2015-10-01から1ヶ月間の記事一覧

第十一回 宋が賄賂を貪り、祭足が主を逐う(後編)

*『東周列国志』第十一回後編です。 斉僖公は紀に敗戦してから憤慨して病にかかりました。 冬、危篤に陥った僖公は世子・諸児を榻(床)の前に招いてこう言いました「紀は斉国代々の仇だ。紀を滅ぼす力がある者こそ孝子である。もうすぐ汝が位を継ぐことに…

春秋時代 叔向の故事

『資治通鑑外紀』が『国語・晋語八』から晋の故事を引用しています。 春秋時代217 東周景王(三十九) 叔向と叔魚 前528年 本編では書かなかったのでここで紹介します。 叔向が韓宣子(韓起)に会った時、韓宣子は自分の財産が乏しいことを憂いました。しかし…

第十一回 宋が賄賂を貪り、祭足が主を逐う(中編)

*『東周列国志』第十一回中編です。 宋荘公は魯侯が怒っていると聞いて歓好の関係が長く続かないと判断ました。また、斉侯には子突(鄭霊公)を援ける気がないと知ります。そこで、公子・游を斉に送って友好関係を結び、子突が徳に背いた事を訴えてこう伝え…

春秋時代217 東周景王(三十九) 叔向と叔魚 前528年

今回は東周景王十七年です。 景王十七年 前528年 癸酉 [一] 春、魯の季叔意如が晋から帰国しました。 [二] 魯の南蒯が費邑で挙兵した時(東周景王十五年・前530年参照)、費の官吏に協力を求めて盟を結ぼうとしました。しかし司徒(季氏の小司徒。一説では老…

第十一回 宋が賄賂を貪り、祭足が主を逐う(前編)

第十一回 宋荘公が賄賂を貪って交戦し、鄭祭足が壻を殺して主を逐う 宋荘公貪賂搆兵 鄭祭足殺壻逐主 *『東周列国志』第十一回前編です。 宋荘公は鄭に人を送って厲公の即位を祝賀し、約束した三城の明け渡しと白璧・黄金および穀物を要求しました。 鄭厲公…

春秋時代216 東周景王(三十八) 季孫意如の帰国 前529年(4)

今回は東周景王十六年秋の続きからです。 [七] 鄭の子産が帰国しました。途中で子皮の死を知ります。子産が哀哭して言いました「私も終わりだ。私を助けて善を行う者がいなくなってしまった。夫子(子皮)だけが私を理解していた。」 [八] 晋が大軍を擁して…

春秋時代215 東周景王(三十七) 平丘の会 前529年(3)

今回は東周景王十六年夏の続きからです。 [六] 晋の虒祁宮(東周景王十一年・前534年参照)が完成した時、諸侯が祝賀のために晋を朝見しました。しかし諸侯は晋の奢侈を嫌って二心を抱くようになりました。 その二年後、魯が莒から郠の地を奪ったため(東周…

第十回 楚熊通が王を称し、鄭祭足が庶子を立てる(後編)

*『東周列国志』第十回後編です。 話は鄭に戻ります。 鄭荘公は周王軍に勝ってから公子・元の功績を深く嘉し、大城の櫟邑に封じました。公子・元は附庸国に等しい存在になります。 諸大夫に賞が与えられましたが、祝聃の功績だけは記録されず、賞もありませ…

春秋時代214 東周景王(三十六) 楚平王即位 前529年(2)

今回は東周景王十六年の続きです。 [三] 当時、楚の人々は霊王の死を知らず、政情は不安定でした。 観従(子玉)が子干(公子・比。楚王)に言いました「棄疾を殺さなければ国を得ても禍を受けることになります。」 しかし子干は「余には忍びないことだ(余…

第十回 楚熊通が王を称し、鄭祭足が庶子を立てる(中編)

*『東周列国志』第十回中編です。 楚が主催する会盟の期日になり、巴、庸、濮、鄧、鄾、絞、羅、鄖、貳、軫、申、江の諸国が集まりました。しかし黄と隨の二国は参加しません。 楚子(熊通)が薳章を派遣して黄国を譴責すると、黄子は使者を送って謝罪しま…

春秋時代213 東周景王(三十五) 楚霊王の死 前529年(1)

今回から東周景王十六年です。四回に分けます。 景王十六年 前529年 壬申 [一] 春、魯の叔弓が費邑(前年参照)を包囲しました。しかし叔弓は撃退されます。 怒った季孫意如(平子)は、城外で費人を見つけたら捕虜にするよう命じました。 これに対して大夫…

