2017-01-01から1年間の記事一覧

東漢時代28 光武帝(二十八) 周党 29年(8)

今回で東漢光武帝建武五年が終わります。 [二十九] 『資治通鑑』からです。 王莽の末年、交趾諸郡が境界を閉ざして守りを固めました。 東漢の岑彭は以前から交趾牧・鄧譲と厚い親交があったため、書を送って国家の威徳を述べました。 また偏将軍・屈充を派遣…

東漢時代27 光武帝(二十七) 馬援帰順 29年(7)

今回も東漢光武帝建武五年の続きです。 [二十四] 『後漢書・光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。 東漢が初めて太学を立てました。 太学は士人のための学校です。『資治通鑑』胡三省注によると、洛陽城の旧開陽門外にあり、皇宮から八里離れていました。講…

東漢時代26 光武帝(二十六) 斉平定 29年(6)

今回も東漢光武帝建武五年の続きです。 [二十三(続き)] 張歩の大軍が臨菑大城の東に至ると、耿弇が光武帝に上書して言いました「臣は臨菑を占拠し、塹(堀)を深くして塁を高くしました。張歩は劇県から攻めて来たので疲労飢渴しています。(彼が)進むこ…

東漢時代25 光武帝(二十五) 劉紆の死 29年(5)

今回も東漢光武帝建武五年の続きです。 [二十] 『後漢書・光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。 秋七月丁丑(初四日)、光武帝が沛を行幸し、高原廟(正廟以外に建てられた高帝の廟)を祀りました。 また、詔を発して西京(西漢)の園陵(皇帝陵)を修復さ…

東漢時代24 光武帝(二十四) 秦豊の死 29年(4)

今回も東漢光武帝建武五年の続きです。 [十六] 『後漢書・光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。 以前、河西大将軍・竇融等は光武帝の威徳を聴き、心中で東に向かおうと欲しましたが、河西が遠く隔たれているため、直接通じることができませんでした。そこで…

東漢時代23 光武帝(二十三) 班彪の諫言 29年(3)

今回も東漢光武帝建武五年の続きです。 [十三] 『資治通鑑』からです。 岑彭が夷陵を攻めて攻略しました。田戎は逃亡して蜀に入ります。田戎の妻子や士衆数万人が捕えられました。 公孫述は田戎を翼江王に封じました。 岑彭が蜀討伐を謀りましたが、長江両岸…

東漢時代22 光武帝(二十二) 彭寵の死 29年(2)

今回は東漢光武帝建武五年の続きです。 [六] 『後漢書・光武帝紀上』からです。 二月壬申(二十七日)、光武帝が商(殷)の後代として章昭侯・孔安を殷紹嘉公に改封しました。 西漢成帝綏和元年(前8年)、孔子の子孫に当たる孔吉、または孔何斉が殷王室の祭…

東漢時代21 光武帝(二十一) 垂恵攻略 29年(1)

今回から東漢光武帝建武五年です。八回に分けます。 東漢光武帝建武五年 己丑 29年 [一] 『後漢書・光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。 春正月癸巳(十七日)、車駕(光武帝)が雒陽の皇宮に還りました。 [二] 『資治通鑑』からです。 光武帝が来歙に符節…

東漢時代20 光武帝(二十) 公孫述と隗囂 28年(3)

今回で東漢光武帝建武四年が終わります。 [十九] 『後漢書・光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。 十一月丙申(十九日)、光武帝が宛を行幸しました。 岑彭が秦豊を攻撃して三年になり、斬首した数は九万余級に上りました。 秦豊の残った兵は千人しかおらず…

東漢時代19 光武帝(十九) 隗囂と馬援 28年(2)

今回は東漢光武帝建武四年の続きです。 [八] 『資治通鑑』からです。 光武帝が詔を発して耿弇に彭寵を攻撃させました。 しかし耿弇は父の上谷太守・耿況に彭寵と同等の功績(光武帝を助けた功績)があり、また、自分の兄弟も京師にいなかったため(耿弇の兄…

