2018-04-01から1ヶ月間の記事一覧

東漢時代211 順帝(二十四) 梁商の死 141年(2)

今回は東漢順帝永和六年の続きです。 [十一] 『後漢書・孝順孝沖孝質帝紀』からです。 夏五月庚子、斉王・劉無忌(和帝永元二年・90年参照)が死にました。 『後漢書・宗室四王三侯列伝(巻十四)』によると、劉無忌の諡号は恵王です。在位年数は五十二年に及…

東漢時代210 順帝(二十三) 馬賢の失敗 141年(1)

今回は東漢順帝永和六年です。 東漢順帝永和六年 辛巳 141年 [一] 『後漢書・孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。 順帝が馬賢に西羌討伐を命じた時(前年)、大将軍・梁商は馬賢が老齢だったため、太中大夫・宋漢を送るべきだと考えました。しかし順帝…

東漢時代209 順帝(二十二) 南匈奴の乱 140年

今回は東漢順帝永和五年です。 東漢順帝永和五年 庚辰 140年 [一] 『後漢書・孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。 春二月戊申(十七日)、京師で地震がありました。 [二] 『後漢書・孝順孝沖孝質帝紀』からです。 夏四月庚子、中山王・劉弘が死にまし…

東漢時代208 順帝(二十一) 曹騰 139年

今回は東漢順帝永和四年です。 東漢順帝永和四年 己卯 139年 [一] 『資治通鑑』からです。 小黄門・南陽の人・曹節等が宮中で実権を握っていたため(用事於中)、大将軍・梁商が子の梁冀、梁不疑を送って曹節等と交友させました。 しかし他の宦官達は曹節等…

東漢時代207 順帝(二十) 左雄と周挙 138年(2)

今回は東漢順帝永和三年の続きです。 [十] 『後漢書・孝順孝沖孝質帝紀』からです。 秋七月丙戌、済北王・劉多が死にました。 劉多の父は節王・劉登、劉登の父は恵王・劉寿で、劉寿は章帝の子です。 『後漢書・章帝八王伝(巻五十五)』によると、劉多の諡号は…

東漢時代206 順帝(十九) 李固の上書 138年(1)

今回は東漢順帝永和三年です。二回に分けます。 東漢順帝永和三年 戊寅 138年 [一] 『後漢書・孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。 春二月乙亥(初三日)、京師および金城、隴西で地震があり、二郡で山が崩れて地が陥没しました。 [二] 『後漢書・孝順…

東漢時代205 順帝(十八) 宋娥と九侯 137年

今回は東漢順帝永和二年です。 東漢順帝永和二年 丁丑 137年 [一] 『後漢書・孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月、武陵蛮二万人が叛して充城を包囲し、八千人が夷道を侵しました。 『資治通鑑』胡三省注によると、充県は武陵郡に属し、夷道…

東漢時代204 順帝(十七) 梁冀 136年

今回は東漢順帝永和元年です。 東漢順帝永和元年 丙子 136年 [一] 『後漢書・孝順孝沖孝質帝紀』からです。 春正月、夫餘王が来朝しました。 [二] 『後漢書・孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。 乙卯(初一日)、順帝が詔を発しました「朕が政事を行…

東漢時代203 順帝(十六) 梁商 135年

今回は東漢順帝陽嘉四年です。 東漢順帝陽嘉四年 乙亥 135年 [一] 『資治通鑑』からです。 春、北匈奴の呼衍王が車師後部を侵しました。 順帝は敦煌太守に命じ、兵を発して援けさせましたが、勝てませんでした。 [二] 『後漢書・孝順孝沖孝質帝紀』と『資治…

東漢時代202 順帝(十五) 周挙 張衡 134年

今回は東漢順帝陽嘉三年です。 東漢順帝陽嘉三年 甲戌 134年 [一] 『後漢書・孝順孝沖孝質帝紀』からです。 春二月己丑、久しく旱害が続いたため順帝が詔を発し、京師の諸獄では罪の軽重を問わず、澍雨(大雨。または時に応じた雨)を得るまで全て考竟(審理…

