2018-09-01から1ヶ月間の記事一覧
今回で東漢献帝建安九年が終わります。 [七] 『三国志・呉書二・呉主伝』と『資治通鑑』からです。 丹陽の大都督・嬀覧(『資治通鑑』胡三省注によると、舜が嬀汭に住んだため、その後代が嬀を氏にしました)、郡丞・戴員が太守・孫翊(孫権の弟)を殺しまし…
今回は東漢献帝建安九年の続きです。 [一(続き)] 九月、曹操が令を下しました「河北は袁氏の難に遭った(罹袁氏之難)。よって今年の租賦を出さないように命じる(今年の租賦を免除する)。」 また、豪強による土地の兼併を制限する法(豪彊兼并之法)を厳重…
今回は東漢献帝建安九年の続きです。 [一(続き)] 本文に戻ります 夜、袁尚が火を挙げて城中に示しました。城中も火を挙げて応じます。 審配は兵を城北に出し、袁尚と内外で向かい合って包囲を崩そうとしました(欲與尚対決囲)。 しかし曹操に逆撃され、審配…
今回は東漢献帝建安九年です。四回に分けます。 東漢献帝建安九年 甲申 204年 [一] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月、曹操が河を渡り、淇水を止めて水を白溝に入れ、糧道を通しました。袁尚を攻撃するためです。 『資治通鑑』胡…
今回で東漢献帝建安八年が終わります。 [六(続き)] 曹操が南方から軍を還しました。 冬十月、黎陽に至ります。 袁尚は曹操が北に向かって渡河すると聞き、平原の包囲を解いて鄴に還りました。 袁尚の将・呂曠と高翔が叛して曹操に帰順しました。 『三国志・…
今回は東漢献帝建安八年の続きです。 [四] 『三国志・魏書一・武帝紀』からです。 秋七月、曹操が令を下しました「喪乱以来十五年が経ち、後生の者が仁義礼譲の風を見ていないので、吾(私)は甚だ悲痛している(甚傷之)。よって郡国にそれぞれ文学を修めさせ…
今回は東漢献帝建安八年です。三回に分けます。 東漢献帝建安八年 癸未 203年 [一] 『資治通鑑』からです。 春二月、曹操が黎陽を攻め、袁譚、袁尚と城下で戦いました。 袁譚と袁尚は敗走して鄴に還ります。 『三国志・魏書一・武帝紀』は「春三月、(曹操が…
今回で東漢献帝建安七年が終わります。 [五] 『三国志・蜀書二・先主伝』と『資治通鑑』からです。 劉表が劉備に北侵させました。劉備は葉に至ります。 『資治通鑑』胡三省注によると、葉県は南陽郡に属します。春秋時代、楚の葉公・子高の邑でした。 曹操は…
今回は東漢献帝建安七年の続きです。 [四] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 秋九月、曹操が渡河して袁譚を攻めました。 袁譚は袁尚に急を告げます。 袁尚は審配を留めて鄴を守らせ、自ら兵を率いて袁譚を助け、共に曹操を防ぎました。 …
今回は東漢献帝建安七年です。三回に分けます。 東漢献帝建安七年 壬申 202年 [一] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月,曹操が譙に駐軍しました。 譙県は沛国に属し、曹操の郷里です。 曹操が令を発しました「吾(私)は義兵を起こし…
今回は東漢献帝建安六年の続きです。 [四] 『資治通鑑』からです。 曹操が夏侯淵と張遼を派遣し、東海で昌豨を包囲させました(昌豨は献帝建安四年・199年に曹操に叛して劉備に附きました)。 しかし数カ月後に食糧が尽きたため、軍を還すことが議論されまし…
今回から紀元三世紀に入ります。 三世紀は約四百年続いた漢王朝が滅び、魏・呉・蜀が鼎立する三国時代に入ります。 その後、魏から政権を奪った晋が天下を統一しますが、すぐに政局が不安定になり、四世紀には東晋十六国・南北朝という大分裂時代を迎えるこ…
今回で東漢献帝建安五年が終わります。 [十四] 『三国志・呉書二・呉主伝』と『資治通鑑』からです。 以前、孫策が上表して李術を廬江太守にしましたが、孫策の死後、李術は孫権に仕えようとせず、多数の亡叛(逃亡離反)した者を受け入れました。 孫権が書…
今回も東漢献帝建安五年の続きです。 [十] 『資治通鑑』からです。 冬十月辛亥(十二日)、孛星(異星。彗星の一種)が大梁(十二星次の一つ)に現れました。 [十一] 『後漢書・孝献帝紀』からです。 東海王・劉祗が死にました。 劉祗の諡号は懿王といいます…
今回も東漢献帝建安五年の続きです。 [九(続き)] 袁紹軍は驚擾(恐慌・混乱)して大崩壊しました。 袁紹および袁譚等は幅巾(頭巾)を被って馬に乗り、軍を棄てて八百騎と共に渡河します。 曹操は袁紹を追撃して追いつけませんでしたが、輜重、図書、珍宝を…
