2018-08-01から1ヶ月間の記事一覧

東漢時代368 献帝(五十) 曹操と張繍 198年(1)

今回は東漢献帝建安三年です。五回に分けます。 東漢献帝建安三年 戊寅 198年 [一] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月、曹操が許に還りました(曹操は張繍を討伐していました)。 [二] 『三国志・魏書一・武帝紀』はここで「初めて…

東漢時代367 献帝(四十九) 杜襲 趙儼 繁欽 197年(5)

今回で東漢献帝建安二年が終わります。 [十四] 『資治通鑑』からです。 馬日磾の喪(霊柩)が京師に至りました(献帝興平元年・194年参照)。 朝廷が議論して馬日磾に礼を加えようとしました(特別な礼を用いて葬事を行おうとしました)。 しかし孔融がこう…

東漢時代366 献帝(四十八) 楊彪 197年(4)

今回も東漢献帝建安二年の続きです。 [九] 『後漢書・孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。 陳王・劉寵(明帝の子孫。霊帝熹平二年・173年参照)は勇猛で弩射が得意でした。 黄巾賊が起きると、劉寵は兵を治めて守りを固めました。 国人は劉寵を畏れていたた…

東漢時代365 献帝(四十七) 孫策 197年(3)

今回も東漢献帝建安二年の続きです。 [七] 『資治通鑑』からです。 泰山賊の帥・臧霸が莒の琅邪相・蕭建を襲いました。 『資治通鑑』胡三省注によると、西漢時代の莒県は城陽国に属しましたが、東漢になってから琅邪国に属しました。 臧霸が蕭建を破って資実…

東漢時代364 献帝(四十六) 袁術称帝 197年(2)

今回は東漢献帝建安二年の続きです。 [三] 『後漢書・孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。 袁術が寿春で帝を称しました。仲家を自称します(「家」は「漢家」の「家」と同じで、「仲」が国号のようです)。 九江太守を淮南尹に改め、公卿百官を置き、天地を…

東漢時代363 献帝(四十五) 張繍背反 197年(1)

今回は東漢献帝建安二年です。五回に分けます。 東漢献帝建安二年 丁丑 197年 [一] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月、曹操が張繍を討って淯水に駐軍しました(これは『資治通鑑』の記述です。『三国志・武帝紀』は「宛に到った」…

東漢時代362 献帝(四十四) 賈詡と張繍 196年(7)

今回で東漢献帝建安元年が終わります。 [二十一] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 張済が関中から兵を率いて荊州界内の南陽に入り、穰城を攻めましたが、流矢に中って死にました。 『資治通鑑』胡三省注によると、穰県は南陽郡に属す県…

東漢時代361 献帝(四十三) 呂布 196年(6)

今回も東漢献帝建安元年の続きです。 [十九] 『資治通鑑』からです。 袁術は呂布が自分の害になることを畏れ、自分の子のために求婚しました(袁術の息子と呂布の娘の婚姻を求めました)。 呂布はこれに同意します。 呂布との同盟が成立した袁術は将・紀霊等…

東漢時代 孫策の書

袁術が僭号したため、献帝建安元年(196年)に孫策が書を送って譴責し、関係を絶ちました。 東漢時代357 献帝(三十九) 献帝東還 196年(2) 以下、『三国志・呉書一・孫破虜討逆伝』裴松之注から孫策の書を紹介します(『資治通鑑』の内容とはだいぶ異なります…

東漢時代360 献帝(四十二) 屯田 196年(5)

今回も東漢献帝建安元年の続きです。 [十六] 『資治通鑑』からです。 曹操が荀彧を侍中に任命して尚書令代理にしました(守尚書令)。 曹操が荀彧に策謀の士について問いました。荀彧は従子(甥)の蜀郡太守・荀攸と潁川の人・郭嘉を推薦します。 『資治通鑑』…

東漢時代359 献帝(四十一) 曹操と袁紹 196年(4)

