䔥(宋邑)に入って挙兵しました。 秋、宋の楽大心も曹から䔥に入りました。 䔥は宋にとって大きな憂患となります。景公が向…
東周敬王二十年(前500年)に斉の晏子(晏嬰)が死にました。 春秋時代262 東周敬王(三十一) 侯犯の乱 前500年(2) ここでは晏嬰に関する故事を紹介します。 まずは『説苑・君道(第一)』からです。 晏子が死んだ時、斉景公は蔞(恐らく地名)で遊んでいまし…
魯と斉が夾谷で盟を結びました。 春秋時代261 東周敬王(三十) 夾谷の会 前500年(1) 本編では『春秋左氏伝』の内容を書きましたが、ここでは『孔子世家』を中心に『史記』の記述を紹介します。 魯定公十年(東周敬王二十年・前500年)春、魯が斉と和を結びま…
今回は東周敬王二十年の続きです。 [五] 以前、魯の叔孫不敢(叔孫成子)は叔孫州仇(武叔)を後継者に立てようとしました。公若藐(叔孫氏の一族)が強く反対しましたが、叔孫不敢は叔孫州仇を後嗣に立ててから死にます。 後に公南(叔孫氏の家臣。州仇の党…
今回は東周敬王二十年です。二回に分けます。 敬王二十年 前500年 辛丑 紀元前五世紀最初の年になります。 前五世紀に入って二十数年で春秋時代が終わり、戦国時代が始まります。 [一] 春三月、魯と斉が講和しました。 [二] 夏、魯定公が斉景公と祝其で会し…
今回は東周敬王十九年の続きです。 [七] 『史記・孔子世家』によると、陽虎に仕えていた公山不狃も陽虎が出奔した頃に挙兵しました。但し、『春秋左氏伝』は公山不狃の挙兵を三年後(東周敬王二十二年・前498年)に書いているので、『孔子世家』が誤りで、実…
今回は東周敬王十九年です。二回に分けます。 敬王十九年 前501年 庚子 [一] 春、宋景公が桐門右師・楽大心を派遣して晋と盟を結ぼうとしました。楽祁(子梁。前年参照)の死体を取り戻すためです。しかし楽大心は病と称して辞退しました。 景公は向巣を晋に送…
今回は東周敬王十八年の続きです。 [十一] 秋七月戊辰(初七日)、陳懐公が在位四年で死にました。 『史記・陳杞世家』によると、懐公元年(東周敬王十五年・前505年)、呉が楚を破って郢に入った時、呉が陳侯(懐公)を招きました。陳侯は郢に行こうとしま…
今回は東周敬王十八年です。二回に分けます。 敬王十八年 前502年 己亥 [一] 春正月、魯定公が斉を侵して陽州の城門を攻撃しました。 魯の顔高は大弓を持っていました。 魯の陣営で並んで座っていた士卒達が、大弓を手にして珍しそうに「顔高の弓は六鈞(当…
今回は東周敬王十六年と十七年です。 敬王十六年 前504年 丁酉 [一] 春正月癸亥(十八日)、鄭の游速(または「游遬」)が軍を率いて許を滅ぼし、許男・斯を捕えて帰国しました。楚が呉に敗れて影響力が弱くなっていたため、鄭はその隙を衝きました。 当時の…
今回は東周敬王十五年の続きです。 [十] 楚昭王が郢に還りました。 『史記・楚世家』は九月としていますが、『春秋左氏伝(定公五年)』は十月に書いています。 楊伯峻の『春秋左伝注』によると、この時、昭王は十五歳にもなっていません。 昭王が隨に奔った…
今回は東周敬王十五年です。二回に分けます。 敬王十五年 前505年 丙申 [一] 春、楚の乱に乗じて周敬王の部下が楚に出奔していた王子朝を殺しました。 [二] 三月辛亥朔、日食がありました。 [三] 夏、蔡が楚に包囲されて食糧が乏しくなったため、魯が粟(食…