2016-11-01から1ヶ月間の記事一覧
今回も秦二世皇帝三年の続きです。 [十] 『史記・高祖本紀』と『資治通鑑』からです。 夏四月、沛公・劉邦が南の潁川(潁川郡。陽翟が治所。『秦楚之際月表』では「潁川」ではなく「潁陽」)を攻めて屠しました(皆殺しにしました)。 張良(韓国の相の家系…
中国地図出版社『中国歴史地図集(第一冊)』を元に春秋戦国時代の地図を作りました。 青字は現在の地名です。 春秋時代 戦国時代 戦国時代割拠図(紀元前350年頃) *全て拡大できます。
今回も秦二世皇帝三年の続きです。 [七] 『史記・高祖本紀』と『資治通鑑』からです。 春二月、沛公・劉邦が北(『資治通鑑』では「北」。『漢書・高帝紀』では「碭から北に向かって」。『史記・高祖本紀』では「西」)の昌邑を攻撃しました。そこで彭越に遇…
夏・商(殷)・西周三代の地図を作りました。 中国地図出版社の『中国歴史地図集(第一冊)』を参考にしています。 青字は現在の地名です。 夏王朝 商王朝 西周 西周詳細 *全て拡大できます。
今回は秦二世皇帝三年十二月の続きです。 [六] 『史記・項羽本紀』と『資治通鑑』からです。 秦将・章邯が甬道を築いて河(漳水)に繋げ、王離に食糧を送りました。 甬道というのは壁や屋根に守られた道です。『資治通鑑』胡三省注によると、輸送中の食糧を…
今回から秦二世皇帝三年です。六回に分けます。 秦二世皇帝三年 前207年 甲午 [一] 『資治通鑑』からです。 冬十月、斉将・田都が田栄の指示に背き、楚を助けて趙を救いに行きました。 『史記・秦楚之際月表』によると、秦二世皇帝二年(前年)九月、項羽が…
今回で秦二世皇帝二年が終わります。 [十九] 『史記・項羽本紀』『高祖本紀』と『資治通鑑』からです。 楚の項羽と沛公・劉邦は定陶を攻めていましたが、攻略できなかったため西の地を攻略しながら進み、雍丘に至りました。そこで秦軍と戦って大勝し、三川守…
秦二世皇帝二年の続きです。 [十八(続き)] この頃、盗賊がますます増えていたため、東方の群盗を討伐するために関中で絶えず士卒が徴集されていました。 右丞相・馮去疾、左丞相・李斯、将軍・馮劫が諫言して言いました「関東で群盗が並起してから、秦は兵…
今回も秦二世皇帝二年の続きです。 [十五] 『資治通鑑』からです。 秋七月、大雨が三日以上続きました(大霖雨。霖雨は三日以上の雨の意味)。 『史記・秦楚之際月表』では「天が大雨を降らせ、三カ月にわたって星が見えなかった」としています。 『漢書・高…
今回も秦二世皇帝二年三月の続きからです。 [十三] 『史記・項羽本紀』『高祖本紀』と『資治通鑑』からです。 広陵の人・召平が陳王・陳勝のために広陵を攻めていましたが攻略できませんでした。 『資治通鑑』胡三省注によると、召氏は西周文王の子にあたる…
張良が劉邦と合流しました。 秦楚時代16 秦二世皇帝(七) 陳勝の死 前208年(2) 張良は始皇帝二十九年(前218年)に始皇帝暗殺を謀って失敗した人物です。 暗殺未遂事件から劉邦に出会うまでの張良について『史記・留侯(張良)世家(巻五十五)』から紹介します…
秦二世皇帝二年の続きです。 [七] 『資治通鑑』と『史記・陳渉世家』からです。 秦二世皇帝が長史・司馬欣と都尉・董翳を増派して章邯を援けさせました。 章邯は秦の上将として東討中です。 『資治通鑑』胡三省注によると飂叔安の裔子・董父がうまく龍を操っ…
今回から秦二世皇帝二年です。六回に分けます。 秦二世皇帝二年 前208年 癸巳 『史記・高祖本紀』が当時の状況を簡単に書いています。 「秦二世皇帝二年(実際は元年)、陳渉の将・周章が軍を西に進めて戲に至ったが、引き返した。燕(韓広)、趙(武臣)、…
秦二世皇帝元年九月の続きです。 [十五] 『史記・項羽本紀』と『資治通鑑』からです。一部、『漢書・陳勝項籍伝』も参考にします。 下相の人・項梁も呉で挙兵しました。 項氏は代々楚将となり、項(地名)に封じられたため、項を氏にしました。 楚が滅亡した時…
劉邦が挙兵するまでの事を『史記・高祖本紀』を元に紹介しています。 秦楚時代 挙兵前の劉邦(1) 高祖が亭長だった頃、竹皮の冠を被りました。求盗を薛(地名)に派遣して作った物です。高祖はしばしばこの冠を被っており、高貴になってからもよく被ったため…
秦二世皇帝元年(前209年)、劉邦(西漢高祖)が挙兵しました。 秦楚時代13 秦二世皇帝(四) 劉邦登場 前209年(4) 『史記・高祖本紀』から挙兵前の劉邦について書きます。二回に分けます。 高祖は沛県豊邑中陽里の人で、姓は劉氏、字は季といいます。 『史記…