2015-01-01から1ヶ月間の記事一覧
今回も東周恵王の時代です。 恵王六年 庚戍 前671年 [一] 春、魯荘公が斉から帰国しました。 [二] 周恵王の臣・祭叔が魯に来聘しました。 [三] 夏、魯荘公が斉に入って社を観ました。社というのは社神の祭祀のことです。民衆は祭祀を利用して男女が出会い、…
今回は東周恵王五年後篇です。 [八] 晋献公が驪戎(驪山に住む西戎の別種。国君は姫姓の男爵)討伐を占わせると、大夫・史蘇がこう言いました「勝ちますが不吉です(勝而不吉)。」 献公がその理由を聞くと、史蘇はこう言いました「兆(予兆。兆象)は『交わ…
今回は東周恵王五年前篇です。 恵王五年 己酉 前672年 [一] 春正月、魯が大赦を行いました。前年、文姜(桓公夫人)が死んだことが大赦の原因かもしれません。 癸丑(二十三日)、文姜を埋葬しました。 [二] 陳宣公には御寇(または「禦寇」)という太子がい…
今回も東周恵王の時代です。 恵王三年 王頽元年 丁未 前674年 [一] 春二月、魯の桓公夫人・姜氏(文姜)が莒国に入りました。 [二] 鄭厲公が王室の内乱を仲裁しようとしましたが失敗しました。恵王は京師を逐われて出奔中です。 厲公は燕仲父(南燕の国君)…
今回から東周恵王の時代です。 恵王 釐王が死に、子の閬(または「毋涼」。『帝王世家』では「涼洪」)が立ちました。これを恵王といいます。 恵王元年 乙巳 前676年 [一] 春、虢公と晋侯(献公)が恵王を朝見し、恵王は醴(麦芽で造った甜い酒)でもてなし…
今回で東周釐王の時代が終わります。 釐王三年 壬寅 前679年 [一] 春、斉桓公、宋桓公、陳宣侯、衛恵公、鄭厲公が前年に続いて再び鄄で会見しました。 斉桓公が諸侯に認められて伯(諸侯の長)となり、始めて天下に霸を称えます。 「春秋五覇」とよばれる覇…
東周釐王元年(前681年)、柯という場所で斉と魯が会盟しました。『史記』や『管子』はこの会盟における魯の曹劌(曹沫)の活躍を描いています。 春秋時代20 東周釐王(一) 柯の会盟 鄭厲公復位 前681~680年 しかし魯国の史書である『春秋』も、その注釈書であ…
今回から東周釐王の時代です。 釐王 荘王が死んで子の釐王・胡斉が立ちました。 諡号における「釐」は「僖」と同字とされるので、書籍によっては「僖王」と書かれます。例えば『史記』は「釐王」ですが、『春秋左氏伝』は「僖王」です。 また、魯の釐公、斉…
春秋五覇の筆頭・斉桓公が即位しました。 春秋時代18 東周荘王(三) 斉桓公と管仲 前686~685年 桓公の治世は管仲の治世ともいえます。 管仲は春秋時代初期において非常に重要な人物なので、今回は『史記・管晏列伝(巻六十二)』から管仲の部分を紹介します…
今回も管仲の政治に関する記述です。 『国語・斉語』から。 国内の政治が正され、軍も強化されました。 桓公が管仲に言いました「諸侯の中で覇業を立てたいがどうだ?」 管仲が答えました「まだいけません。隣国が我が国と親しくなっていません。天下の諸侯…
今回も管仲の政治に関する記述を紹介します。 『管子・大匡』から。 桓公が管仲に言いました「軍備を強化してくれ。我が兵は訓練が足らず、充実していない。だから诸侯は我が国の敵を援けようとする。国内の軍備を整える必要がある。」 管仲が言いました「そ…
管仲の政治に関して、『資治通鑑外紀』は『管子』『国語・斉語』等に書かれている内容を抜粋しています。本編では書けなかったのでここで一部紹介します。 *『資治通鑑前編』も『国語』『管子』等から管仲の政治に関して多数の記述をしていますが、省略しま…
東周荘王十二年(前685年)、斉襄公を殺して即位した公孫・無知が殺されました。 莒に出奔していた公子・小白と、魯に出奔していた公子・糾が斉国新君の地位を争い、小白が先に帰国して即位します。これが春秋時代最初の覇者・桓公です。 春秋時代18 東周荘…
今回で東周荘王の時代が終わります。 荘王十三年 丁酉 前684年 [一] 斉では桓公が政治改革を進め、軍を強化しています。 春正月、桓公が魯を討伐しようとしました。しかし管仲が言いました「いけません。『領土を擁する国君は軍事に勤めず(不勤于兵)、辱め…
今回も東周荘王の時代です。 荘王十一年 乙未 前686年 [一] 春正月、魯師(軍)が郎に駐軍し、陳師と蔡師の到着を待ちました。郕国攻撃のためです。 甲午(十三日)、陳師と蔡師が来なかったため、兵を還して太廟で治兵(軍を整えて出征の準備をすること)し…