今回も東漢献帝建安元年の続きです。 [十二] 『資治通鑑』からです。 孫策が会稽を取ろうとしました。 当時は呉の人・厳白虎等がそれぞれ一万余人の衆を擁して所々で屯聚(集結)していたため、呉景や諸将は先に厳白虎等を撃ってから会稽に行きたいと思いま…

東漢時代358 献帝(四十) 遷都 196年(3)

今回も東漢献帝建安元年の続きです。 [十一] 『後漢書・孝献帝紀』『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 当時、曹操は許に居り、天子を迎え入れようと謀りました。 『資治通鑑』胡三省注によると、許県は潁川郡に属します。献帝が遷都してか…

東漢時代357 献帝(三十九) 献帝東還 196年(2)

今回は東漢献帝建安元年の続きです。 [九] 『後漢書・孝献帝紀』『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 六月庚子(初六日)、楊奉と韓暹が献帝を奉じて東に還り、張楊が食糧を準備して道中で出迎えました。 秋七月甲子(初一日)、車駕が雒陽…

東漢時代356 献帝(三十八) 呂布と劉備 196年(1)

今回は東漢献帝建安元年です。七回に分けます。 東漢献帝建安元年 丙子 196年 [一] 『後漢書・孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月癸酉(初七日)、安邑で上帝を郊祀し、大赦して興平三年から建安元年に改元しました。 [二] 『三国志・魏書一・武帝紀…

東漢時代355 献帝(三十七) 公孫瓉 195年(10)

今回で東漢献帝興平二年が終わります。 [十八] 『資治通鑑』からです。 公孫瓉は劉虞を殺してから幽州の地を全て有し、志気がますます盛んになりました。自分の才力に頼って百姓を慈しまず、過(人の過失)は記憶しても善(善行、長所)は忘れ、睚眦(些細な…

東漢時代354 献帝(三十六) 臧洪 195年(9)

今回も東漢献帝興平二年の続きです。 [十七] 『資治通鑑』からです。 張超が雍丘におり、曹操の包囲攻撃が激しくなりました。 張超が言いました「臧洪だけは私を救いに来るはずだ。」 『資治通鑑』胡三省注によると、張超は広陵太守になった時、臧洪を招いて…

東漢時代353 献帝(三十五) 笮融 195年(8)

今回も東漢献帝興平二年の続きです。 [十五(続き)] 劉繇が逃走したため、孫策が曲阿に入りました。 孫策は将士を労賜(慰労して賞賜を与えること)し、将・陳宝を阜陵に送って母や弟を迎えます。 また、恩を発する布令をして諸県に告諭しました。「劉繇、笮…

東漢時代352 献帝(三十四) 孫策東進 195年(7)

今回も東漢献帝興平二年の続きです。 [十五] 『孫破虜討逆伝(裴松之注含む)』と『資治通鑑』からです。 かつて丹陽の人・朱治が孫堅の校尉になりました。 『三国志・呉書十一・朱治朱然呂範朱桓伝』によると、朱治は初め県吏になり、後に孝廉に選ばれ、州…

東漢時代351 献帝(三十三) 献帝と袁紹 195年(6)

今回も東漢献帝興平二年の続きです。 [十三(続き)] 当時、残破(敗戦。災難)の後に残った虎賁・羽林は百人足らずしかいませんでした。 李傕と郭汜の兵が献帝の営を囲んで喚呼したため、吏士が色を失い、それぞれ分散(離散・逃走)の意を抱くようになりま…

東漢時代350 献帝(三十二) 献帝の逃避行 195年(5)

今回も東漢献帝興平二年の続きです。 [十三] 『後漢書・孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。 冬十月戊戌(初一日)、郭汜の党羽である夏育、高碩等が共に乱を為して乗輿(皇帝)を脅し、西行しようと欲しました。 ここは『欽定四庫全書・後漢記(巻二十八)…

東漢時代349 献帝(三十一) 献帝東遷 195年(4)