東漢時代202 順帝(十五) 周挙 張衡 134年

今回は東漢順帝陽嘉三年です。 東漢順帝陽嘉三年 甲戌 134年 [一] 『後漢書・孝順孝沖孝質帝紀』からです。 春二月己丑、久しく旱害が続いたため順帝が詔を発し、京師の諸獄では罪の軽重を問わず、澍雨(大雨。または時に応じた雨)を得るまで全て考竟(審理…

東漢時代 李固の対策

東漢順帝陽嘉二年(133年)六月丁丑(初八日)、雒陽宣徳亭の地が裂けたため、順帝が敦樸の士を招いて対策(皇帝の問いに答えること)させました。 東漢時代201 順帝(十四) 龐参 133年(3) 李固が答えました「以前、孝安皇帝が旧典を変乱し、阿母に封爵したため…

東漢時代201 順帝(十四) 龐参 133年(3)

今回で東漢順帝陽嘉二年が終わります。 [十] 『後漢書・孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。 (六月)丁丑(初八日)、雒陽宣徳亭の地が裂けました。長さが八十五丈に及びます。 『資治通鑑』胡三省注によると、宣徳亭は雒陽近郊の地で、平城門(南門…

東漢時代200 順帝(十三) 宋娥の封爵 133年(2)

今回は東漢順帝陽嘉二年の続きです。 [三] 『後漢書・孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。 三月、使匈奴中郎将・趙稠が従事に南匈奴・左骨都侯等の兵を率いさせ、塞から出て鮮卑を撃たせました。漢と匈奴の軍が鮮卑を破ります。 尚、「趙稠」は『後…

東漢時代199 順帝(十二) 郎顗 133年(1)

今回は東漢順帝陽嘉二年です。三回に分けます。 東漢順帝陽嘉二年 癸酉 133年 [一] 『資治通鑑』からです。 順帝が、北海の人・郎顗(『資治通鑑』胡三省注によると、魯懿公の孫・費伯が郎に築城してそこに住んだため、子孫が郎を氏にしました)が陰陽の学に…

東漢時代198 順帝(十一) 孝廉 132年(3)

今回で東漢順帝陽嘉元年が終わります。 [十七] 『後漢書・孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。 左雄がまた上書しました「孔子は『四十にして惑わず(四十不惑)』と言い、『礼』は(四十を)強仕と称しています(『礼記・曲礼上』に「四十は強といい…

東漢時代197 順帝(十) 左雄の上書 132年(2)

今回は東漢順帝陽嘉元年の続きです。 [十三] 『後漢書・孝順孝沖孝質帝紀』からです。 九月、順帝が郡国と中都官に詔を発し、全ての繋囚(囚人)から死一等を減らしました。また、亡命(逃亡)している者にはそれぞれ差をつけて贖罪させました。 [十四] 『資治通…

東漢時代196 順帝(九) 梁皇后 132年(1)

今回は東漢順帝陽嘉元年です。三回に分けます。 東漢順帝陽嘉元年 壬申 132年 [一] 『後漢書・孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。 順帝が皇后を立てようとしましたが、貴人の中に寵愛している者が四人おり、誰を立てるべきか判断できませんでした。…

東漢時代195 順帝(八) 沈景 130~131年

今回は東漢順帝永建五年と六年です。 東漢順帝永建五年 庚午 130年 [一] 『後漢書・孝順孝沖孝質帝紀』からです。 春正月、疏勒王が侍子を派遣しました(子を派遣して入侍させました)。 大宛と莎車の王も使者を派遣して貢献しました。 [二] 『後漢書・孝順…

東漢時代194 順帝(七) 元元之災 129年

今回は東漢順帝永建四年です。 東漢順帝永建四年 己巳 129年 [一] 『後漢書・孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月丙寅(初一日)、順帝が詔を発しました「朕は王公の上に託されているが、道に登った日が少なく(即位したばかりで。原文「渉道…

