2015-09-01から1ヶ月間の記事一覧

第七回 公孫閼が考叔を射ち、公子翬が隱公を殺す(中編)

*『東周列国志』第七回の中編です。 夏、斉・魯の二侯が時来に入り、鄭伯と共に許討伐の計画を練りました。秋七月朔に許の地で合流することを約束し、二侯は帰国します。 鄭荘公は国に帰ってから軍馬を大閲(閲兵)し、吉日を選んで太宮(太廟)で祭祀を行…

第七回 公孫閼が考叔を射ち、公子翬が隱公を殺す(前編)

第七回 公孫閼が車を争って考叔を射ち、公子翬が諂を献じて隱公を殺す 公孫閼爭車射考叔 公子翬獻諂賊隱公 *今回は『東周列国志』第七回前編です。 鄭荘公は世子・忽が急を告げるために送ってきた文書を見ると、すぐに撤退の命令を発しました。 斉の夷仲年…

春秋時代206 東周景王(二十八) 周と晋の関係 前533年

今回は東周景王十二年です。 景王十二年 前533年 戊辰 [一] 春、魯の叔弓、宋の華亥、鄭の游吉、衛の趙黶が陳で楚霊王と会しました。 [二] 二月庚申(楊伯峻の『春秋左伝注』によると、この年の二月に庚申の日はないようです)、楚の公子・棄疾が許国を夷に…

春秋時代 晋平公と音楽

『資治通鑑外紀』が『史記・楽書(巻二十四)』から晋平公と音楽に関する話を紹介しています。 春秋時代205 東周景王(二十七) 陳滅亡 前534年 本編では省略したので、ここで紹介します。 ある時、衛霊公が晋に行きました。途中、濮水の辺の上舍(高級な館舎…

第六回 衛石碏が大義滅親し、鄭荘公が宋を討つ(後編)

*『東周列国志』第六回の後編です。 この頃、周桓王は鄭伯から政権を奪って虢公・忌父に代えようとしていました。しかし周公・黒肩が強く諫めたため、忌父を右卿士に任命して政治を行わせ、鄭伯には左卿士という虚名を与えました。 それを知った鄭荘公が笑…

春秋時代205 東周景王(二十七) 陳滅亡 前534年

今回は東周景王十一年です。 景王十一年 前534年 丁卯 [一] 春、晋の魏楡で石が話をしたという情報がありました。 晋平公が師曠に「石がなぜ話をしたのだ?」と問うと、師曠はこう答えました「石は話ができません。何かが憑依したか、そうでなければ民が聞き…

第六回 衛石碏が大義滅親し、鄭荘公が宋を討つ(中編)

*『東周列国志』第六回の中編です。 鄭荘公は五国の兵が解かれたと知り、長葛に人を送って状況を探ろうとしました。ちょうどその時、公子・馮が長葛から逃げ帰り、朝門の外で謁見を求めているという報告が入ります。 荘公が公子・馮を招くと、公子・馮が入…

春秋時代204 東周景王(二十六) 衛襄公と後継者 前535年(3)

今回で東周景王十年が終わります。 [十二] 秋八月戊辰(二十六日)、衛襄公が在位九年で死にました。 晋のある大夫が士鞅(范献子)に言いました「衛は恭しく晋に仕えているのに、晋は礼を用いず、賊人をかばってその地を奪いました(衛の孫林父が戚邑を挙げ…

第六回 衛石碏が大義滅親し、鄭荘公が宋を討つ(前編)

第六回 衛石碏が大義滅親し、鄭荘公が命を称して宋を討つ 衛石碏大義滅親 鄭莊公假命伐宋 *『東周列国志』第六回の前編です。 石厚は鄭軍の一陣に勝っただけなのに全軍に撤兵を命じました。諸将にはその意図が分からないため、そろって州吁に会いに行くとこ…

春秋時代203 東周景王(二十五) 子産の晋聘問 前535年(2)

今回は東周景王十年夏の続きからです。 [六] 晋が杞国の国境を定めに来ました。一部は魯が領有していますが、魯昭公が黙って楚に朝見したため、怒って干渉し始めたようです。 季孫宿が成(孟氏の邑。元は杞国の地)を晋に贈ろうとしましたが、成の家宰を勤め…

