2017-02-01から1ヶ月間の記事一覧
今回は西漢文帝前三年の続きです。 [八] 『資治通鑑』からです。 以前、南陽の張釋之が騎郎になりました。 『資治通鑑』胡三省注によると、郎は郎中令に属して門戸を管理し、皇帝が外出する時は車騎を担当しました。郎には車・騎・戸の三将がおり、車を主管…
今回は西漢文帝前三年です。二回に分けます。 西漢文帝前三年 甲子 前177年 [一] 『漢書・文帝紀』と『資治通鑑』からです。 冬十月丁酉晦、日食がありました。 十一月丁卯晦にも日食がありました。 中華書局『白話資治通鑑』は「十月丁酉晦」と「十一月丁卯…
今回は西漢文帝前二年の続きです。
今回は西漢文帝前二年の続きです。 [五] 『資治通鑑』から袁盎に関する故事です。 文帝が霸陵(文帝陵)から西に駆けて急な坂を下りようとしました。 すると中郎将・袁盎が馬を走らせて文帝の車に並び、轡(手綱)を挽きました。 文帝が問いました「将軍は怯え…
今回は西漢文帝前二年です。二回に分けます。 西漢文帝前二年 癸亥 前178年 [一] 『史記・孝文本紀』『資治通鑑』からです。 冬十月、曲逆侯・丞相・陳平(献侯)が死にました。 [二] 『史記・孝文本紀』『漢書・文帝紀』『資治通鑑』からです。 文帝が詔を…
今回で西漢文帝前元年が終わります。 [十五] 『資治通鑑』からです。 斉王・劉襄(哀王)が死にました。 『史記・斉悼恵王世家(巻五十二)』によると、劉襄の太子・劉則が継ぎました。文王といいます。 [十六] 『資治通鑑』からです。 文帝が河南守(郡守)…
今回も西漢文帝前元年の続きです。 [十四] 『史記・南越尉佗列伝(巻百十三)』『漢書・西南夷両粤朝鮮伝(巻九十五)』『資治通鑑』からです。 以前、隆慮侯・周竈が南越を討伐しましたが(西漢少帝七年・前181年)、暑濕(熱暑と湿潤)に遭って士卒が大疫…
今回も西漢文帝前元年の続きです。 [八] 『漢書・文帝紀』と『資治通鑑』からです。 文帝が詔を発しました「ちょうど春和の時(春の温和、温暖の時)になり、草木群生の物は皆楽しんでいるが、我が百姓の鰥・寡・孤・独・窮困の人は、あるいは死亡の縁にいる…
今回は西漢文帝前元年の続きです。 [三] 『漢書・文帝紀』からです。 十二月、趙幽王の子・劉遂を趙王に立て、琅邪王・劉澤を燕王に遷し、呂氏が奪った斉・楚の地を全て元に戻しました(既述)。 琅邪王・劉澤は高帝の従祖兄弟(共通の曾祖父をもつ親族)で…
今回は西漢文帝前元年です。五回に分けます。 西漢文帝前元年 壬戌 前179年 文帝は在位中に一回改元しました。改元前は前元年(前179年)から前十六年(前164年)、改元後は後元年(前163年)から後七年(前157年)です。前・後を前元・後元として「前元元年、…
今回から西漢文帝の時代です。 太宗孝文皇帝 高祖高皇帝(劉邦)の中子(長子と末子以外の子)で、劉恒といいます。 礼によると、功がある先祖を「祖」、徳がある先祖を「宗」と称しました。漢皇室の子孫は、高帝よりも功が盛んな帝はいないとして、高帝のた…
今回で西漢少帝時代が終わります。 [十(続き)] 後九月(閏九月)己酉晦(二十九日)、代王・劉恒が長安に入って代邸に住みました。群臣も従って代邸に集まります。 丞相・陳平等が再拝して言いました「丞相臣・平(陳平)、太尉臣・勃(周勃)、大将軍臣・武…
今回も西漢少帝八年の続きです。 [九] 『史記・呂太后本紀』『孝文本紀』『漢書・高后紀』『文帝紀』『資治通鑑』からです。 諸大臣が秘かに相談して言いました「少帝と梁王、淮陽王、恒山王(常山王)はどれも孝恵の本当の子ではない。呂后が計を用いて他人…
今回も西漢少帝八年の続きです。 [八] 『史記・呂太后本紀』『漢書・高后紀』『資治通鑑』からです。 趙王・呂禄と梁王(呂王。以下同じ)・呂産は関中で兵乱を起こそうとしていましたが、朝廷内には周勃や劉章等がおり、外には斉や楚等の宗族諸王が重兵を擁…
今回は西漢少帝八年の続きです。 [七] 『史記・呂太后本紀』『漢書・高后紀』『資治通鑑』からです。 上将軍・呂禄と相国・呂産は軍権と政権を掌握しており、高皇帝との約束を裏切っていることを自覚していたため、大臣や諸侯王に誅殺されるのではないかと恐…