東漢時代193 順帝(六) 128年

今回は東漢順帝永建三年です。 東漢順帝永建三年 戊辰 128年 [一] 『後漢書・孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。 春正月丙子(初六日)、京師で地震があり、漢陽の地が陷裂しました。 甲午(二十四日)、順帝が詔を発して損害があった者の実情を調査…

東漢時代192 順帝(五) 樊英 黄瓊 李固 127年(2)

今回は東漢順帝永建二年の続きです。 [十三] 『資治通鑑』からです。 南陽の人・樊英は若い頃から学行(学問と品行)があり、名が海内で知られていましたが、壺山の陽(南)で隠居していました。 州郡が前後して礼請(礼を用いて招聘すること)しても応じず…

東漢時代191 順帝(四) 班勇失脚 127年(1)

今回は東漢順帝永建二年です。二回に分けます。 東漢順帝永建二年 丁卯 127年 [一] 『後漢書・孝順孝沖孝質帝紀』からです。 春正月戊申、楽安王・劉鴻が来朝しました。 劉鴻は楽安夷王・劉寵の子で、劉寵は千乗貞王・劉伉の子、章帝の孫です(安帝建光元年…

東漢時代190 順帝(三) 孫程 126年(3)

今回で東漢順帝永建元年が終わります。 [十四] 『資治通鑑』からです。 浮陽侯・孫程等が奏表を懐にして上殿し、功を争いました。 順帝がこれに怒ったため、有司(官員)が弾劾の上奏を行いました「孫程等は干乱悖逆(「干乱」は「干渉・攪乱」、「悖逆」は…

東漢時代189 順帝(二) 虞詡と張防 126年(2)

今回は東漢順帝永建元年の続きです。 [十三] 『資治通鑑』からです。 司隸校尉・虞詡が着任して数カ月の間に、太傅・馮石と太尉・劉熹を弾劾する上奏を行って二人を罷免させました。 また、中常侍・程璜、陳秉、孟生、李閏等を弾劾する上奏も行いました。 百…

東漢時代188 順帝(一) 大赦 126年(1)

今回から東漢順帝の時代です。 孝順皇帝 劉保といいます。安帝の子で、実母は李氏です。李氏は閻皇后に害されました。 安帝永寧元年(120年)に皇太子に立てられましたが、延光三年(124年)、安帝の乳母・王聖や大長秋・江京、中常侍・樊豊等の讒言によって…

東漢時代187 安帝(三十七) 功臣 125年(3)

今回で東漢安帝延光四年が終わります。 [十五(続き)] (十一月)壬戌(初九日)、順帝が司隸校尉に詔を発しました「閻顕、江京だけが近親として罪に伏して誅されるべきである(当伏辜誅)。その他は務めて寛貸(寛恕)を尊べ(其余務崇寛貸)。」 順帝は孫程等を…

東漢時代186 安帝(三十六) 政変 125年(2)

今回は東漢安帝延光四年の続きです。 [十四] 『後漢書・孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。 冬十月丙午(二十二日)、越巂で山崩れがありました。 [十五] 『後漢書・孝安帝紀』『後漢書・孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。 少帝(北郷侯)・劉懿…

東漢時代185 安帝(三十五) 少帝即位 125年(1)

今回は東漢安帝延光四年です。三回に分けます。 東漢安帝延光四年 乙丑 125年 [一] 『後漢書・孝安帝紀』からです。 春正月壬午、東郡が「二匹の黄龍と一頭の麒麟が濮陽に現れた」と報告しました。 [二] 『後漢書・孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。 二月…

東漢時代184 安帝(三十四) 太子廃位 124年(3)

今回で東漢安帝延光三年が終わります。 [十八] 『後漢書・孝安帝紀』からです。 秋七月丁酉、右校令、左校丞の官を恢復しました。 『孝安帝紀』の注によると、将作大匠の属官に左・右校がおり、それぞれに令・丞がいました。中興以来(東漢になってから)置い…