2018-05-01から1ヶ月間の記事一覧

東漢時代252 桓帝(三十) 寇栄 164年(2)

今回は東漢桓帝延熹七年の続きです。 [十三] 『資治通鑑』からです。 侍中・寇栄は寇恂(雲台二十八将の一人)の曾孫ですが、性格が矜潔(誇り高く廉潔なこと)で人との交流が少なかったため、権寵の者から嫌われていました。 寇栄の従兄の子は桓帝の妹・益…

東漢時代251 桓帝(二十九) 南巡 164年(1)

今回は東漢桓帝延熹七年です。二回に分けます。 東漢桓帝延熹七年 甲辰 164年 [一] 『後漢書・孝桓帝紀』からです。 春正月庚寅、沛王・劉榮が死にました。 劉榮の諡号は幽王です。父は孝王・劉広で、光武帝の子・献王・劉輔の家系です(順帝建康元年・144年…

東漢時代250 桓帝(二十八) 朱穆 163年

今回は東漢桓帝延熹六年です。 東漢桓帝延熹六年 癸卯 163年 [一] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。 春二月戊午(十一日)、司徒・种暠が死にました。 [二] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。 三月戊戌(二十二日)、天下に大赦し…

東漢時代249 桓帝(二十七) 皇甫規失脚 162年(2)

今回は東漢桓帝延熹五年の続きです。 [十七] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。 冬十月、武陵蛮も反して江陵を侵しました。 南郡太守・李粛が奔走(逃走)しようとしたため、主簿・胡爽が李粛の馬の首を牽いて諫めました「蛮夷は郡に儆備(警備…

東漢時代248 桓帝(二十六) 各地の蜂起 162年(1)

今回は東漢桓帝延熹五年です。二回に分けます。 東漢桓帝延熹五年 壬寅 162年 [一] 『後漢書・孝桓帝紀』からです。 春正月、太官右監丞(桓帝永寿二年・156年参照)を廃止しました。 [二] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。 壬午(二十九日)、…

東漢時代247 桓帝(二十五) 劉寵 皇甫規 161年(2)

今回は東漢桓帝延熹四年の続きです。 [十九] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。 九月、司空・黄瓊を罷免し、大鴻臚・東莱の人・劉寵を司空に任命しました。 劉寵はかつて会稽太守を勤め、煩多・苛酷な法令を減免・排除し(簡除煩苛)、法を守ら…

東漢時代246 桓帝(二十四) 161年(1)

今回は東漢桓帝延熹四年です。二回に分けます。 東漢桓帝延熹四年 辛丑 161年 [一] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月辛酉(初二日)、南宮嘉徳殿で火災がありました。 戊子(二十九日)、丙署で火災がありました。 丙署は官署名です。『資…

東漢時代245 桓帝(二十三) 四侯 160年

今回は東漢桓帝延熹三年です。 東漢桓帝延熹三年 庚子 160年 [一] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月丙申(初一日)、天下に大赦しました。 桓帝が詔を発して李固の後嗣を求めました。 以前、李固が策書によって罷免された時(質帝本初元…

東漢時代244 桓帝(二十二) 第五種 陳蕃 爰延 159年(6)

今回で東漢桓帝延熹二年が終わります。 [十九] 『資治通鑑』からです。 桓帝が詔を発し、再び陳蕃を光禄勳に、楊秉を河南尹に任命しました。 単超の兄の子・単匡は済陰太守になり、権勢をかりて貪婪放縦に振る舞いました。 単匡について、『後漢書・楊震列伝…

東漢時代243 桓帝(二十一) 李雲と杜衆 159年(5)

今回も東漢桓帝延熹二年の続きです。 [十三] 『資治通鑑』からです。 桓帝が梁冀を誅殺してから、故旧恩私(桓帝との間に旧交や私恩がある者)の多くが爵位を受けました。 桓帝は皇后の父・鄧香に車騎将軍を追贈して安陽侯に封じ、更に皇后の母・宣を昆陽君…

東漢時代242 桓帝(二十) 処士 159年(4)

今回も東漢桓帝延熹二年の続きです。 [十二] 『資治通鑑』からです。 尚書令・陳蕃が上書して五処士を推挙しました。豫章の人・徐穉、彭城の人・姜肱(『資治通鑑』胡三省注によると、姜氏は炎帝から出ましたが、姜水に住んだため姜を氏にしました)、汝南の…

東漢時代241 桓帝(十九) 五侯 159年(3)

今回も東漢桓帝延熹二年の続きです。 [十] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。 桓帝が詔を発して梁冀誅殺の功を賞しました「梁冀は姦暴で王室を濁乱させた。孝質皇帝は聡敏早茂(「早茂」は幼い頃から能力が突出していることです)だったが、梁冀…

東漢時代240 桓帝(十八) 梁氏誅滅 159年(2)

今回は東漢桓帝延熹二年の続きです。 [八(続き)] 梁冀が政権を握って二十年近く経ちました。 『資治通鑑』胡三省注は「順帝永和六年(141年)に梁冀が大将軍になってこの年で十九年(足掛け)」と解説しています。 梁冀の威権が内外に行われているため、天子…

東漢時代239 桓帝(十七) 梁皇后の死 159年(1)

今回は東漢桓帝延熹二年です。六回に分けます。 東漢桓帝延熹二年 己亥 159年 [一] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。 春二月、鮮卑が雁門を侵しました。 [二] 『後漢書・孝桓帝紀』からです。 己亥、阜陵王・劉便(または「劉便親」。桓帝建和…

