2016-05-01から1ヶ月間の記事一覧

第五十回 東門遂が子倭を立て、趙宣子が強諫する(四)

*今回は『東周列国志』第五十回その四です。 桃園に入った晋霊公は遊びに夢中になって歓笑し始めました。すると突然、屠岸賈が嘆息して言いました「この楽しみは二度とありません。」 霊公が「大夫は何を嘆いているのだ?」と問うと、屠岸賈が言いました「…

第五十回 東門遂が子倭を立て、趙宣子が強諫する(三)

*今回は『東周列国志』第五十回その三です。 当時、晋霊公は既に成長していましたが、荒淫暴虐で、民に重税を課し、広く土木を興し(宮殿等の建築を行い)、遊戯を好んで政治を疎かにしました。 霊公には寵任する大夫がいました。名を屠岸賈といい、屠撃の…

第五十回 東門遂が子倭を立て、趙宣子が強諫する(二)

*今回は『東周列国志』第五十回その二です。 周匡王五年は魯宣公元年にあたります。 正旦(元旦)、朝賀が終わると仲遂が上奏しました「主公には内主(正妻)がいないので、臣がかつて斉侯と婚媾(結婚)の約束をしました。事を滞らせてはなりません。」 宣…

第五十回 東門遂が子倭を立て、趙宣子が強諫する(一)

第五十回 東門遂が子倭を援けて立て、趙宣子が桃園で強諫する (東門遂援立子倭 趙宣子桃園強諫) *今回は『東周列国志』第五十回その一です。 魯の仲孫遂と叔孫得臣の二人が斉に入って新君を拝賀し、葬礼に参加したことを謝しました。 礼が終わってから斉…

戦国時代65 東周赧王(三) 張儀の詐術 前313年

今回は東周赧王二年です。 赧王二年 前313年 戊申 [一] 秦の右更・疾(樗里疾。秦恵王の弟)が趙を攻めて藺(または「藺陽」)を占領し、趙将・荘豹を捕えました。 『資治通鑑』胡三省注によると、荘姓には宋の荘公の子孫と、楚の荘王の子孫がいるようです。…

戦国時代64 東周赧王(二) 燕の内乱 前314年

今回は東周赧王元年です。 赧王元年 前314年 丁未 [一] 秦が義渠を侵して二十五城を取りました。 [二] 魏が秦に背きました。 秦は魏を攻めて曲沃を奪い、そこに住む魏人を国に帰らせました。 また、秦が韓を岸門で破りました。 韓は太子・倉を質(人質)とし…

戦国時代63 東周赧王(一) 西周の出来事

今回から東周赧王の時代です。 赧王 東周慎靚王が死んで子の延が立ちました。これを赧王といいます。 前回も書きましたが、『史記・索隠』によると、「赧」は「謚法」に記載されておらず、諡号ではないようです。周が衰弱して権力を失ったため、「赧然慙愧(…

戦国時代年表 東周考王

東周考王の年表です。 『史記・六国年表』『資治通鑑外紀目録』『戦国史』『資治通鑑前編綱要』『古本竹書紀年輯校訂補』『今本竹書紀年』を元にしています。 *全て拡大できます。 次回は東周威烈王の年表です。 戦国時代年表 東周威烈王

第四十九回 公子鮑が国を買い、斉懿公が変に遭う(四)

*今回は『東周列国志』第四十九回その四です。 話は魯に移ります。 魯文公の名は興といい、僖公の嫡夫人・声姜の子です。周襄王二十六年に即位しました。 文公は斉昭公の娘・姜氏を夫人とし、二子が産まれました。一人を悪、一人を視といいます。また、秦女…

第四十九回 公子鮑が国を買い、斉懿公が変に遭う(三)

*今回は『東周列国志』第四十九回その三です。 斉懿公・商人は貪婪横暴な性格でした。 父・桓公が生きていた頃、商人が大夫・邴原と田邑の境界を争ったため、桓公は管仲に曲直を裁かせました。管仲は商人を理曲(道理がないこと)とし、田地を邴氏に返還さ…

第四十九回 公子鮑が国を買い、斉懿公が変に遭う(二)

