2016-03-01から1ヶ月間の記事一覧

戦国時代 趙簡子・趙襄子に関する故事(3)

前回は『史記・趙世家』から趙簡子(趙鞅)と趙襄子(無恤)について書きました。 戦国時代 趙簡子・趙襄子に関する故事(2) 代を占領した出来事は『呂氏春秋・孝行覧』にもあります。『史記』とは少し異なります。 かつて趙簡子が病にかかった時、太子(無恤…

戦国時代 趙簡子・趙襄子に関する故事(2)

前回は『資治通鑑』から趙簡子の後継者選びに関して書きました。 戦国時代 趙簡子・趙襄子に関する故事(1) ここでは『史記・趙世家』の内容を注釈(「索隠」「正義」)を交えて紹介します。 晋頃公の時代、趙簡子が病にかかり、五日間も意識を失ったため、大…

戦国時代 趙簡子・趙襄子に関する故事(1)

『資治通鑑外紀』が趙簡子(趙鞅)と趙襄子(趙無恤)に関する故事を紹介しています。 戦国時代7 東周貞定王(二) 智氏と趙氏 前464~459年 まずは『呂氏春秋・恃君覧・驕恣(巻第二十)』からです。『説苑・君道(巻一)』にも同じ話があります。 趙簡子が鸞…

戦国時代7 東周貞定王(二) 智氏と趙氏 前464~459年

今回は東周貞定王五年から十年までです。 貞定王五年 前464年 丁丑 [一] 晋の荀瑤が鄭を攻撃しました。 晋軍が到着する前に、鄭の駟弘が言いました「知伯は愎(頑固で剛情)で勝利を好む。我々が早く弱い姿勢を見せれば、彼は兵を退くだろう。」 駟弘(駟桓…

戦国時代6 東周貞定王(一) 魯哀公の出奔 前468~465年

今回から東周貞定王の時代です。 貞定王 『史記・周本紀』は元王の死後、子の定王・介が即位したとしています。敬王→元王→定王という順番です。 しかし『世本(張澍稡集補注本等)』を見ると、「敬王が死んで貞王・介が立ち、貞王が死んで元王・赤が立つ」と…

戦国時代 子貢 原憲 曾参

『資治通鑑外紀』が『史記』等を元に子貢、原憲、曾参(三人とも孔子の弟子)について書いています。 戦国時代5 東周元王(五) 宋の内争 前469年(2) ここで紹介します。 まずは『史記・仲尼弟子列伝(巻六十七)』から子貢です。 端木賜は衛人で字を子貢とい…

戦国時代5 東周元王(五) 宋の内争 前469年(2)

今回は東周元王七年の続きです。 [二] 『資治通鑑外紀』はここで子貢、原憲、曾参(三人とも孔子の弟子)に関して書いています。別の場所で紹介します。 戦国時代 子貢 原憲 曾参 [三] 宋景公の故事を『水経注・睢水(巻二十四)』から紹介します。 宋景公が…

戦国時代4 東周元王(四) 衛出公のその後 前469年(1)

今回は東周元王七年です。二回に分けます。 元王七年 前469年 壬申 [一] 夏五月、魯の叔孫舒(文子。叔孫州仇の子)が兵を率いて越の大夫・皋如と舌庸(または「后庸」)および宋の司城・楽茷(子潞)と会しました。前年出奔した衛出公を帰国させることが目…

戦国時代年表 東周貞定王

東周貞定王時代の年表です。 『春秋左氏伝』が終わり、楊寛の『戦国史』と『古本竹書紀年輯校訂補』の年表を追加します。 (下部参照) *全て拡大できます。 次回は東周考王の年表です。 戦国時代年表 東周考王

戦国時代年表 東周元王

戦国時代の年表です。 まずは東周元王の時代です。 『史記』は『六国年表』が始まります。 それ以外は『資治通鑑外紀目録』『春秋左氏伝』『資治通鑑前篇綱要』『今本竹書紀年』です。 *すべて拡大できます。 次回は貞定王の年表です。 戦国時代年表 東周貞…

