2018-06-01から1ヶ月間の記事一覧

東漢時代291 霊帝(二十六) 曹節の反撃 179年(2)

今回は東漢霊帝光和二年の続きです。 [七(続き)] 虞貴人の喪から還った曹節は諸常侍に「今はとりあえず一緒に(宮中に)入ろう。里舍(自宅)に行くべきではない(勿過里舍也)」と話し、直接入省(入宮)して霊帝にこう言いました「陽球は酷暴の吏なので、…

東漢時代290 霊帝(二十五) 王甫誅殺 179年(1)

今回は東漢霊帝光和二年です。四回に分けます。 東漢霊帝光和二年 己未 179年 [一] 『後漢書・孝霊帝紀』と『資治通鑑』からです。 春、大疫に襲われました。 朝廷が常侍や中謁者を派遣して巡行させ、医薬を届けました。 [二] 『後漢書・孝霊帝紀』と『資治…

東漢時代289 霊帝(二十四) 西邸の売官 178年(3)

今回で東漢霊帝光和元年が終わります。 [十九] 『後漢書・孝霊帝紀』と『資治通鑑』からです。 十月丙子晦、日食がありました。 尚書・盧植が上書しました「凡そ諸党錮においては、多くにその罪がないので、赦恕(赦免・寛恕)を加えて申宥回枉(寛恕を施し…

東漢時代288 霊帝(二十三) 蔡邕徒刑 178年(2)

今回は東漢霊帝光和元年の続きです。 [十四(続き)] 議郎・蔡邕が霊帝の問いに答えて言いました「臣が伏して思うに、諸異(異変)は皆、亡国の怪ですが、天の大漢に対する殷勤(情義)が尽きていないので、しばしば祅変(妖変)を現して譴責に当て、人君に感…

東漢時代287 霊帝(二十二) 楊賜の諫言 178年(1)

今回は東漢霊帝光和元年です。三回に分けます。 東漢霊帝光和元年 戊午 178年 三月に改元します。 [一] 『後漢書・孝霊帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月、合浦、交趾の烏滸蛮が叛し、九真、日南の民を招き入れて郡県を攻略しました。 [二] 『後漢書・…

東漢時代286 霊帝(二十一) 鮮卑討伐 177年(2)

今回は東漢霊帝熹平六年の続きです。 [八] 『後漢書・孝霊帝紀』と『資治通鑑』からです。 護烏桓校尉・夏育が上書しました「鮮卑が辺境を侵しており(寇辺)、春以来三十余発(回)になります。幽州諸郡の兵を徴発し、塞を出てこれを撃つことを請います。一…

東漢時代 蔡邕の上書

東漢霊帝熹平六年(177年)、蔡邕が上書して霊帝を諫めました。 東漢時代285 霊帝(二十) 陽球 177年(1) 以下、『資治通鑑』から上書の内容を紹介します。 蔡邕が言いました「五郊で気を迎え(明帝永平二年・59年参照)、清廟で祭祀を行い、辟雍で養老するの…

東漢時代285 霊帝(二十) 陽球 177年(1)

今回は東漢霊帝熹平六年です。二回に分けます。 東漢霊帝熹平六年 177年 丁巳 [一] 『後漢書・孝霊帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月辛丑(十五日)、天下に大赦しました。 [二] 『後漢書・孝霊帝紀』からです。 二月、南宮平城門と武庫の東垣屋(武庫…

東漢時代284 霊帝(十九) 曹鸞 176年

今回は東漢霊帝熹平五年です。 東漢霊帝熹平五年 丙辰 176年 [一] 『後漢書・孝霊帝紀』と『資治通鑑』からです。 夏四月癸亥、天下に大赦しました。 [二] 『後漢書・孝霊帝紀』と『資治通鑑』からです。 益州郡の夷が反しましたが、太守・李顒が討伐して平…

東漢時代283 霊帝(十八) 沖帝・質帝の母 175年(2)

今回は東漢霊帝熹平四年の続きです。 [三] 『後漢書・孝霊帝紀』と『資治通鑑』からです。 河間王・劉建の孫・劉佗を任城王に封じました。 河間王・劉建は諡号を貞王といい、恵王・劉政の子、孝王・劉開の孫です。劉開は章帝の子です。 霊帝は河間孝王・劉開…

