2016-06-01から1ヶ月間の記事一覧

第六十四回 曲沃城で欒盈が滅び、且于門で杞梁が死ぬ(四)

*今回は『東周列国志』第六十四回その四です。 斉荘公は晋との戦いで功を立てることができませんでしたが、雄心はまだ死んでいません。斉の国境まで来ても国に入ろうとせず、こう言いました「平陰の役で莒人はその郷から斉を襲おうとした。この仇に報いなけ…

第六十四回 曲沃城で欒盈が滅び、且于門で杞梁が死ぬ(三)

*今回は『東周列国志』第六十四回その三です。 荀呉は范匄の将令を受け、将士に食事をさせてから攻撃の時を待ちました。 暫くすると欒氏の兵が混乱して外関から出ていきました。荀呉は外兵(范鞅、斐豹の兵)が到着したと知って戦鼓を響かせ、関門を大きく…

第六十四回 曲沃城で欒盈が滅び、且于門で杞梁が死ぬ(二)

*今回は『東周列国志』第六十四回その二です。 翌日、斐豹は甲冑を内に着て外に練袍を加え、堅く縛りつけました。頭には韋弁(礼冠)を被り、足には麻屨を履き、腰には利刃(鋭利な刀)を隠し、手には重さ五十二斤の銅鎚を持っています。 斐豹が范匄に別れ…

第六十四回 曲沃城で欒盈が滅び、且于門で杞梁が死ぬ(一)

第六十四回 曲沃城で欒盈が族を滅ぼし、且于門で杞梁が戦って死ぬ (曲沃城欒盈滅族 且于門杞梁死戦) *今回は『東周列国志』第六十四回その一です。 范匄は子の范鞅を送って魏舒を迎えに行かせましたが、うまくいくかどうかわからず不安だったため、自ら城…

第六十三回 老祁奚が羊舌を救い、小范鞅が魏舒を取る(後編)

*今回は『東周列国志』第六十三回後編です。 周霊王二十二年、呉王諸樊が晋に婚姻を求めました。晋平公は娘を呉に嫁がせることにします。 それを知った斉荘公が崔杼と謀って言いました「寡人は欒盈を帰国させると約束したが、まだその機会を得ていない。曲…

第六十三回 老祁奚が羊舌を救い、小范鞅が魏舒を取る(中編)

*今回は『東周列国志』第六十三回中編です。 陽畢の兵が著邑に到着すると、邑人がこう言いました「盈は来ていません。曲沃から既に出奔しました。」 陽畢は兵を引き上げ、道中で欒氏の罪を宣布して国都に向かいました。しかし百姓は欒氏が功臣であり、欒盈…

第六十三回 老祁奚が羊舌を救い、小范鞅が魏舒を取る(前編)

第六十三回 老祁奚が力で羊舌を救い、小范鞅が智で魏舒を奪い取る (老祁奚力救羊舌 小范鞅智劫魏舒) *今回は『東周列国志』第六十三回前編です。 箕遺は叔虎の家で黄淵が来るのを待ち、夜半になって一斉に乱を起こすつもりでした。 しかし范鞅が兵を率い…

戦国時代 魏の出来事(2)

『史記・魏世家』から魏安釐王時代の出来事を紹介しています。 戦国時代 魏の出来事(1) 前回の続きです。 魏王はかつて秦に助けられたことがあったため、秦と親しくして韓を攻めることで失った領地を恢復しようとしました。しかし魏無忌(『戦国策・魏策三…

戦国時代 魏の出来事(1)

『史記・魏世家』に魏安釐王十一年(東周赧王四十九年・前266年)頃の魏に関する出来事が書かれています。 戦国時代99 東周赧王(三十七) 范睢の報復 前266年 具体的にいつの事かははっきりしません。 二回に分けて紹介します。 秦昭王が左右の近臣に問いまし…

戦国時代99 東周赧王(三十七) 范睢の報復 前266年

今回は東周赧王四十九年です。 赧王四十九年 前266年 乙未 [一] 秦が魏の邢丘(または「郪丘」「廩丘」)を攻略しました。 これは『資治通鑑』の記述で、『史記・范睢列伝(巻七十九)』と『六国年表』を元にしています。『秦本紀』は「夏、魏を攻めて邢丘と…