東漢時代18 光武帝(十八) 張豊の死 28年(1)

今回から東漢光武帝建武四年です。 東漢光武帝建武四年 戊子 28年 [一] 『後漢書・光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。 正月甲申(初二日)、東漢が大赦を行いました。 [二] 『後漢書・光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。 二月壬子(初一日)、光武帝が…

東漢時代17 光武帝(十七) 劉永の死 27年(5)

今回で東漢光武帝建武三年が終わります。 [二十三] 『後漢書・光武帝紀上』からです。 庚辰(六月壬戌が初七日なので、庚辰は六月二十五日になるはずです。しかし『光武帝紀上』は「七月」に書いてます。「七月」が誤りか「庚辰」が誤りかは分かりません)、…

東漢時代16 光武帝(十六) 岑彭の進撃 27年(4)

今回も東漢光武帝建武三年の続きです。 [十七] 『後漢書・光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。 車駕(皇帝の車。ここでは光武帝を指します)が小長安から還りました。 岑彭に傅俊、臧宮、劉宏等三万余人を率いて南の秦豊を攻撃させました。 五月己酉(二十…

東漢時代15 光武帝(十五) 朱浮の逃走 27年(3)

今回も東漢光武帝建武三年の続きです。 [九] 『後漢書・光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。 睢陽で帝を称した劉永(この時は湖陵にいます)が董憲を海西王に立てました。 劉永は東漢が送った光禄大夫・伏隆(前年参照)が劇(県名)に入ったと聞き、使者…

東漢時代14 光武帝(十四) 赤眉滅亡 27年(2)

今回は東漢光武帝建武三年の続きです。 [七] 『後漢書・光武帝紀上』と『後漢書・劉玄劉盆子列伝(巻十一)』と『資治通鑑』からです。 赤眉の余衆が東の宜陽に向かいました。 これは『資治通鑑』の記述です。前述のとおり、『後漢書・光武帝紀上』は「(赤…

東漢時代13 光武帝(十三) 鄧禹と馮異 27年(1)

今回から東漢光武帝建武三年です。五回に分けます。 東漢光武帝建武三年 丁亥 27年 [一] 『後漢書・光武帝紀上』『後漢書・劉玄劉盆子列伝(巻十一)』と『資治通鑑』からです。 春正月甲子(初六日)、光武帝が赤眉と対峙している馮異を征西大将軍に任命し、…

東漢時代12 光武帝(十二) 赤眉の衰退 26年(7)

今回で東漢光武帝建武二年が終わります。 [三十七] 『後漢書・光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。 冬十一月、光武帝が廷尉・岑彭を征南大将軍に任命しました。 光武帝が大会(大集会、または大宴会)の席で王常を指さして群臣に言いました「この人(此家…

東漢時代11 光武帝(十一) 赤眉転戦 26年(6)

今回も東漢光武帝建武二年の続きです。 [三十一] 『後漢書・光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。 蓋延が睢陽の劉永を包囲して数カ月が経ち、やっと攻略しました。 劉永は虞に走りましたが、虞人が反してその母や妻を殺します。 劉永は麾下数十人と共に譙に…

東漢時代10 光武帝(十) 郭皇后 26年(5)

今回も東漢光武帝建武二年の続きです。 [二十二] 『資治通鑑』からです。 更始政権の鄧王・王常も東漢に降りました。 光武帝は王常に会って非常に喜び、「王廷尉に会ったら南方の憂いがなくなった(不憂南方矣)」と言いました。 『資治通鑑』胡三省注による…

東漢時代9 光武帝(九) 彭寵謀反 26年(4)

今回も東漢光武帝建武二年の続きです。 [十四] 『資治通鑑』からです。 以前、光武帝・劉秀(帝位に即く前の出来事です)が王郎を討った時、漁陽太守・彭寵が突騎を動員して東漢軍を援け、糧食を輸送して前後が絶えることがありませんでした。 劉秀が銅馬を…

