2017-05-01から1ヶ月間の記事一覧
今回は昭帝始元六年の続きです。 [三(続き)] 匈奴で壺衍鞮単于が即位すると(昭帝始元二年・前85年)、母の閼氏が不正を行ったため(衛律等が顓渠閼氏と謀って壺衍鞮単于に立てたことを指します)、国内が乖離しました。匈奴は常に漢兵の襲撃を恐れるように…
今回は西漢昭帝始元六年です。二回に分けます。 西漢昭帝始元六年 庚子 前81年 [一] 『漢書・昭帝紀』からです。 春正月、昭帝が上林苑で農耕しました。 [二] 『漢書・昭帝紀』と『資治通鑑』からです。 春二月、昭帝が詔を発し、有司(官員)に各地の郡国か…
今回は昭帝始元五年です。 西漢昭帝始元五年 己亥 前82年 [一] 『漢書・昭帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月、昭帝が外祖父の趙父を追尊して順成侯に封じました。 順成侯・趙父は鉤弋夫人(昭帝の母)の父です。『資治通鑑』胡三省注は「趙父が既に死ん…
今回は昭帝始元三年と四年です。 西漢昭帝始元三年 丁酉 前84年 [一] 『漢書・昭帝紀』と『資治通鑑』からです。 春二月、西北に孛星(異星。彗星の一種)が現れました。 [二] 『漢書・昭帝紀』からです。 秋、民を募って雲陵(皇太后陵)に遷し、銭と田宅を…
今回は昭帝始元二年です。 西漢昭帝始元二年 丙申 前85年 [一] 『資治通鑑』からです。 春正月、大将軍・霍光を博陸侯に、左将軍・上官桀を安陽侯に封じました。 武帝時代に謀反した馬何羅、馬通等を捕斬した功績による封侯です(前年参照)。 [二] 『資治通鑑…
今回は昭帝始元元年の続きです。 [七(続き)] 『漢書・武五子伝(巻六十三)』と『資治通鑑』に戻ります。 劉長が燕王・劉旦に代わって燕の群臣にこう言いました「寡人(燕王)は先帝の休徳(美徳)のおかげで北藩を奉じることができ、自ら明詔を受けて官吏の…
今回は昭帝始元元年です。二回に分けます。 西漢昭帝始元元年 乙未 前86年 [一] 『漢書・昭帝紀』からです。 春二月、黄鵠(黄色味を帯びた白鳥)が建章宮太液池の中に降りました。 公卿が上寿(長寿を祝うこと)し、昭帝が諸侯王、列侯、宗室に序列に応じて金…
今回から西漢昭帝の時代です。 孝昭皇帝 武帝の少子で劉弗陵といいます。即位後、二字を諱(実名)として避けるのは困難なため、劉弗と名乗りました。 昭帝の母は趙倢伃(倢伃は宮女の階級です)です。以下、『漢書・外戚伝上(巻九十七上)』から抜粋します…
今回は西漢武帝後元二年の続きです。武帝の時代が終わります。 [三] 『漢書・武帝紀』『漢書・昭帝紀』と『資治通鑑』からです。 二月戊辰(十五日)、太子・劉弗陵が皇帝の位に即き、高廟を拝謁しました。 劉弗陵を昭帝といいます。 『漢書』の注によると、…
今回は西漢武帝後元二年です。二回に分けます。 西漢武帝後元二年 甲午 前87年 [一] 『漢書・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月、武帝が甘泉宮で諸侯王の朝見を受けました。宗室に賞賜を与えました。 二月、盩厔県の五柞宮を行幸しました。 [二] 『漢…
今回は西漢武帝後元元年です。 西漢武帝後元元年 癸巳 前88年 後元は武帝最後の年号になります。 [一] 『漢書・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月、武帝が甘泉を行幸して泰畤で郊祭を行いました。 その後、安定に行幸しました。 [二] 『漢書・武帝紀…
今回は西漢武帝征和四年です。 西漢武帝征和四年 壬辰 前89年 [一] 『漢書・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月、武帝が東莱を行幸してから大海に臨みました。海に出て神山を求めようとします。 群臣が止めても武帝は聞きません。 しかしちょうど大風…
今回は西漢武帝征和三年です。 西漢武帝征和三年 辛卯 前90年 [一] 『漢書・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月、武帝が雍を行幸し、安定と北地に至りました。 [二] 『漢書・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 匈奴が五原と酒泉に侵入して両都尉を殺し…
今回で西漢武帝征和二年が終わります。 [五(続き)] 七月庚寅(十七日)、太子の兵が敗れました。太子は南の覆盎城門に奔ります。 『資治通鑑』胡三省注によると、長安城南面の東端にある門を覆盎城門、または杜門といいました。長楽宮は長安城の東部に位置し…
今回は西漢武帝征和二年の続きです。 [五(続き)] 江充は太子や衛氏と間隙があったため、年老いた武帝を見て、晏駕(崩御)の後に太子に誅殺されるのではないかと恐れました。そこで姦計を弄して武帝の病は巫蠱の祟りが原因だと上奏しました。 武帝は江充を使…
今回は西漢武帝征和二年です。三回に分けます。 西漢武帝征和二年 庚寅 前91年 [一] 『漢書・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月、武帝が丞相・公孫賀を逮捕して獄に下しました。事件(前年参照)の調査が始まります。 公孫賀と公孫敬声の父子は獄中で…