今回は西漢少帝八年です。五回に分けます。 西漢少帝八年(後少帝四年・高皇后八年) 辛酉 前180年 [一] 『史記・呂太后本紀』『資治通鑑』からです。 冬十月辛丑(中華書局の『白話資治通鑑』は「辛丑」を恐らく誤りとしています)、東平侯・呂通(呂粛王・…
今回で西漢少帝七年が終わります。 [九] 『史記・呂太后本紀』『漢書・高后紀』『資治通鑑』からです。 趙王・劉恢(共王。高帝の子)は梁から趙に遷されたことが不満で、心中楽しめませんでした。 呂太后は呂産の娘を趙王の后にしていました。王后の従官は…
今回は西漢少帝七年の続きです。 [八] 『史記・呂太后本紀』と『資治通鑑』からです。 呂𡡓(呂太后の妹。樊噲の妻。林光侯)の娘は将軍(『資治通鑑』は「将軍」。『呂太后本紀』は「大将軍」)・営陵侯・劉澤の妻でした。 劉澤は高祖の従祖兄弟(共通の曾…
今回は西漢少帝七年です。三回に分けます。 西漢少帝七年(後少帝三年・高皇后七年) 庚申 前181年 [一] 『漢書・高后紀』と『資治通鑑』からです。 冬十二月、匈奴が狄道を侵して二千余人を奪いました。 [二] 『史記・呂太后本紀』『漢書・高后紀』『資治通…
今回から西漢後少帝の時代です。 西漢後少帝 西漢恵帝の子とされており、名は劉弘といいます。 元の名は劉山で、西漢少帝元年(前187年)に襄城侯に封じられました。少帝二年(前186年)、恒山王に立てられて劉義に改名し、前年、皇帝に擁立されて劉弘に改名…
今回は西漢少帝四年です。 西漢少帝四年(前少帝四年・高皇后四年) 丁巳 前184年 [一] 『資治通鑑』からです。 春二月癸未(初七日)、孝恵皇帝の子と称す劉太を昌平侯に封じました。 [二] 『史記・呂太后本紀』と『資治通鑑』からです。 夏四月丙申(二十…
今回は西漢少帝二年と三年です。 西漢少帝二年(前少帝二年・高皇后二年) 乙卯 前186年 [一] 『史記・呂太后本紀』『資治通鑑』からです。 冬十一月、呂王・呂台が死にました。諡号は粛王です。 呂台の太子・呂嘉が跡を継いで王になりました。 [二] 『漢書…
今回は西漢少帝元年の続きです。 [二] 『漢書・高后紀』と『資治通鑑』からです。 春正月、詔を発しました「前日、孝恵皇帝が三族罪と妖言令を除きたいと語ったが、議が決する前に崩じてしまった。今、これらを除くことにする。」 こうして「三族罪」と「妖…
今回から西漢少帝の時代です。 少帝は前後二帝(前少帝・後少帝)に分けられます。諡号がないため便宜上、少帝とよばれています。 西漢前少帝 恵帝の子です。張皇后に子ができなかったため、後宮の美人が産んだ子を養って太子に立てました。美人は殺されまし…
今回で西漢恵帝の時代が終わります。 西漢恵帝五年 辛亥 前190年 [一] 『漢書・恵帝紀』と『資治通鑑』からです。 冬、雷が落ちました。 『資治通鑑』胡三省注によると、冬雷(冬の雷)は異常な事とされていました。 また、冬なのに桃李の花が開き、棗の実が…
今回は西漢恵帝三年と四年です。 西漢恵帝三年 己酉 前192年 [一] 『漢書・恵帝紀』『資治通鑑』からです。 春、長安周辺六百里内で男女十四万六千人を招集して長安城壁の建築に従事させました。三十日後に終了します。 『漢書』の注釈は「城壁の一面だけを…
今回は西漢恵帝二年です。 西漢恵帝二年 戊申 前193年 [一] 『史記・呂太后本紀』『漢書・恵帝紀』と『資治通鑑』からです。 冬十月、楚王・劉交(元王)、斉王・劉肥(悼恵王)が来朝しました。 恵帝と斉王・劉肥が呂太后の前で酒宴を開きました。 劉肥は高…
今回から西漢恵帝の時代です。 孝恵皇帝 高帝・劉邦の嫡長子で劉盈といいます。母は呂皇后です。 漢代の皇帝は諡号に「孝」をつけました。「孝恵皇帝」「孝文皇帝」「孝景皇帝」「孝武皇帝」等です。但し通常は「孝」を省いて「恵帝」「文帝」「景帝」「武帝…
今回で西漢高帝の時代が終わります(高帝は既に死んでいますが、翌年に改元されて恵帝元年になるので、本年はまだ高帝十二年です)。 [十七] 『漢書・恵帝紀』からです。 恵帝が民に爵一級を下賜しました。恵帝即位による恩恵です。 中郎(省中郎)と郎中で…
今回も西漢高帝十二年の続きです。 [十三] 『漢書・高帝紀』からです。 三月、高帝が詔を発しました「わしは立って天子となり、帝を称して天下を有してから、今で十二年になる。天下の豪士賢大夫と共に天下を平定し、共に安輯(安定)させた。功がある者は、…