東漢時代282 霊帝(十七) 三互法 175年(1)

今回は東漢霊帝熹平四年です。二回に分けます。 東漢霊帝熹平四年 乙卯 175年 [一] 『後漢書・孝霊帝紀』と『資治通鑑』からです。 春三月、霊帝が詔を発して諸儒学者に『五経』の文字を正させました。 整理された経文は、議郎・蔡邕に古文、篆書、隸書の三…

東漢時代 孫堅登場

霊帝熹平三年(174年)、孫堅が会稽討伐に参加して功績を上げました。 東漢時代281 霊帝(十六) 孫堅登場 174年 ここでは『三国志・呉書一・孫破虜討逆伝』の本文と裴松之の注を元に孫堅について紹介します。 孫堅は字を文台といいます。呉郡富春の人で、恐ら…

東漢時代281 霊帝(十六) 孫堅登場 174年

今回は東漢霊帝熹平三年です。 東漢霊帝熹平三年 甲寅 174年 [一] 『後漢書・孝霊帝紀』からです。 春正月、夫餘国が使者を送って貢献しました。 [二] 『後漢書・孝霊帝紀』と『資治通鑑』からです。 二月己巳(十六日)、天下に大赦しました。 [三] 『後漢…

東漢時代280 霊帝(十五) 師遷の上奏 173年

今回は東漢霊帝熹平二年と三年です。 東漢霊帝熹平二年 癸丑 173年 [一] 『後漢書・孝霊帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月、大疫に襲われました。 朝廷が使者を派遣して巡行させ、医薬を届けました。 [二] 『後漢書・孝霊帝紀』と『資治通鑑』からです…

東漢時代279 霊帝(十四) 朱雀闕事件 172年(2)

今回は東漢霊帝熹平元年の続きです。 [七] 『資治通鑑』からです。 ある人が朱雀闕(明帝永平二年(59年)十一月に北宮を築きました。『資治通鑑』胡三省注によると、朱爵闕は南司馬門闕で、宮門の外に位置します)にこう書きました「天下が大乱し、曹節、王…

東漢時代278 霊帝(十三) 竇太后の死 172年(1)

今回は東漢霊帝熹平元年です。二回に分けます。 東漢霊帝熹平元年 壬子 172年 [一] 『資治通鑑』からです。 春正月、車駕(皇帝)が原陵(光武帝陵)を祀りました(車駕上原陵)。 司徒掾・陳留の人・蔡邕が言いました「私は、古は墓祭を行わなかったと聞い…

東漢時代277 霊帝(十二) 孟佗 170~171年

今回は東漢霊帝建寧三年と四年です。 東漢霊帝建寧三年 庚戌 170年 [一] 『後漢書・孝霊帝紀』からです。 春正月、河内で妻が夫を食べ、河南で夫が妻を食べました。 原文は「河内人婦食夫,河南人夫食婦」です。『後漢書・五行志五』は「河内婦食夫,河南夫…

東漢時代276 霊帝(十一) 袁氏 169年(5)

今回で霊帝建寧二年が終わります。 [八(続き)] 以前、中常侍・張讓の父が死に、潁川に帰って埋葬した時、一郡の人がほとんど全て集まりましたが、名士では陳寔以外に参加した者がなく、張讓はこれを非常に恥としました。 後に党人が誅殺されることになりまし…

東漢時代275 霊帝(十) 張倹の逃走 169年(4)

今回も霊帝建寧二年の続きです。 [八(続き)] 『資治通鑑』に戻ります。 郭泰は党人の死を聞いて秘かに慟哭し、こう言いました「『詩(大雅‧瞻卬)』はこう言っている『人才を失ったら国が困窮する(人之云亡,邦国殄瘁)。』漢室は滅ぶだろう。ただ烏が誰の…

東漢時代274 霊帝(九) 第二次党禁事件 169年(3)

今回も霊帝建寧二年の続きです。 [八] 『資治通鑑』からです。 李膺等は廃錮(罷免・禁錮)されましたが、天下の士大夫が皆、その道を高尚とし、朝廷を汙穢としました(李膺等の生き方や節操を高尚とみなし、朝廷が汚れているとみなしました)。李膺等を敬慕…