戦国時代98 東周赧王(三十六) 秦悼太子の死 前269~267年

今回は東周赧王四十六年から四十八年です。 赧王四十六年 前269年 壬辰 [一] 秦の中更・胡傷(胡陽)が再び趙の閼與(『史記・六国年表』では閼與は韓領。前年参照)を攻めましたが攻略できませんでした。 閼與の戦いがあった年に関して諸説があります。 『…

第六十二回 諸侯が斉国を囲み、晋臣が欒盈を逐う(後篇)

*今回は『東周列国志』第六十二回後編です。 この年夏五月、斉霊公が病にかかりました。 大夫・崔杼が慶封と商議し、温車を使って元太子・光を即墨から迎え入れます。 夜、慶封が家甲を率いて太傅・高厚の門を叩き、高厚が迎えに出たところを捕えて殺しまし…

第六十二回 諸侯が斉国を囲み、晋臣が欒盈を逐う(中篇)

*今回は『東周列国志』第六十二回中編です。 晋と諸侯の大軍が急襲すると、斉兵には対抗する力がなく、大半が死傷しました。析帰父は晋兵に捕えられそうになりましたが、なんとか単身で脱出して平陰の城内に逃げ帰り、霊公に報告しました「晋兵が三路から塹…

第六十二回 諸侯が斉国を囲み、晋臣が欒盈を逐う(前篇)

第六十二回 諸侯が同心して斉国を囲み、晋臣が計を合わせて欒盈を逐う (諸侯同心囲斉国 晋臣合計逐欒盈) *今回は『東周列国志』第六十二回前編です。 尹公佗は庚公差の言を信じず、車を返して衛侯を追撃しました。二十余里駆けたところでやっと追いつきま…

第六十一回 晋悼公が蕭魚で会し、孫林父が献公を逐う(四)

*今回は『東周列国志』第六十一回その四です。 話は衛に移ります。 衛献公は名を衎といい、周簡王十年に父・定公に代わって即位しました。 献公は父の喪に服している間も哀しみを見せなかったため、嫡母の定姜が献公は位を失うことになる予想し、しばしば戒…

第六十一回 晋悼公が蕭魚で会し、孫林父が献公を逐う(三)

*今回は『東周列国志』第六十一回その三です。 翌年は周霊王十一年です。 呉子・寿夢が重い病にかかったため、四子を招きました。諸樊、餘祭、夷昧、季札が床の前に集まります。 寿夢が言いました「汝等兄弟四人の中で、札に最も賢才がある。もし札が即位し…

第六十一回 晋悼公が蕭魚で会し、孫林父が献公を逐う(二)

*今回は『東周列国志』第六十一回その二です。 公孫舍之は単車で昼夜を駆けて南に向かい、潁水を渡って一舍(三十里)も行かないところで楚軍に遭遇しました。 公孫舍之が車から下りて楚王の馬前に拝伏します。 楚共王が厳しい口調で問いました「鄭は反覆し…

第六十一回 晋悼公が蕭魚で会し、孫林父が献公を逐う(一)

第六十一回 晋悼公が楚に駕して蕭魚で会し、孫林父が歌によって献公を逐う (晋悼公駕楚会蕭魚 孫林父因歌逐献公) *今回は『東周列国志』第六十一回その一です。 晋と諸侯の兵が偪陽城を包囲して二十四日が経ちましたが、攻略できませんでした。 突然、天…

第六十回 智武子が敵を侵し、逼陽城で三将が力を争う(四)

*今回は『東周列国志』第六十回その四です。 智罃が分軍の令を定めて鄭を討伐しようとした時、廷臣が「宋国の文書が届きました」と報告しました。 悼公がそれを読むと、楚と鄭の二国が協力して頻繁に兵を起こし、宋の国境を侵していると書かれていました。…

第六十回 智武子が敵を侵し、逼陽城で三将が力を争う(三)

*今回は『東周列国志』第六十回その三です。 晋軍が虎牢まで来ると鄭人が盟を請いに来たため、荀罃は同意しました。 ところが晋軍が引き上げると楚共王が自ら鄭を討伐したため、鄭は再び楚と和を結びました。楚軍も引き上げます。 悼公が激怒して諸大夫に問…

