2016-01-01から1ヶ月間の記事一覧

春秋時代253 東周敬王(二十二) 楚昭王の逃走 前506年(3)

今回で東周敬王十四年が終わります。十一月の続きからです。 [十六(続き)] 楚の左司馬・戌が息から戻って雍澨で呉軍を破りましたが、負傷しました。 以前、左司馬・戌は呉に居り、闔廬に仕えていましたが、後に闔廬から離れて楚に仕えたため、捕虜になるこ…

春秋時代252 東周敬王(二十一) 楚都陥落 前506年(2)

今回は東周敬王十四年の続きです。 [五] 五月、諸侯が皋鼬で盟を結びました。 [六] 会に参加していた杞悼公が在位十二年で死にました。子の隠公・乞が立ちました。 [七] 六月、陳が恵公を埋葬しました。 [八] 許国が容城に遷りました。 [九] 秋七月、魯定公…

春秋時代251 東周敬王(二十) 召陵の会 前506年(1)

今回は東周敬王十四年です。三回に分けます。 敬王十四年 前506年 乙未 [一] 春二月癸巳(『春秋』経文の記述です。恐らく「正月癸巳」の誤りです。初六日になります)、陳恵公が在位二十四年(『史記・陳杞世家』では恵公元年を陳が一度滅んだ年の翌年とし…

春秋時代250 東周敬王(十九) 邾荘公 前508~507年

今回は東周敬王十二年と十三年です。 敬王十二年 前508年 癸巳 [一] 周の卿士・鞏簡公は自分の子弟を信任せず、遠人(異族)を好んで用いました。 夏四月辛酉(二十四日)、鞏氏の子弟達が簡公を殺しました。 [二] 夏五月壬辰(二十五日)、魯の雉門(公宮南…

春秋時代249 東周敬王(十八) 魯定公即位 前509年

今回は東周敬王十一年です。 敬王十一年 前509年 壬申 [一] 春正月辛巳(初七日)、晋の魏舒が諸侯の大夫を狄泉に集めて成周城増築を始めました。魏舒が指揮をとります。 衛の彪傒が言いました「天子の居城を建てるというのに、位を変えて令を出した(前年、…

春秋時代 周の萇弘と成周増築

東周敬王十年(前510年)、周敬王の指示で諸侯が成周の城を修築することになりました。 春秋時代248 東周敬王(十七) 魯昭公の死 前510年 本編は『春秋左氏伝(昭公三十二年)』を元にしましたが、ここでは『国語・周語下』の内容を紹介します。 周の卿士・劉…

春秋時代248 東周敬王(十七) 魯昭公の死 前510年

今回は東周敬王十年です。 敬王十年 前510年 辛卯 [一] 春正月、魯昭公は晋の乾侯にいます。 昭公が闞(魯の邑。一説では邾の邑)を取りました。この出来事は、『春秋』経文に「取闞」とだけ書かれており、『春秋左氏伝(昭公三十二年)』には記述がないため…

春秋時代247 東周敬王(十六) 魯昭公と季孫氏 前511年

今回は東周敬王九年です。 敬王九年 前511年 庚寅 [一] 春正月、魯昭公は晋の乾侯にいます。 晋定公が兵を使って魯昭公を国に入れようとしました。しかし士鞅(范献子)がこう言いました「もし季孫を晋に招いても来なかったら、彼は確かに臣としての道をはず…

春秋時代 孫武

本編で兵法家・孫武が登場しました。 春秋時代246 東周敬王(十五) 晋頃公の死 前512年 孫武の仕官に関して『呉越春秋』と『史記』に記述がありますが、内容が異なります。 まずは『呉越春秋・闔閭内伝(第四)』から要訳します。 孫子は呉人で、名を武といい…

春秋時代246 東周敬王(十五) 晋頃公の死 前512年

今回は東周敬王八年です。 敬王八年 前512年 己丑 [一] 春正月、魯昭公は晋の乾侯にいます。 [二] 夏六月庚辰(二十二日)、晋頃公が在位十四年で死にました。子の午が継ぎます。これを定公といいます。 晋の公室はますます弱くなり、六卿(范氏、中行氏、智…

春秋時代245 東周敬王(十四) 晋の刑鼎 前513年(2)

今回は東周敬王七年の続きです。 [六] 冬十月、魯の昭公が住んでいた鄆から民が逃走し、鄆は壊滅しました。 昭公が晋の乾侯に行ってから、鄆の人々は昭公に帰還させないため、逃走して鄆を崩壊させたようです。季氏が動いたのかもしれません。 尚、『春秋公…

春秋時代244 東周敬王(十三) 晋の龍 前513年(1)

今回は東周敬王七年です。二回に分けます。 敬王七年 前513年 戊子 [一] 春、魯昭公が晋の乾侯から鄆に戻りました。晋頃公に会うことができなかったからです。 斉景公が高張を派遣して昭公を慰問しました。この時、斉は魯昭公を「主君」と称しました。楊伯峻…