第五回 周鄭が質を交換し、魯宋が衛を助けて兵を興す(後編)

*『東周列国志』第五回後編です。 ここで衛州吁の桓公弑殺事件を紹介します。 衛荘公の夫人(正妻)は斉荘公の東宮(太子)・得臣の妹で、荘姜とよばれていました。美貌の女性でしたが、子ができません。次妃は陳国の女性で、厲嬀といいます。厲嬀にも子が…

春秋時代202 東周景王(二十四) 章華台 前535年(1)

今回から東周景王十年です。三回に分けます。 景王十年 前535年 丙寅 [一] 春正月、斉が燕を討伐しました。 癸巳(十八日)、斉景公が虢(燕国境)に駐軍します。 燕人が斉に伝えました「敝邑は罪を知りました。命に逆らうことはありません。先君の敝器(粗…

東周列国志目録(上)

『東周列国志』の目録(上)です。 東周列国志 第一回 宣王が杜大夫を殺し、鬼になって訴える(前編) 第一回 宣王が杜大夫を殺し、鬼になって訴える(後篇) 第二回 褒人が美女を献じ、幽王が烽火で戯れる(前編) 第二回 褒人が美女を献じ、幽王が烽火で戯れる(中…

第五回 周鄭が質を交換し、魯宋が衛を助けて兵を興す(中編)

*『東周列国志』第五回中編です。 人質を交換してから鄭伯(荘公)は周に留まって輔政し、何事もない年月が続きました。 やがて、平王が在位五十一年で崩御します。 鄭伯は周公・黒肩と共に朝政を行い、世子・忽を鄭に帰らせ、周の太子・狐を周に迎え入れて…

第五回 周鄭が質を交換し、魯宋が衛を助けて兵を興す(前編)

第五回 虢公を寵して周鄭が質を交換し、衛の逆を助けて魯宋が兵を興す (寵虢公周鄭交質 助衛逆魯宋興兵) *『東周列国志』第五回の前編です。 鄭荘公は公孫滑(太叔の子)が兵を起こして迫っていると知り、群臣に意見を求めました。 公子・呂が言いました…

春秋時代201 東周景王(二十三) 子産の刑書 前536年

今回は東周景王九年です。 景王九年 前536年 乙丑 [一] 春正月、杞文公が在位十四年で死に、弟の・鬱(または「郁釐」)が継ぎました。平公といいます。 魯は杞国と対立していましたが、同盟国と同じように弔問しました。 [二] 秦が景公を埋葬しました。 魯…

第四回 秦文公が天を郊し、鄭荘公が母に会う(後編)

*『東周列国志』第四回後篇です。 鄭の太叔・段は母夫人・姜氏の密書を得てから、子の公孫滑と商議しました。公孫滑が衛に行って兵を借りることになり、衛に贈る重賂が準備されます。太叔・段自身は京城と二鄙(西と北の二境)の兵を総動員し、鄭伯(荘公)…

春秋時代200 東周景王(二十二) 晋楚の婚姻 前537年(2)

今回は東周景王八年春の続きからです。 [五] 晋の韓起(韓宣子)が晋女を楚に送り、叔向が介(副使)になりました。 鄭の子皮と游吉(子大叔)が索氏(地名)で晋の一行を労います。 游吉が叔向に言いました「楚王の汰侈(驕慢)は甚だしいので、注意した方…

春秋時代199 東周景王(二十一) 魯三桓 前537年(1)

今回から東周景王八年です。二回に分けます。 景王八年 前537年 甲子 [一] 魯の季孫宿が中軍を廃すことを考え、施氏(公子・施父の一族)の家で諸大夫と謀議し、臧氏(公子・臧の一族)の家で決定されました。臧氏は司寇を勤めており、当時は兵獄同制(軍と…

第四回 秦文公が天を郊し、鄭荘公が母に会う(中編)

*『東周列国志』第四回中編です。 鄭では、世子(太子)・掘突が正式に即位しました。これを武公といいます。 武公は周の乱に乗じて東虢と鄶の地を併合し、鄭都を鄶に遷して新鄭と命名しました。また、栄陽を京城とし、制邑に関を設けます。ここから鄭は強…