今回も東周荘王の時代です。 荘王四年 戊子 前693年 [一] 春正月、魯で荘公が即位しましたが、母・文姜(桓公の夫人)は斉にいました。しかし暫くして魯に一度帰りました。 三月、文姜が改めて魯から斉に奔りました。 [二] 周王室が斉と婚姻を結ぶことになり…
今回から東周荘王の時代です。 荘王 東周桓王が死んで子の佗が立ちました。これを荘王といいます。 荘王元年 乙酉 前696年 [一] 春正月、魯桓公が宋荘公、蔡桓公、衛恵公と曹で会見しました。鄭厲公の復位を相談する会議です。会見が行われた曹国の国君は参…
今回で東周桓王の時代が終わります。 桓王二十一年 壬午 前699年 [一] 前年、楚が絞を攻撃した時、楚師の一部は彭水を渡りました。熊姓の国・羅が楚軍を攻撃しようとし、大夫・伯嘉を送って様子を探らせました。伯嘉は三回、楚軍の兵を数えました。 春、楚の…
今回も東周桓王の時代です。 桓王十八年 己卯 前702年 [一] 春正月庚申(初六日)、曹桓公が在位五十五年で死にました。 太子・射姑(または「夕姑」)が即位します。これを荘公といいます。 夏五月、曹が桓公を埋葬しました。 [二] 周の卿士・虢仲(林父)…
今回も東周桓王の時代です。 桓王十五年 丙子 前705年 [一] 春二月己亥(二十八日)、魯が咸丘を焼きました「焚咸丘」。野に火を放って獣を追い出し、狩猟を行ったようです。 もしくはこの咸丘は邾の地で、魯が火攻めにしたという説もあります。 [二] 夏(ま…
今回も東周桓王の時代です。 桓王十四年 乙亥 前706年 [一] 春正月、州公(州国の淳于公)が曹から魯に来ました。 [二] 楚武王が隨国に兵を進めました。随は姫姓の国です。武王はまず薳章(または「蔿章」)を派遣して講和を求めました。武王は瑕に駐軍して…
今回も東周桓王の時代です。 桓王十三年 甲戍 前707年 [一] 春正月、陳桓公が在位三十八年で死にました。 陳で内乱が起き、文公の子・佗(または「他」。桓公の弟。大夫・五父)が桓公の太子・免を殺して即位しました。国内が混乱し、人々が分散していたため…
今回も東周桓王の時代です。 桓王九年 庚午 前711年 [一] 春正月、魯桓公が即位しました。 [二] 三月、魯桓公が鄭との関係強化を図りました。 魯桓公は鄭荘伯と垂で会見します。鄭荘公は周公の祭祀を行うことで祊田と許田を交換する話を再び持ち出しました(…
今回も東周桓王の時代です。 桓王八年 己巳 前712年 [一] 春、滕侯と薛侯が魯に来朝することになりました。「来朝」とは通常、周王朝を朝覲することですが、この時代は小国が大国の主に謁見する時にも「来朝」といいました。 滕侯と薛侯は魯で謁見する順序を…
今回も東周桓王の時代です。 桓王六年 丁卯 前714年 [一] 春、桓王が大夫・南季を魯に送って聘問しました。 [二] 三月癸酉(初十日)、大雨が降り、雷が落ちました。雨は三日以上続きました。三日以上続く雨を「霖」といいます。 庚辰(十七日)、大雪が降り…
今回は桓王時代の続きです。 桓王三年 甲子 前717年 [一] 春、鄭人が関係修復のために魯に来ました。 [二] 晋都・翼の九宗五正(官名)・頃父の子・嘉父が隨に行って前年逃走した鄂侯と会いました。晋国内では哀侯が既に即位しており、国都に帰ることができ…
今回から東周桓王の時代です。 桓王 平王の太子・洩父は早世したため、平王の死後、洩父の子・林が即位しました。これを桓王といいます。 桓王元年 壬戌 前719年 [一] 春二月、莒が杞を攻撃し、牟婁を取りました。牟婁は「牟」と「婁」という二つの邑とする…
春秋時代第一期の目録です。 本編 春秋時代 春秋時代第一期に入る前に 春秋時代1 東周平王(一) 東遷 秦封侯 紀元前770年 春秋時代2 東周平王(二) 衛武公 攜王滅亡 前769~750年 春秋時代3 東周平王(三) 曲沃の桓叔 京城の太叔 前749~730年 春秋時代4 東周平…
今回で平王の時代が終わります。 平王五十年 庚申 前721年 [一] 鄭荘公は母・姜氏と会わないと誓ったことを後悔していました。 潁谷の封人(国の境界を守ったり城壁を修築する官)・潁考叔がこれを聞き、貢物を持って荘公に謁見しました。荘公は潁考叔に食事…
今回も平王の時代です。 平王四十二年 壬子 前729年 [一] 燕の鄭侯が在位三十六年で死に、子の繆侯(穆侯)が立ちました。 [二] 宋宣公には与夷という太子がいました。宣公が病になると、弟・和に言いました「父が死んだら子が継ぎ、兄が死んだら弟が継ぐと…