今回は西漢武帝太始四年と征和元年です。 西漢武帝太始四年 戊子 前93年 [一] 『漢書・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 春三月、武帝が泰山に行幸しました。 壬午(二十五日)、高祖を明堂で祀って上帝に配しました。 ここで各地の計(戸籍財政等の帳簿)…
今回は西漢武帝太始二年と三年です。 西漢武帝太始二年 丙戌 前95年 [一] 『漢書・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月、武帝が回中を行幸しました。 [二] 『漢書・武帝紀』からです。 三月、武帝が詔を発しました「有司(官員)が議して言うには、以前…
今回は西漢武帝天漢三年から太始元年までの三年間です。 西漢武帝天漢三年 癸未 前98年 [一] 『漢書・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 春二月、御史大夫・王卿が罪を問われて自殺しました(王卿の「卿」は尊称かもしれません。下部コメント欄を参照くださ…
今回は西漢武帝天漢二年の続きです。 [二(続き)] 李陵が敗れた場所は塞から百余里しか離れていませんでした。 情報を聞いた辺塞が朝廷に報告します。 武帝は李陵の戦死を望みましたが、後に李陵が投降したと聞いて激怒しました。 陳歩楽に問責したため陳歩楽…
今回は西漢武帝天漢二年です。二回に分けます。 西漢武帝天漢二年 壬午 前99年 [一] 『漢書・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 春、武帝が東海に行幸しました。 還りに回中を通りました。 [二] 『漢書・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 夏五月、武帝が貳…
今回は西漢武帝天漢元年の続きです。 [二(続き)] 『資治通鑑』からです。 虞常は漢にいた時から副使の張勝と知り合いだったため、個人的に張勝を訪ねてこう言いました「漢の天子は衛律をとても怨んでいると聞いた。常(私)は漢のために弩を伏せて彼を射殺す…
今回から紀元前一世紀に入ります。 紀元前一世紀は中国の北方を脅かしてきた匈奴が衰弱します。しかし漢帝国も武帝の時代が終わると急速に衰退し始め、外戚(皇后の一族)が権力を握るようになり、次の世紀の頭に西漢帝国は滅んでしまいます。 まずは西漢武…
今回は西漢武帝太初四年です。 西漢武帝太初四年 庚辰 前101年 [一] 『漢書・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 春、大宛王を斬って汗血馬を得た貳師将軍・李広利が凱旋して京師に至りました。 武帝は『西極天馬の歌』を作りました。 漢軍が通った小国は宛が…
今回は西漢武帝太初三年の続きです。 [六] 『資治通鑑』からです。 漢が浞野侯・趙破奴の兵を失ったため(前年参照)、外征を議論していた公卿は皆、宛への征討を中止し、匈奴遠征に専念することを願いました。 しかし武帝は、既に宛を誅滅する兵を出したの…
今回は西漢武帝太初三年です。二回に分けます。 西漢武帝太初三年 己卯 前102年 [一] 『資治通鑑』からです。 春正月、膠東太守・延広を御史大夫に任命しました。 『資治通鑑』胡三省注によると、延広は名で、姓は伝わっていません。 尚、荀悦の『前漢紀』は…
今回は西漢武帝太初二年です。 西漢武帝太初二年 戊寅 前103年 [一] 『漢書・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月戊申(中華書局『白話資治通鑑』は「戊申」を恐らく誤りとしています)、丞相・牧丘恬侯・石慶が死にました。 閏正月丁丑(中華書局『白…
今回は西漢武帝太初元年です。 西漢武帝太初元年 丁丑 前104年 始めて夏正(夏暦)を用いて正月を歳首にしました。そのため太初に改元しました。 [一] 『漢書・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 冬十月、武帝が泰山を行幸しました。 十一月甲子朔旦が冬至に…
今回は西漢武帝元封六年です。 西漢武帝元封六年 丙子 前105年 [一] 『漢書・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 冬、武帝が回中を行幸しました。 春、首山宮を造りました。 『漢書・武帝紀』の注によると、首山宮が建てられた場所は「上郡」と「河東郡」とい…
今回は西漢武帝元封四年と五年です。 西漢武帝元封四年 甲戌 前107年 [一] 『漢書・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 冬十月、武帝が雍に行幸して五畤を祀りました。 武帝は回中の道を通って北の蕭関を出てから、独鹿、鳴沢(『資治通鑑』胡三省注によると…