第六十回 智武子が敵を侵し、逼陽城で三将が力を争う(二)

*今回は『東周列国志』第六十回その二です。 話は呉に移ります。 巫臣の子・巫狐庸は晋侯の命を受けて呉に入り、呉王・寿夢に楚討伐の兵を請いました。同意した寿夢は世子・諸樊を将に任命して江口に駐軍させます。 この情報は諜人によってすぐ楚国に伝えら…

第六十回 智武子が敵を侵し、逼陽城で三将が力を争う(一)

第六十回 智武子が軍を分けて敵を侵し、逼陽城で三将が力を争う (智武子分軍肆敵 逼陽城三将鬥力) *今回は『東周列国志』第六十回その一です。 周簡王十三年夏四月、楚共王が右尹・壬夫の計を用いて自ら大軍を統率し、鄭成公と共に宋を討伐しました。魚石…

第五十九回 胥童を寵して晋国が乱し、岸賈を誅して趙氏が復す(後編)

*今回は『東周列国志』第五十九回後編です。 晋厲公の葬事が終わると欒書が諸大夫を集めて新君について相談しました。 荀偃が言いました「三郤が死んだ時、胥童が孫周の擁立を理由に讒言しました。これは讖(予言)というものでしょう。霊公が桃園で死に(…

第五十九回 胥童を寵して晋国が乱し、岸賈を誅して趙氏が復す(中編)

*今回は『東周列国志』第五十九回中編です。 晋の郤至が周に行くことになりました。鄢陵で楚に勝った報告をして戦利品を献上するためです。 その間に胥童が秘かに人を送って孫周にこう伝えました「晋国の政治は半分を郤氏が握っています。今回、温季(郤至…

第五十九回 胥童を寵して晋国が乱し、岸賈を誅して趙氏が復す(前編)

第五十九回 胥童を寵して晋国が大乱し、岸賈を誅して趙氏が復興する (寵胥童晋国大乱 誅岸賈趙氏復興) *今回は『東周列国志』第五十九回前編です。 楚の中軍元帥を勤める公子・側は酒が好きで、いつも酒に手をつけると百觚(杯)は飲み続け、一度醉ったら…

戦国時代97 東周赧王(三十五) 遠交近攻 前270年(三)

今回で東周赧王四十五年が終わります。『史記・范睢列伝(巻七十九)』と『資治通鑑』から范睢について書いています。 [四(続き)] 上書を読んだ秦王は范睢の才能を知って悦び、王稽に謝罪して伝車を送りました。范雎が召されます。 秦王は離宮(別宮)で范睢…

戦国時代96 東周赧王(三十四) 范睢登場 前270年(二)

今回は東周赧王四十五年の続きです。 [四] 秦で「遠交近攻(遠国と結んで隣国を攻める)」という方針を提唱した范睢という人物が登場します(「范睢(左が「目」)」ではなく「范雎(左が「且」)」とする説が有力ですが、『資治通鑑』に倣って「范睢」と書…

戦国時代95 東周赧王(三十三) 閼與の戦い 前270年(一)

今回は東周赧王四十五年です。三回に分けます。 赧王四十五年 前270年 辛卯 [一] 秦が趙を攻めて閼與を包囲しました。 これは『資治通鑑』の記述です。『史記・趙世家』には「秦と韓が互いに攻撃し合い、(秦が)閼與を包囲した」とあります。『六国年表』に…

戦国時代94 東周赧王(三十二) 秦の宣太后と儀渠滅亡 前272~271年

今回は東周赧王四十三年と四十四年です。 赧王四十三年 前272年 己丑 [一] 前年、秦が韓・魏と共に楚を攻めようとしましたが、楚の左徒(官名)・黄歇が上書して止めさせました。黄歇が帰国して楚に報告すると、楚は秦と同盟するために人質として太子・完を…

戦国時代93 東周赧王(三十一) 春申君・黄歇 前273年(二)

今回は東周赧王四十二年の続きです。 [四] 韓と魏が秦に服したため、秦王は武安君・白起に命じて韓・魏と共に楚を攻撃させることにしました。 しかし出兵前に楚の使者・黄歇(春申君)が秦に来ました。 『資治通鑑』胡三省注によると、陸終の後世が黄に封じら…