東漢時代 陳亀の上書

桓帝延熹元年(158年)十二月、南匈奴の諸部がそろって叛し、烏桓、鮮卑と共に縁辺の九郡を侵したため、朝廷は京兆尹・陳亀を度遼将軍に任命しました。 東漢時代238 桓帝(十六) 南匈奴の乱 158年 陳亀は着任する前に上書しました。以下、『資治通鑑』から上…

東漢時代238 桓帝(十六) 南匈奴の乱 158年

今回は東漢桓帝延熹元年です。 東漢桓帝延熹元年 戊戌 158年 [一] 『後漢書・孝桓帝紀』からです。 春三月己酉、初めて鴻徳苑令を置きました。 『孝桓帝紀』によると、苑令は一人で秩六百石です。 [二] 『後漢書・孝桓帝紀』からです。 夏五月己酉(初四日)…

東漢時代237 桓帝(十五) 貨幣 157年

今回は東漢桓帝永寿三年です。 東漢桓帝永寿三年 丁酉 157年 [一] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月己未(中華書局『白話資治通鑑』は「己未」を恐らく誤りとしています)、天下に大赦しました。 [二] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑…

東漢時代236 桓帝(十四) 檀石槐 156年

今回は東漢桓帝永寿二年です。 東漢桓帝永寿二年 丙申 156年 [一] 『後漢書・孝桓帝紀』からです。 春正月、中官(『孝桓帝紀』の注によると、常侍以下の宦官を指します)が三年の喪に服すことを許可しました。 桓帝永興二年(154年)には刺史や二千石の官員…

東漢時代235 桓帝(十三) 張奐 155年

今回は東漢桓帝永寿元年です。 東漢桓帝永寿元年 乙未 155年 [一] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月戊申(十四日)、天下に大赦して永興三年から永寿元年に改元しました。 [二] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。 二月、司…

東漢時代234 桓帝(十二) 154年

今回は東漢桓帝永興二年です。 東漢桓帝永興二年 甲午 154年 [一] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月甲午(二十四日)、天下に大赦しました。 [二] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。 二月辛丑(初二日)、再び刺史と二千石…

東漢時代233 桓帝(十一) 朱穆失脚 153年

今回は東漢桓帝永興元年です。 東漢桓帝永興元年 癸巳 153年 [一] 『後漢書・孝桓帝紀』からです。 春二月、張掖が「白鹿が現れた」と報告しました。 [二] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。 三月丁亥(十二日)、桓帝が鴻池を行幸しました。 『…

東漢時代233 桓帝(十一) 朱穆失脚 153年

今回は東漢桓帝永興元年です。 東漢桓帝永興元年 癸巳 153年 [一] 『後漢書・孝桓帝紀』からです。 春二月、張掖が「白鹿が現れた」と報告しました。 [二] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。 三月丁亥(十二日)、桓帝が鴻池を行幸しました。 『…

東漢時代232 桓帝(十) 于窴の乱 152年

今回は東漢桓帝元嘉二年です。 東漢桓帝元嘉二年 壬辰 152年 [一] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月、西域長史・王敬が于窴に殺されました。 以前、西域長史・趙評が于窴におり、癰(腫物)ができて死にました。 『後漢書・西域伝(巻八…

東漢時代 『政論』

崔寔が『政論』を著しました(東漢桓帝元嘉元年・151年)。 東漢時代231 桓帝(九) 崔寔 151年(2) 崔寔は、儒者の古い考えに拘泥していては天下は治まらない、乱れた世には厳しい法も取り入れなければならないと説いています。 以下、『資治通鑑』から紹介し…

東漢時代231 桓帝(九) 崔寔 151年(2)

今回は東漢桓帝元嘉元年の続きです。 [九] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。からです。 京師を旱害が襲いました。 また、任城や梁国を飢饉が襲いました。 [十] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。 司徒・張歆を罷免して光禄勳・呉雄…

東漢時代231 桓帝(九) 崔寔 151年(2)

今回は東漢桓帝元嘉元年の続きです。 [九] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。からです。 京師を旱害が襲いました。 また、任城や梁国を飢饉が襲いました。 [十] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。 司徒・張歆を罷免して光禄勳・呉雄…

東漢時代230 桓帝(八) 梁冀と梁不疑 151年(1)

今回は東漢桓帝元嘉元年です。二回に分けます。 東漢桓帝元嘉元年 辛卯 151年 [一] 『資治通鑑』からです。 春正月朔、群臣が朝会に参加した際、大将軍・梁冀が剣を帯びて禁中に入りました。 すると、尚書・蜀郡の人・張陵が叱咤して退出させ(呵叱令出)、…

東漢時代229 桓帝(七) 朱穆の諫言 150年(2)

今回は東漢桓帝和平元年の続きです。 [六(続き)] 侍御史・朱穆は梁冀の故吏(かつての官吏。部下)だったので、梁冀に文書を送って諫めました「明将軍は地(地位)に申伯(申国の伯。西周宣王の元舅(母の兄))の尊があり、位は群公の首となっているので…

東漢時代228 桓帝(六) 梁冀と孫寿 150年(1)

今回は東漢桓帝和平元年です。二回に分けます。 東漢桓帝和平元年 庚寅 150年 [一] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月甲子(初一日)、天下に大赦して建和四年から和平元年に改元しました。 [二] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からで…

東漢時代227 桓帝(五) 荀淑 陳寔 鍾皓 鐘瑾 149年(2)

今回は東漢桓帝建和三年の続きです。 [十三] 『資治通鑑』からです。 この年、元朗陵侯相(朗陵侯国の相)・荀淑が死にました。 荀淑は若い頃から博学で高行(高尚な品行)があり、当世の名賢・李固や李膺が師として尊びました。 朗陵では政務を処理して公明…