春秋時代第三期年表 東周敬王

春秋時代第三期の年表です。 『史記・十二諸侯年表』『資治通鑑外紀目録』『春秋左氏伝』『資治通鑑前編挙要』『今本竹書紀年』の対比表になります。 今回は東周敬王の時代です。 *すべて拡大できます。

春秋時代第三期年表 東周景王

春秋時代第三期の年表です。 『史記・十二諸侯年表』『資治通鑑外紀目録』『春秋左氏伝』『資治通鑑前編挙要』『今本竹書紀年』の対比表になります。 今回は東周景王の時代です。 *すべて拡大できます。 次回は東周敬王の年表です。 春秋時代第三期年表 東…

戦国時代3 東周元王(三) 衛出公の出奔 前471~470年

今回は東周元王五年と六年です。 元王五年 前471年 庚午 [一] 夏四月、晋出公が斉を討伐しようとして魯に出兵を求めました。 晋が魯に言いました「昔、臧文仲が楚師を率いて斉を討ち、穀を取りました(東周襄王十九年・前634年)。宣叔(臧孫許)も晋師を率…

戦国時代2 東周元王(二) 覇王・句践 前472年

今回は東周元王四年です。 元王四年 前472年 己巳 [一] 春、宋の景曹が死にました。 景曹は宋元公夫人で、宋景公の母です。景は諡号、曹は姓で、小邾出身です。魯の季孫斯(季桓子)の外祖母でもあります。 魯の季孫肥(康子。季孫斯の子)が冉求(冉有。孔…

戦国時代 范蠡(2)

呉を滅ぼした後の范蠡について書いています。 戦国時代 范蠡(1) 今回は『史記・越王句践世家』の記述を注(「集解」「索隠」「正義」)の内容を交えて紹介します。 范蠡は南陽人とも徐人とも楚の宛三戸人ともいわれています。字は少伯です。 越王・句践に仕…

戦国時代目録

戦国時代の目録です。 本編 戦国時代に入る前に 戦国時代1 東周元王(一) 呉の滅亡 前475~473年 戦国時代2 東周元王(二) 覇王・句践 前472年 戦国時代3 東周元王(三) 衛出公の出奔 前471~470年 戦国時代4 東周元王(四) 衛出公のその後 前469年(1) 戦国時代5…

戦国時代 范蠡(1)

越が呉を滅ぼしてから、謀臣・范蠡が去りました。 戦国時代1 東周元王(一) 呉の滅亡 前475~473年 『国語』『史記』等における范蠡に関する記述をここで紹介します。 まずは『国語・越語下』からです。 呉を滅ぼした越王・句践が五湖(太湖周辺)に還ると、…

戦国時代1 東周元王(一) 呉の滅亡 前475~473年

戦国時代が始まります。今回は東周元王元年から三年までです。 元王 東周敬王が死んで子の仁(または「赤」)が立ちました。これを元王といいます。 東周敬王の末年にも書きましたが、『春秋左氏伝』は敬王の在位年数を四十四年としているので、紀元前475年…

戦国時代に入る前に

概略 約三百年にわたる春秋時代が終わりました。 春秋時代は周王の権威が衰退し、各諸侯国が独立割拠していく時代でした。 しかし、諸侯にはまだ天下を統一する条件も意思もなく、形骸化したとはいえ周王の存在は無視できないものでした。 戦国時代になると…

第二十三回 衛懿公が国を亡ぼし、斉桓公が楚を伐つ(後編)

*今回は『東周列国志』第二十三回後編です。 鄭伯は聃伯が捕えられたと聞いて、再び斉に人を派遣して援軍を請いました。 管仲が斉桓公に進言しました「主公はここ数年で燕を救い、魯を存続させ、邢に築城し、衛を封じました。恩徳が百姓に加えられ、大義が…

第二十三回 衛懿公が国を亡ぼし、斉桓公が楚を伐つ(中編)