*今回は『東周列国志』第四十九回その二です。 話は宋に移ります。 宋襄公夫人・王姫は周襄王の姉で、宋成公・王臣の母、昭公・杵臼の祖母にあたります。 昭公は世子(太子)だった頃から公子・卬、公孫・孔叔、公孫・鐘離の三人と田猟(狩猟)や遊戯で親し…

第四十九回 公子鮑が国を買い、斉懿公が変に遭う(一)

第四十九回 公子鮑が施しを厚くして国を買い、斉懿公が竹池で変に遭う (公子鮑厚施買国 斉懿公竹池遇変) *今回は『東周列国志』第四十九回その一です。 士会は魏寿餘と一緒に黄河を渡り、東に向かって進みました。一里も進まない所で一人の若い将軍に会い…

戦国時代62 東周慎靚王(五) 前315年

今回で東周慎靚王の時代が終わります。 慎靚王六年 前315年 丙午 [一] 東周慎靚王が死に、子の赧王・延(または「誕」)が立ちました。 『史記・索隠』によると、「赧」は「謚法」に記載されていないので諡号ではないようです。周が衰弱して権力を失ったため…

戦国時代61 東周慎靚王(四) 秦の巴蜀遠征 前316年(2)

今回は東周慎靚王五年の続きです。 前回は『華陽国志』を中心に蜀国について紹介しました。今回は秦が巴蜀を遠征します。 [一(続き)] 以下、『資治通鑑』からです。 巴と蜀が互いに攻撃しあい、それぞれが秦に訴えました。 秦恵王は蜀を討伐しようとしまし…

戦国時代60 東周慎靚王(三) 蜀国 前316年(1)

今回は東周慎靚王五年です。二回に分けます。 慎靚王五年 前316年 乙巳 [一] この頃、巴国と蜀国が争っていました。 巴と蜀に関しては『華陽国志・蜀志(巻三)』に記述があるので、以下、一部抜粋し、注釈を加えて簡単に紹介します。 蜀に国ができたのは人…

戦国時代59 東周慎靚王(二) 蘇秦の死 前317年

今回は東周慎靚王四年です。 慎靚王四年 前317年 甲辰 [一] 秦が韓を脩魚で破り、八万級を斬首しました。濁沢で韓将・䱸(または「鯁」)と申差が捕えられました。 諸侯は八万人もが犠牲になった敗報を聞いて震撼しました。 以上は『資治通鑑』と『史記・韓…

戦国時代58 東周慎靚王(一) 五国伐秦 前320~318年

今回から東周慎靚王の時代です。 慎靚王 顕王が死んで子の定が立ちました。慎靚王といいます。 慎靚王のように複数の文字による諡号を複諡といいます。 慎靚王元年 辛丑 前320年 [一] 衛は「侯」を称していましたが、更に号を落として「君」と称すことにしま…

第四十八回 五将が晋を乱し、寿餘が秦を欺く(四)

*今回は『東周列国志』第四十八回その四です。 周頃王五年、趙盾は秦軍が再び攻めて来るのを恐れて、大夫・詹嘉を瑕邑に住ませ、桃林塞の守りとしました。 臾駢が言いました「河曲の戦いで秦のために画策したのは土会です。彼が秦にいたら、我々は枕を高く…

第四十八回 五将が晋を乱し、寿餘が秦を欺く(三)

*今回は『東周列国志』第四十八回その三です。 周頃王四年、秦康公が群臣を集めて言いました「寡人が令狐で恨みを呑んでから五年が経つ。今、趙盾は大臣を誅戮して辺政(国境の政治)を修めず、陳、蔡、鄭、宋が交臂(手を組むこと。拱手)して楚に仕えるこ…

第四十八回 五将が晋を乱し、寿餘が秦を欺く(二)

*今回は『東周列国志』第四十八回その二です。 鄭の公子・堅等は楚兵が戦いを挑みに来なくなったため、不思議に思って間諜を送りました。 間諜が帰って言いました「楚兵は四方に出て食糧を略奪しています。鬥元帥は中軍におり、毎日、鼓楽と飲酒に耽ってい…