春秋時代 刺客・要離

本編で呉の刺客・要離が登場しました。 春秋時代243 東周敬王(十二) 晋の魏舒 前514年(2) 『資治通鑑外記』が『呂氏春秋』『呉越春秋』を元に要離の故事を紹介していいます。 以下、『呂氏春秋・仲冬紀』と『呉越春秋・闔閭内伝(第四)』の内容です。 まず…

春秋時代243 東周敬王(十二) 晋の魏舒 前514年(2)

今回は東周敬王六年の続きです。 [五] 秋、晋の韓起(韓宣子)が死に、子の韓須(韓貞子、または「平子」)が継ぎました。『史記・韓世家』によると、韓貞子は拠点を平陽に移しました。 韓起が死んだので、晋の政治は魏舒(魏献子)が行うことになりました。…

春秋時代242 東周敬王(十一) 祁氏と羊舌氏の滅亡 前514年(1)

今回は東周敬王六年です。二回に分けます。 敬王六年 前514年 丁亥 [一] 春三月、曹が前年死んだ悼公を埋葬しました。 [二] 斉景公が魯昭公を軽視したため、昭公は晋に向かい、乾侯(斉と晋の国境。晋の邑)に入りました。 そこで昭公は晋に使者を送ることに…

春秋時代241 東周敬王(十) 費無極の死 前515年(2)

今回は東周敬王五年の続きです。 [四] 秋、晋の士鞅、宋の楽祁犂(子梁。宋の司城)、衛の北宮喜(貞子)および曹人、邾人、滕人が扈(鄭地)で会しました。 周の守備と魯昭和公の帰国について相談されます。 宋と衛は魯昭公が帰国した方が利益があると判断…

春秋時代240 東周敬王(九) 呉の政変 前515年(1)

今回は東周敬王五年です。 敬王五年 前515年 丙戊 [一] 春、魯昭公が鄆から斉に行き、再び斉から鄆に戻りました。 [二] 呉王・僚が楚の喪(前年、平王が死にました)に乗じて兵を動かしました。公子・掩餘(または「蓋餘」)と公子・燭庸(どちらも呉王・僚…

春秋時代 田穰苴

『資治通鑑外紀』は『史記』を元に田穰苴という斉の将を紹介しています。 春秋時代239 東周敬王(八) 王子朝の出奔 前516年(2) 以下、『司馬穰苴列伝(第六十四)』からです。 司馬穰苴(田穰苴)は田完の苗裔(子孫)です。穰苴は名で、司馬は兵を管理する官…

春秋時代 晏子(二)

今回も晏子に関する故事を紹介します。 『晏子春秋・内篇諫下(第二)』からです。 晏子が使者として魯に行った時、景公が国人に命じて大台を築かせました。しかし冬の寒い時だったため、多くの者が凍餒(凍えと飢え)に苦しみます。人々は斉に帰ってきた晏…

春秋時代 晏子(一)

本編で『春秋左氏伝(昭公二十六年)』の記述から斉景公と晏嬰の会話を紹介しました。 春秋時代239 東周敬王(八) 王子朝の出奔 前516年(2) 景公と晏嬰の会話は『韓非子』等にも書かれています。また、『資治通鑑外紀』は『晏子春秋』等から晏嬰に関するその…

春秋時代239 東周敬王(八) 王子朝の出奔 前516年(2)

今回は東周敬王四年の続きです。 [十] 冬十月丙申(十六日)、周敬王が滑で兵を起こしました。 辛丑(二十一日)、郊(王子朝の邑)に入り、尸(尸氏)に遷ります。 十一月辛酉(十一日)、晋軍が鞏を攻略しました。 王子朝の党に属していた召伯・盈(召簡公…

春秋時代238 東周敬王(七) 魯・斉の戦い 前516年(1)

今回は東周敬王四年です。二回に分けます。 敬王四年 前516年 乙酉 [一] 春正月庚申(初五日)、斉景公が魯の鄆を攻略しました。亡命した魯昭公を鄆に住ませるためです。 [二] 宋が元公を埋葬しました。前年、元公は質素な葬儀を行うように遺言しましたが、…

春秋時代237 東周敬王(六) 魯の臧氏 前517年(3)

今回で東周敬王三年が終わります。魯の内争の続きからです。 [四(続き)] 臧孫賜が昭公に従って来た者に盟を結ばせることにしました。載書(盟書)にはこう書かれています「力を尽くして心を一つにし、好悪を共にする。罪の有無を明確にし、公に従うことを…

春秋時代236 東周敬王(五) 魯の内争 前517年(2)

今回は東周敬王三年の続きです。 [四] 秋七月上辛(上旬の辛日。辛卯。初三日)、魯が大雩(雨乞いの儀式)を行い、季辛(下旬の辛日。辛亥。二十三日)に再び雩を行いました。 二回儀式が行われたのは、旱害がひどかったためです。 [五] 以前、魯の季公鳥(…

春秋時代235 東周敬王(四) 鄭の子太叔 前517年(1)

今回は東周敬王三年です。三回に分けます。 敬王三年 前517年 甲申 [一] 春、魯の叔孫婼(昭子)が宋に聘問に行きました。 叔孫婼が楽大心と会談しました。楽大心は右師の官に就き、桐門(宋城北門)に住んでいたため、桐門右師ともよばれています。 楽大心…