*今回は『東周列国志』第二十三回中編です。 石祁子が先に公子・申を抱えて舟に乗りました。寧速が遺民を集めて後に続きます。 漕邑に到着した時、男女の数を確認すると、わずか七百二十人しかいませんでした。あまりにも多くの衛人が狄人によって殺戮され…

第二十三回 衛懿公が国を亡ぼし、斉桓公が楚を伐つ(前編)

第二十三回 衛懿公が鶴を好んで国を亡ぼし、斉桓公が兵を興して楚を伐つ (第二十三回 衛懿公好鶴亡国 斉桓公興兵伐楚) *今回は『東周列国志』第二十三回前編です。 衛懿公は恵公の子で、周恵王九年に即位しました。在位して九年間、遊楽に耽り、怠惰驕慢…

第二十二回 公子友が魯君を定め、斉の皇子が委蛇を当てる(後編)

*今回は『東周列国志』第二十二回後編です。 斉桓公は燕を救って魯を安定させてから、ますます威名を振るわせました。諸侯が喜んで心服します。 桓公は管仲を信任して政治を任せ、自分は飲猟(飲酒や狩猟)といった歓楽に専念しました。 ある日、桓公が大沢…

第二十二回 公子友が魯君を定め、斉の皇子が委蛇を当てる(中編)

*今回は『東周列国志』第二十二回中編です。 閔公二年、慶父は簒奪の計画を急ぐようになりました。しかし閔公が斉侯の外甥にあたり、季友も忠心をもって補佐しているため、軽率には動けません。 ある日突然、閽人(門守)が報告しました「大夫・卜齮が尋ね…

第二十二回 公子友が魯君を定め、斉の皇子が委蛇を当てる(前編)

第二十二回 公子友が二回魯君を定め、斉の皇子が委蛇を言い当てる 公子友両定魯君 斉皇子独対委蛇 *今回は『東周列国志』第二十二回前編です。 魯の公子・慶父は字を仲といい、荘公の庶兄にあたります。慶父の同母弟は名を牙、字を叔といい、荘公の庶弟にな…

第二十一回 管夷吾が兪児を知り、斉桓公が孤竹を平定する(四)

*今回は『東周列国志』第二十一回その四です。 黄花元帥は斉将・高黒と共に先行し、陽山まで来ました。高黒は後隊の大軍が来ていないことに気づき、黄花に暫く止まるように勧めます。しかし黄花は先に進むように催促しました。高黒は疑いを持ち、馬を止めて…

第二十一回 管夷吾が兪児を知り、斉桓公が孤竹を平定する(三)

*今回は『東周列国志』第二十一回その三です。 無棣城内にいる答里呵は斉兵の消息が分からなかったため、小番(番兵)を溪中に送って探らせました。すると溪中が竹筏で埋められ、兵馬が次々に川を渡って来ます。情報は急いで城中に告げられました。 驚いた…

第二十一回 管夷吾が兪児を知り、斉桓公が孤竹を平定する(二)

*今回は『東周列国志』第二十一回その二です。 管仲は食糧を運ぶと称して賓須無を葵茲に還らせるふりをしました。実際は虎児斑に先導させて一軍を芝麻嶺に向けます。六日後に合流することを約束しました。 その間、牙将・連摯に命じて日々黄台山の戎軍に戦…

第二十一回 管夷吾が兪児を知り、斉桓公が孤竹を平定する(一)

第二十一回 管夷吾が智によって兪児を知り、斉桓公が兵を用いて孤竹を平定する (管夷吾智辨兪児 斉桓公兵定孤竹) *今回は『東周列国志』第二十一回その一です。 山戎は北戎の一種で令支を国としました。離支ともいいます。西は燕、東南は斉・魯と接してお…

春秋時代 臥薪嘗胆

越王・句践は呉に大敗して首都を失い、呉王・夫差に臣従を誓いました。しかし句践は「臥薪嘗胆」して復讐を誓いました。 春秋時代268 東周敬王(三十七) 会稽の戦い 前494年(1) 春秋時代 会稽の戦い 『史記』の記述 「臥薪」は「薪の上に寝る」という意味です…