東漢時代8 光武帝(八) 糟糠の妻 26年(3)

今回も東漢光武帝建武二年の続きです。 [十] 『資治通鑑』からです。 更始政権の鮑永と馮衍は更始帝・劉玄が確かに死亡したと知り、喪を発して東漢の儲大伯等を釈放しました(儲大伯は前年に捕えられていました)。 鮑永等は印綬に封をして献上し、全ての兵…

東漢時代7 光武帝(七) 劉楊謀反 26年(2)

今回は東漢光武帝建武二年の続きです。 [五] 『後漢書・光武帝紀上』からです。 壬午(十九日)、更始政権の復漢将軍・鄧曅と輔漢将軍・于匡が降りました。どちらも爵位はそのままとされました。 [六] 『後漢書・光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。 東漢…

東漢時代6 光武帝(六) 功臣封侯 26年(1)

今回は東漢光武帝建武二年です。七回に分けます。 東漢光武帝建武二年 丙戌 26年 [一] 『後漢書・光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。 春正月甲子朔、日食がありました。 [二] 『後漢書・劉玄劉盆子列伝(巻十一)』と『資治通鑑』からです。 劉恭は赤眉の…

東漢時代5 光武帝(五) 赤眉の混乱 25年(4)

今回で東漢光武帝建武元年が終わります。 [十三] 『後漢書・光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。 王莽の時代、天下の人々が漢の徳を思念しました。 そこで、左谷に住んでいた安定郡三水の人・盧芳(『資治通鑑』胡三省注によると、三水県に左・右谷があり…

東漢時代4 光武帝(四) 隗囂 竇融 25年(3)

今回も東漢光武帝建武元年の続きです。 [十一] 『後漢書・光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。 隗囂は天水に帰ってから再び部衆を集め、故業(元の基礎、基盤)を新たに興しました。隴右(隴山以西。皇帝は北に坐って南を向くので、西が右、東が左になりま…

東漢時代3 光武帝(三) 劉玄の投降と死 25年(2)

今回は東漢光武帝建武元年の続きです。 [四] 『後漢書・劉玄劉盆子列伝(巻十一)』と『資治通鑑』からです。 長安に入った赤眉が書を下して逃亡中の更始帝・劉玄に告げました「聖公(劉玄の字です)が降ったら長沙王に封じよう。但し、二十日を過ぎたら受け…

東漢時代2 光武帝(二) 朱鮪の帰順 25年(1)

今回は東漢光武帝建武元年です。四回に分けます。西暦25年の続きになります。 東漢光武帝建武元年 乙酉 25年 [一] 『後漢書・光武帝紀上』からです(今までの内容と重複します)。 玄漢劉玄更始三年(25年)六月己未(二十二日)、劉秀が鄗で即位し、建武元…

東漢時代 光武帝即位

玄漢劉玄更始三年・東漢光武帝建武元年(25年)に光武帝が即位しました。 ここでは光武帝が即位するまでの経緯を『後漢書・光武帝紀上』を元に書きます。『資治通鑑』を元にしている本編とは時系列が若干異なります。 新更始時代61 更始劉玄(十三) 劉秀即位 …

東漢時代目録(一)

東漢時代の目録です。 東漢時代に入る前に 東漢時代1 光武帝(一) 東漢光武帝 東漢時代2 光武帝(二) 朱鮪の帰順 25年(1) 東漢時代3 光武帝(三) 劉玄の投降と死 25年(2) 東漢時代4 光武帝(四) 隗囂 竇融 25年(3) 東漢時代5 光武帝(五) 赤眉の混乱 25年(4) 東漢…

東漢時代1 光武帝(一) 東漢光武帝

今回から東漢時代です。 世祖光武皇帝 姓は劉、名は秀、字は文叔といいます。 古代は兄弟の序列を「伯、仲、叔、季」という漢字で表しました。光武帝・劉秀には二人の兄がいましたが、どちらも劉秀が即位する前に死んでいます。長兄・劉縯は字を伯升といい、…