2018-01-01から1ヶ月間の記事一覧
今回から東漢明帝の時代です。 顕宗孝明皇帝 光武帝の第四子で、母は陰皇后です。 元の名は劉陽といい、後に劉荘に改名しました。 以下、『後漢書・顕宗孝明帝紀』からです。 明帝は顔が四角く(原文「豊下」。顎が豊かなこと)、十歳で『春秋』に通じること…
今回で東漢光武帝中元二年が終わります。 [八] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』と『資治通鑑』からです。 夏四月丙辰(二十四日)、明帝が詔を発しました「予末小子(帝王の謙遜した自称。私)は聖業を奉承(継承)して夙夜(朝から夜まで)震畏しており、荒寧(荒…
今回は東漢光武帝中元二年の続きです。 [三] 『後漢書・光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。 二月戊戌(初五日)、光武帝が南宮前殿で死にました。六十二歳です。 光武帝の遺詔が発表されました「朕は百姓にとって益がなかったので、全て孝文皇帝の制度(…
今回は東漢光武帝中元二年です。三回に分けます。 東漢光武帝中元二年 丁巳 57年 [一] 『後漢書・光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。 春正月辛未(初八日)、東漢になって初めて、北郊を建てて后土(地の神)を祀りました(前年参照)。 [二] 『後漢書・…
今回は東漢光武帝中元元年の続きです。 [五] 『後漢書・光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。 光武帝が長安を行幸しました。 四月戊子(二十日)、長陵(高帝陵)を祀りました。 五月乙丑(二十八日)、長安から皇宮に還りました。 [六] 『後漢書・光武帝紀下…
今回は東漢光武帝中元元年です。二回に分けます。 東漢光武帝中元元年 丙辰 56年 年号の「中元」ですが『資治通鑑』胡三省注によると、成都にある漢蜀郡太守・何君が造った『尊楗閣碑』に「建武中元二年六月」と書かれており、『後漢書・祭祀志上』には「建…
今回は東漢光武帝建武二十九年から三十一年までです。 東漢光武帝建武二十九年 癸丑 53年 [一] 『後漢書・光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。 春二月丁巳朔、日食がありました。 [二] 『後漢書・光武帝紀下』からです。 光武帝が使者を送って冤獄(冤罪)…
今回は東漢光武帝建武二十八年です。 東漢光武帝建武二十八年 壬子 52年 [一] 『後漢書・光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。 春正月己巳(中華書局『白話資治通鑑』は「己巳」を恐らく誤りとしています)、魯王・劉興(光武帝の兄・劉縯の子)を北海王に…
今回は東漢光武帝建武二十七年です。 東漢光武帝建武二十七年 辛亥 51年 [一] 『後漢書・光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。 夏四月戊午(二十一日)、大司徒・玉況が死にました。 [二] 『後漢書・光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。 五月丁丑(十一日)…
今回は東漢光武帝建武二十六年です。 東漢光武帝建武二十六年 庚戌 50年 [一] 『後漢書・光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。 正月、光武帝が詔を発して百官の奉(俸。実際の収入)を定めました。千石以上は西京(西漢)の旧制より少なくし、六百石以下は…
今回は東漢光武帝建武二十五年の続きです。 [四(続き)] 元雲陽令(『資治通鑑』胡三省注によると、雲陽県は左馮翊に属し、秦の雲陽宮がありました。西漢の鉤弋夫人(昭帝の母)が雲陽に埋葬され、昭帝が母のために雲陵邑を築きました)・扶風の人・朱勃が宮…
今回は東漢光武帝建武二十五年です。二回に分けます。 東漢光武帝建武二十五年 己酉 49年 [一] 『後漢書・光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。 春正月、遼東徼外(境外)の貊人が辺境の右北平、漁陽、上谷、太原を侵しましたが、遼東太守・祭肜が招降しま…
今回は東漢光武帝建武二十四年です。 東漢光武帝建武二十四年 戊申 48年 [一] 『後漢書・光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。 春正月乙亥(十九日)、天下に大赦しました。 [二] 『後漢書・光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。 匈奴の八部大人が共に議し…
今回は東漢光武帝建武二十三年です。 東漢光武帝建武二十三年 丁未 47年 [一] 『後漢書・光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。 春正月、南郡の蛮(異民族)が叛しました。 光武帝は武威将軍・劉尚を派遣して討伐させ、これを破りました。 その種人(族人)…
今回は東漢光武帝建武二十二年です。 東漢光武帝建武二十二年 丙午 46年 [一] 『後漢書・光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。 春閏正月丙戌(十九日)、光武帝が長安に行幸しました。高廟を祀ってから十一陵で祭事を行います。 二月己巳(中華書局『白話資…