第四十八回 五将が晋を乱し、寿餘が秦を欺く(一)

第四十八回 先克を刺して五将が晋を乱し、士会を召して寿餘が秦を欺く (刺先克五将乱晋 召士会寿餘紿秦) *今回は『東周列国志』第四十八回その一です。 晋の箕鄭父、士穀、梁益耳は秦軍が迫ったら乱を起こし、趙盾の位を奪う計画を立てました。ところが趙…

戦国時代57 東周顕王(二十五) 孟嘗君 前322~321年

今回で東周顕王の時代が終わります。 顕王四十七年 前322年 己亥 [一] 『史記・秦本紀』によると、韓と魏の太子が秦に来朝しました。 [二] 秦の張儀が齧桑から帰国し、秦の相を免じられました。 張儀は魏の相になります。 張儀は魏が率先して秦に仕えるよう…

戦国時代56 東周顕王(二十四) 五国相王 前323年(2)

今回は東周顕王四十六年の続きです。 [六] この年、韓と燕も王を称しました。 これは『資治通鑑』『史記・六国年表』の記述です。 『資治通鑑』によると、趙武霊王だけは王を称すことなく、「実がないのに虚名を名乗ることはできない」と言って、国人に自分…

戦国時代55 東周顕王(二十三) 蛇足 前323年(1)

今回は東周顕王四十六年です。二回に分けます。 顕王四十六年 前323年 戊戌 [一] 『史記・楚世家』によると、楚が柱国・昭陽に魏を攻撃させました。楚軍は襄陵で魏軍を破って八邑(または「八城」)を奪います(『今本竹書紀年』は前年に書いています)。 襄…

戦国時代54 東周顕王(二十二) 稷下の学士 前324年

今回は東周顕王四十五年です。 顕王四十五年 前324年 丁酉 [一] 『史記』は本年を秦恵王(恵文王)元年としています。恵王は前年に王を称し、本年正月に改元したようです。 [二] 秦の張儀が兵を率いて魏を攻撃し、陜を取りました(前年参照)。 『史記・張儀…

戦国時代53 東周顕王(二十一) 秦の称王 前327~325年

今回は東周顕王四十二年から四十四年までです。 顕王四十二年 前327年 甲午 [一] 秦が義渠(西戎)に県を置き、その君を臣にしました。 これは『史記・秦本紀』『六国年表』および『資治通鑑』に書かれています。 西戎の国・義渠が秦に臣従したため、秦はそ…

第四十七回 弄玉が二人で鳳に跨り、趙盾が霊公を立てる(四)

*今回は『東周列国志』第四十七回その四です。 秦に入った先蔑と士会は公子・雍を迎え入れることを秦康公に伝えました。康公は喜んで「我が先君は晋君を二回定めた。寡人の代になっても、また公子・雍を立てることになった。晋君は代々秦から生まれている」…

第四十七回 弄玉が二人で鳳に跨り、趙盾が霊公を立てる(三)

*今回は『東周列国志』第四十七回その三です。 この年の秋八月、晋襄公が病に倒れました。死に臨んで太傅・陽処父、上卿・趙盾および諸臣を招き、榻の前で言いました「寡人は父業を継ぎ、狄を破って秦を討った。外国によって鋭気を挫かれたことはない。しか…

第四十七回 弄玉が二人で鳳に跨り、趙盾が霊公を立てる(二)

*今回は『東周列国志』第四十七回その二です。 翌朝、穆公が蕭史を中大夫に任命しました。 蕭史は朝班(群臣)に列しましたが、国政には関与せず、日々鳳楼にいました。火食(火を通した物)を食べることなく、時々数杯の酒を飲むだけです。弄玉も簫史から…

第四十七回 弄玉が二人で鳳に跨り、趙盾が霊公を立てる(一)

第四十七回 弄玉が簫を吹いて二人で鳳に跨り、趙盾が秦に背いて霊公を立てる (弄玉吹簫双跨鳳 趙盾背秦立霊公) *今回は『東周列国志』第四十七回その一です。 秦穆公は二十の国を併合して西戎の伯(覇者)となりました。周襄王が尹武公を派遣し、金鼓を秦…