春秋時代198 東周景王(二十) 叔孫豹と竪牛 前538年(3)

今回で東周景王七年が終わります。 [八] 冬、呉が楚を討伐し、棘、櫟、麻に入りました。朱方の役の報復です。 楚の沈尹(沈の県令)・射(人名)が夏汭に奔って朝廷の命を待ちました。 葴尹(または「咸尹」「箴尹」)・宜咎(鍼宜咎。元は陳の大夫。東周霊…

第四回 秦文公が天を郊し、鄭荘公が母に会う(前編)

第四回 秦文公が天を郊して夢に応じ、鄭荘公が地を掘って母に会う (秦文公郊天応夢 鄭荘公掘地見母) *『東周列国志』第四回の前編です。 平王が東遷して車駕が洛陽に到着しました。市井は賑やかに繁栄しており、宮闕(宮門。宮殿)も壮麗で、かつての鎬京…

春秋時代197 東周景王(十九) 申の会 前538年(2)

今回は東周景王七年の続きです。 [三] 夏、諸侯が楚に入りましたが、魯、衛、曹、邾は会見に参加しませんでした。曹と邾は国難(国が安定していないこと)を理由にし、魯昭公は時祭(祖先の祭祀)を理由にし(これは『春秋左氏伝』の記述です。『史記・魯周…

第三回 犬戎が鎬京を騒がし、平王が洛邑に東遷する(後編)

*『東周列国志』第三回の後編です。 即位した平王が殿上に昇り、諸侯百官が朝賀しました。 平王が申伯に上殿を命じて言いました「朕は一度廃された者だが、こうして宗祧(宗廟)を継ぐことができた。全て舅氏の力である。」 平王は申伯の爵位を元の申侯(幽…

春秋時代196 東周景王(十八) 晋楚の外交 前538年(1)

今回から東周景王七年です。三回に分けます。 景王七年 前538年 癸亥 [一] 春正月、許悼公が楚に行きました。楚霊王は許悼公と鄭簡公(前年入朝しました)を楚に留め、再び江南で狩りを行いました。許悼公も狩りに参加します。 楚霊王が諸侯の帰順を得るため…

春秋時代195 東周景王(十七) 晋鄭の外交 前539年(2)

今回は東周景王六年の続きです。 [四] 夏四月、鄭簡公が晋に行きました。公孫段(伯石。豊氏)が相を勤めます。 公孫段の態度は恭敬で相手にへりくだり、礼に背くことがありませんでした。晋平公は公孫段を称賛し、策書(賜命の書)を与えて言いました「子豊…

第三回 犬戎が鎬京を騒がし、平王が洛邑に東遷する(中編)

*『東周列国志』第三回の中編です。 鄭の世子・掘突はこの時二十三歳で、八尺の長身に恵まれ、英毅非常(常人ではないこと)の人でした。父の戦死を知ると悲しみと憤りに溢れ、素袍縞帯(白い袍と白い帯。白は喪服の色です)を身に着けて、車三百乗を指揮し…

春秋時代194 東周景王(十六) 晏嬰と叔向 前539年(1)

今回から東周景王六年です。二回に分けます。 景王六年 前539年 壬戌 [一] 春正月、鄭の游吉(子大叔)が晋に入り、少姜(前年参照)の葬礼に参加しました。 晋の大夫・梁丙と張趯が游吉に会いました。 梁丙が問いました「子(あなた)がここに来たのは(卿…

春秋時代193 東周景王(十五) 鄭・子晳の死 前540年

今回は東周景王五年です。 景王五年 前540年 辛酉 [一] 春、晋平公が韓起(韓宣子。韓子)を魯に送って聘問しました。魯昭公が前年即位したばかりだからです。併せて晋の趙武が死に韓起が執政することが魯に伝えられました。 韓起が魯の大史(太史)を訪ねて…

第三回 犬戎が鎬京を騒がし、平王が洛邑に東遷する(前編)

第三回 犬戎主が大いに鎬京を騒がし、周平王が洛邑に東遷する (犬戎主大鬧鎬京 周平王東遷洛邑) *『東周列国志』第三回の前編です。 申侯は幽王に諫言の上書をしてから、鎬京(西周都)の情報を探りました。その結果、幽王が虢公を将に任命して近日中に申…