今回も東漢献帝興平二年の続きです。 [十] 『後漢書・孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。 李傕と郭汜が互いに攻撃して月を重ね、死者が万人を数えました。 六月、李傕の将・楊奉が李傕を殺そうと謀りましたが、事が漏れたため、兵を率いて李傕に叛しました…

東漢時代348 献帝(三十) 呂布敗退 195年(3)

今回も東漢献帝興平二年の続きです。 [九] 『三国志・魏書一・武帝紀(裴松之注含む)』と『資治通鑑』からです。 呂布の将・薛蘭と李封が鉅野に駐屯しました。 曹操がこれを攻めたため、呂布が薛蘭等を救いに行きましたが、薛蘭等が敗れて呂布は逃走しまし…

東漢時代347 献帝(二十九) 皇甫酈 195年(2)

今回は東漢献帝興平二年の続きです。 [八] 『資治通鑑』からです。 李傕は校尉に塢門を監督させ、内外を隔絶しました。 (献帝の)侍臣が皆、飢色を浮かべていたため、献帝が米五斗と牛骨五具を求めて左右の者に下賜しようとしました。 しかし李傕は「朝晡(…

東漢時代346 献帝(二十八) 長安分裂 195年(1)

今回は東漢献帝興平二年です。 東漢献帝興平二年 乙亥 195年 [一] 『後漢書・孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月癸丑(十一日)、天下に大赦しました。 袁宏の『後漢紀』は「正月癸酉」としていますが、『資治通鑑』胡三省注によると、この月は「癸…

東漢時代345 献帝(二十七) 孫策と袁術 194年(7)

今回で東漢献帝興平元年が終わります。 [二十七(続き)] 本文に戻ります。 寿春に入った孫策が涙を流して袁術に言いました「亡父は昔、長沙から入って董卓を討ち、明使君と南陽で会して、同盟結好しましたが(同盟して好を結びましたが)、不幸にも難に遭い…

東漢時代344 献帝(二十六) 孫策 194年(6)

今回も東漢献帝興平元年の続きです。 [二十七] 『三国志・呉書一・孫破虜討逆伝(裴松之注含む)』と『資治通鑑』からです。 以前、孫堅は銭唐の呉氏を娶り、四男が生まれました。孫策、孫権、孫翊、孫匡です。その他に一女もできました。 『孫破虜討逆伝』…

東漢時代343 献帝(二十五) 徐州牧劉備 194年(5)

今回も東漢献帝興平元年の続きです。 [二十四] 『三国志・蜀書一・劉二牧伝(裴松之注含む)』と『資治通鑑』からです。 馬騰が李傕を攻撃した時、劉焉の二人の子・劉範と劉誕が死にました。 議郎・河南の人・龐羲はかねてから劉焉と関係が善かったため、劉…

東漢時代342 献帝(二十四) 濮陽の戦い 194年(4)

今回も東漢献帝興平元年の続きです。 [十六] 『後漢書・孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。 八月、馮翊羌が属県を侵しましたが、郭汜、樊稠等が衆を率いて破りました。 [十七] 『後漢書・孝献帝紀』からです。 九月、桑の木が再び実をつけたため(桑復生椹…

東漢時代341 献帝(二十三) 程昱 194年(3)

今回も東漢献帝興平元年の続きです。 [七(続き)] 兗州の郡県が全て呂布に応じましたが、荀彧と程昱が鄄城を守り、范と東阿も動じず堅守しました。 呂布軍から降った者がこう言いました「陳宮は自ら兵を率いて東阿を取ろうとしており、また氾嶷(『資治通鑑』…

東漢時代340 献帝(二十二) 張邈 194年(2)

今回は東漢献帝興平元年の続きです。 [七] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。 兗州刺史・曹操が司馬・荀彧、寿張令(県令)・程昱に鄄城(『資治通鑑』では「甄城」ですが、「鄄城」が正しいはずです。兗州刺史の治所は昌邑でしたが、曹操…