今回は東漢光武帝建武二十一年です。 東漢光武帝建武二十一年 乙巳 45年 [一] 『後漢書・光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。 春正月、武威将軍・劉尚が益州夷の棟蠶等を追撃して不韋に至り、棟蠶の帥を斬りました。 西南諸夷が全て平定されます。 『資治…
今回は東漢光武帝建武二十年です。 東漢光武帝建武二十年 甲辰 44年 [一] 『後漢書・光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。 春二月戊子(初十日)、車駕(光武帝)が皇宮に還りました。 [二] 『資治通鑑』からです。 夏四月庚辰(初三日)、大司徒・戴渉が罪…
今回は東漢光武帝建武十九年の続きです。 [六] 『後漢書・光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。 郭后(郭聖通)が廃されてから(光武帝建武十七年・41年)、太子・劉彊(郭皇の子)が心中に不安を抱きました。 郅惲が太子に言いました「久しく疑位(確実で…
今回は東漢光武帝建武十九年です。二回に分けます。 東漢光武帝建武十九年 癸卯 43年 [一] 『後漢書・光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。 五官中郎将・張純と太僕・朱浮が奏議(上奏・建議)しました「礼においては、人の子たる者は大宗につかえ(為人子…
今回は東漢光武帝建武十八年です。 東漢光武帝建武十八年 壬寅 42年 [一] 『後漢書・光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。 春二月、蜀郡守将・史歆が反し、太守・張穆を攻めました。 張穆は城壁を越えて逃走します。 宕渠の人・楊偉等も挙兵して史歆に呼応…
今回は東漢光武帝建武十七年です。 東漢光武帝建武十七年 辛丑 41年 [一] 『後漢書・光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。 春正月、趙孝公・劉良(光武帝の叔父)が死にました。 以前、懐県の大姓(豪族。有力者)・李子春の二人の孫が人を殺しました。 懐…
今回は東漢光武帝建武十六年です。 東漢光武帝建武十六年 庚子 40年 [一] 『後漢書・光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。 交趾麊泠県の雒将の女子(娘)・徵側はとても雄勇(勇猛)でした。 交趾太守・蘇定が法を用いて拘束したため(以法縄之)、徵側は忿…
今回は東漢光武帝建武十五年の続きです。 [七] 『後漢書・光武帝紀下』からです。 六月庚午、再び屯騎、長水、射声三校尉の官を置きました(光武帝建武七年・31年参照)。 また、青巾左校尉を改めて越騎校尉にしました(光武帝建武九年・33年参照)。 [八] …
今回は東漢光武帝建武十五年です。二回に分けます。 東漢光武帝建武十五年 己亥 39年 [一] 『後漢書・光武帝紀下』『後漢書・伏侯宋蔡馮趙牟韋列伝(巻二十六)』と『資治通鑑』からです。 春正月辛丑(二十三日)、大司徒・韓歆を罷免しました。 韓歆は直言を…
今回は東漢光武帝建武十四年です。 東漢光武帝建武十四年 戊戌 38年 [一] 『後漢書・光武帝紀下』からです。 春正月、南宮前殿を築きました。 [二] 『後漢書・光武帝紀下』からです。 匈奴が使者を送って東漢に奉献しました。 光武帝は中郎将を派遣して報命…
今回は東漢光武帝建武十三年の続きです。 [六] 『後漢書・光武帝紀下』からです。 西京(西漢)の十三国(実際は九国です)を省いて他の郡国に属させました。 広平国を鉅鹿郡に属させ、真定国を常山郡に属させ、河閒国(河間国)を信都国に属させ、城陽国を…
今回は東漢光武帝建武十三年です。二回に分けます。 東漢光武帝建武十三年 丁酉 37年 [一] 『後漢書・光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。 春正月庚申(初一日)、大司徒・侯霸が死にました。 [二] 『後漢書・光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。 戊子(…
今回で東漢光武帝建武十二年が終わります。 [九] 『後漢書・光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。 十二月辛卯(初一日)、揚武将軍・馬成を行大司空事(大司空代理)にしました。 [十] 『後漢書・光武帝紀下』からです。 この年、九真徼外(界外)の蛮夷・…
今回は東漢光武帝建武十二年の続きです。 [八] 『資治通鑑』からです。 困窮した公孫述が延岑に「どうするべきだ(事当奈何)?」と問いました。 延岑が言いました「男児なら死中に生を求めるべきです。どうして坐したまま窮せるでしょう。財物は容易に集め…
今回は東漢光武帝建武十二年です。三回に分けます。 東漢光武帝建武十二年 丙申 36年 [一] 『後漢書・光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。 春正月、大司馬・呉漢が公孫述の将・魏党と公孫永を魚涪津で破り、武陽を包囲しました。 公孫述は子壻(娘婿)に当…