東漢時代273 霊帝(八) 東羌平定 169年(2)

今回は霊帝建寧二年の続きです。 [五] 『資治通鑑』からです。 霊帝が詔を発し、謁者・馮禅を派遣して漢陽の散羌(残りの羌人。段熲に敗れて漢陽の山谷に入った羌人)に投降を説得させました。 段熲は春農で百姓が田野を満たしている時期だったため(馮禅が…

東漢時代272 霊帝(七) 異変 169年(1)

今回は霊帝建寧二年です。五回に分けます。 東漢霊帝建寧二年 己酉 169年 [一] 『後漢書・孝霊帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月丁丑(中華書局『白話資治通鑑』は「丁丑」を恐らく誤りとしています)、天下に大赦しました。 [二] 『後漢書・孝霊帝紀』…

東漢時代271 霊帝(六) 竇武の失敗 168年(6)

今回で東漢霊帝建寧元年が終わります。 [十六(続き)] 難(異変)を聞いた陳蕃が官属・諸生八十余人を従え、刃(剣)を抜いて承明門に突入して尚書門に到りました。 『資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)によると、袁宏の『後漢紀』はこう書いていま…

東漢時代270 霊帝(五) 竇武と陳蕃 168年(5)

今回も東漢霊帝建寧元年の続きです。 [十六] 『資治通鑑』からです。 竇氏が皇后および太后に立つことができたのは、陳蕃の力によるものでした(桓帝が皇后を選んだ時、陳蕃が竇氏を推しました。桓帝延熹八年・165年参照)。 そこで竇太后が朝政に臨むと、政…

東漢時代269 霊帝(四) 張奐と段熲 168年(4)

今回も東漢霊帝建寧元年の続きです。 [十四] 『資治通鑑』からです。 段熲が軽兵を率いて羌(東羌)を追撃し、橋門(地名)を出ました。 朝から夜まで兼行し、奢延沢、落川、令鮮水の辺で戦って連破します。 更に霊武の谷で戦い、羌が大敗しました。 『資治…

東漢時代268 霊帝(三) 盧植 168年(3)

今回も東漢霊帝建寧元年の続きです。 [八] 『後漢書・孝霊帝紀』と『資治通鑑』からです。 閏月甲午(中華書局『白話資治通鑑』は「閏月甲午」を恐らく誤りとしています)、霊帝が皇祖(祖父)・劉淑を追尊して孝元皇とし、その夫人・夏氏を孝元后にしました。…

東漢時代267 霊帝(二) 段熲の遠征 168年(2)

今回は東漢霊帝建寧元年の続きです。 [七] 『後漢書・孝霊帝紀』と『資治通鑑』からです。 昨年、護羌校尉・段熲が西羌を平定しましたが、東羌の先零等の種族はまだ服従していませんでした。 度遼将軍・皇甫規、中郎将・張奐が年を連ねて招降しても、東羌は…

東漢時代 郭泰 仇香(後)

前回の続きです。 東漢時代 郭泰 仇香(前) 陳留の人・左原は郡の学生になりましたが、法を犯したため排斥されました。 郭泰が路上で左原に遇い、酒肴(酒食)を設けて慰めました。 郭泰が言いました「昔、顔涿聚は梁甫の巨盗で、段干木は晋国の大駔(売買を…

東漢時代 郭泰 仇香(前)

東漢桓帝延熹七年(164年)に黄瓊が死に、多くの名士が集まりました。 東漢時代251 桓帝(二十九) 南巡 164年(1) 『資治通鑑』が郭泰、仇香等の故事を書いているので、ここで二回に分けて紹介します。 以前、黄瓊が家で学問を教授していた時、徐穉が黄瓊に従…

東漢時代266 霊帝(一) 霊帝即位 168年(1)

今回から東漢霊帝の時代です。 孝霊皇帝 名を劉宏といいます。章帝の玄孫で、河間孝王・劉開の曽孫です。祖父の劉淑と父の劉萇は代々解瀆亭侯に封じられ、劉萇の死後、劉宏が侯爵を継ぎました。劉宏の母は董夫人です。 桓帝永康元年(167年)十二月、桓帝が…