今回も東漢献帝建安五年の続きです。 [九(続き)] 曹操が袁紹と対峙して月を連ねました。最近の戦いで敵将を斬りましたが、兵の数は少なく、食糧も尽き、士卒は疲弊窮乏しています。 曹操が物資を輸送する者に会った時、彼等を撫でて(または「慰撫して」。『…
今回も東漢献帝建安五年の続きです。 [九] 『後漢書・孝献帝紀』『三国志・魏書一・武帝紀』本文および裴松之注と『資治通鑑』からです。 曹操が兵を出して袁紹と戦いましたが、勝てなかったため、引き返して営壁を堅めました。 『三国志・武帝紀』はここで…
今回も東漢献帝建安五年の続きです。 [五] 『後漢書・孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。 秋七月、献帝が皇子・劉馮を南陽王に立てました。 壬午(十二日)、南陽王・劉馮が死にました。 『補後漢書年表(巻二)』によると、劉馮には子がいなかったため、国…
今回も東漢献帝建安五年の続きです。 [四(続き)] 孫策の死後、跡を継いだ孫権は悲痛のため号泣し、政務を行いませんでした(未視事)。 ここで少し遡って孫権について書きます。 孫権は字を仲謀といいます。 孫堅が下邳丞だった時に生まれました。四角い頤…
東漢献帝建安四年(199年)に高岱が盛憲を連れて許昭の家に避難しました 東漢時代377 献帝(五十九) 孫策の進撃(下) 199年(5) 以下、『三国志・呉書一・孫破虜討逆伝』裴松之注から高岱について書きます。 高岱という者が餘姚で隠棲していました。 ある時、孫…
東漢献帝建安五年(200年)に孫策が殺されました。 東漢時代381 献帝(六十三) 孫策の死(上) 200年(3) 東漢時代382 献帝(六十四) 孫策の死(下) 200年(4) 孫策の死には于吉という道士が関わっていたともいわれています。『三国志・呉書一・孫破虜討逆伝』裴松…
今回も東漢献帝建安五年の続きです。 [四(続き)] 前回、孫策が死にました。 『三国志・呉書一・孫破虜討逆伝』は孫策が死んだ日を明確にしておらず、「建安五年、曹公と袁紹が官渡で対峙したため、孫策が秘かに許を襲撃して漢帝を迎えようと欲し、隠れて兵…
今回も東漢献帝建安五年の続きです。 [四] 『三国志・呉書一・孫破虜討逆伝』『三国志・呉書二・呉主伝』の本文および裴松之注と『後漢書・孝献帝紀』『資治通鑑』からです。 広陵太守・陳登が射陽を治めていました。陳登は陳瑀の従兄(陳珪)の子です。 孫…
今回は東漢献帝建安五年の続きです。 [三(続き)] 袁紹が郭図、淳于瓊、顔良を派遣し、白馬で東郡太守・劉延を攻撃させました。 沮授が袁紹に「顔良の性(性格)は促狭(度量が小さいこと)です。驍勇とはいえ、彼一人に任せることはできません(不可独任)…
今回は東漢献帝建安五年です。十一回に分けます。 東漢献帝建安五年 庚辰 200年 [一] 『後漢書・孝献帝紀』『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月、董承等の謀が漏れました。 壬午(『孝献帝紀』では「壬午」ですが、『資治通鑑』では…
今回で東漢献帝建安四年が終わります。 [十三] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 曹操が官渡に駐屯しました。 曹操の常従士(常に左右に従う衛士)・徐他等が曹操暗殺を謀り、曹操の帳に入りました。しかし校尉・許褚を見て顔色が変わり…
今回も東漢献帝建安四年の続きです。 [十一(続き)] 孫策が盛兵して(兵を集結して)豫章を攻略しようとしました。椒丘に駐軍します。 『資治通鑑』胡三省注によると、椒丘は豫章南昌県から数十里離れています。 孫策が功曹・虞翻に言いました「華子魚(子…
今回も東漢献帝建安四年の続きです。 [十一] 『三国志・呉書一・孫破虜討逆伝』と『資治通鑑』からです。 揚州賊の帥・鄭宝が居民を略して(奪って)江表(長江以南)に赴こうとしました。 淮南の人・劉曄が高族の名人(貴族の名士)だったため(『三国志・魏…
今回も東漢献帝建安四年の続きです。 [九] 『資治通鑑』からです。 袁紹と曹操が争っている中、関中諸将は皆、中立・顧望(傍観)しました。 涼州牧・韋端が従事・天水の人・楊阜を派遣して許を訪ねさせました。 楊阜が還ると、関右(関西)の諸将が問いました…
今回は東漢献帝建安四年の続きです。 [七] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 袁紹は公孫瓉に勝ってその地を併合してから、四州の地を兼ねており、衆も十余万を数えました。心中にますます驕りを抱き、貢御(朝廷への貢物)が稀簡(少なく…