第十回 楚熊通が王を称し、鄭祭足が庶子を立てる(前編)

第十回 楚熊通が僭号して王を称し、鄭祭足が脅されて庶子を立てる 楚熊通僭号称王 鄭祭足被脅立庶 *『東周列国志』第十回前編です。 陳桓公の庶子は名を躍といい、蔡姫から産まれました。蔡侯・封人(桓侯)の甥にあたります。 陳と蔡の兵が周と共に鄭を討…

春秋時代212 東周景王(三十四) 楚霊王 前530年(3)

今回で東周景王十五年が終わります。冬の続きからです。 [十一] 楚霊王が州来で狩りを行い、潁尾(潁水が淮水に入る場所)に駐軍しました。そこで大夫の蕩侯、潘子、司馬督、囂尹・午、陵尹・喜に命じて徐国を包囲させます。呉に圧力をかけるためです(徐の…

第九回 斉侯が文姜を魯に嫁がせ、祝聃が周王を射る(後編)

*『東周列国志』第九回後篇です。 話は周に移ります。 周桓王は鄭伯が王命を偽って宋を討伐したと知り、心中激怒しました。そこで虢公・林父だけに朝政を委ねて鄭伯を周の政治から外すことにしました。 これを聞いた鄭荘公は桓王を怨み、五年続けて朝見しま…

春秋時代211 東周景王(三十三) 費邑の叛乱 前530年(2)

今回は東周景王十五年冬十月の続きからです。 [十] 魯の季孫意如(季平子)が季氏を継いだ時、南蒯(南遺の子。季氏の費邑の宰)に礼を用いませんでした。 季氏に不満を抱いていた南蒯が公子・憖(または「整」。子仲)に言いました「私が季氏を追い出し、財…

春秋時代210 東周景王(三十二) 鄭簡公の葬送 前530年(1)

今回から東周景王十五年です。三回に分けます。 景王十五年 前530年 辛未 [一] 春、斉の高偃(高酀)が兵を率いて斉に出奔していた北燕伯・款(燕簡公。または「恵公」。東周景王六年・前539年参照)を陽(または「唐」。燕の地)に入れました。陽の民衆が迎…

第九回 斉侯が文姜を魯に嫁がせ、祝聃が周王を射る(前編)

第九回 斉侯が文姜を送って魯に嫁がせ、祝聃が周王を射て肩に中る 斉侯送文姜婚魯 祝聃射周王中肩 *『東周列国志』第九回前編です。 斉僖公には二人の娘がいました。どちらも絶色(絶世の美女)です。 長女は衛に嫁ぎました。衛宣姜といいます。宣姜の話は…

春秋時代209 東周景王(三十一) 楚霊王 前531年(2)

今回は東周景王十四年の続きです。 [九] 十二月、周の単成公が死にました。 [十] 楚霊王が陳、蔡および不羹に城を築きました。 棄疾(霊王の弟)が蔡公に任命されます。 これは『春秋左氏伝(昭公十一年)』の記述です。『史記・楚世家』は弃疾(棄疾)に蔡…

第八回 華督が新君を立て、鄭忽が婚姻を辞す(後編)

*『東周列国志』第八回の後篇です。 斉僖公が稷の会から帰る途中、報告を受けました「北戎の主が元帥・大良と小良を派遣し、戎兵一万で斉の国境を侵しています。既に祝阿が攻略され、歴下に至りました。守臣には抵抗する力がなく、立て続けに急を告げていま…

春秋時代208 東周景王(三十) 蔡滅亡 前531年(1)

今回から東周景王十四年です。二回に分けます。 景王十四年 前531年 庚午 [一] 春二月、魯の叔弓が宋に行きました。前年死んだ宋平公の葬送のためです。 宋平公が埋葬されました。 [二] 周景王が大夫・萇弘に聞きました「今の諸侯の中では、誰が吉で誰が凶だ…

第八回 華督が新君を立て、鄭忽が婚姻を辞す(前編)

第八回 新君を立てて華督が賄賂を贈り、戎兵を敗って鄭忽が婚姻を辞す (立新君華督行賂 敗戎兵鄭忽辞婚) *『東周列国志』第八回の前編です。 宋殤公・與夷は即位してから出兵を繰り返し、鄭攻撃だけでも既に三回を数えました。その理由は公子・馮が鄭にいた…

春秋時代 晋平公の死

晋平公が死んだところで、『資治通鑑外紀』が『韓詩外伝』と『説苑』から平公の故事を引用しています。 春秋時代207 東周景王(二十九) 陳氏の台頭 前532年 本編では省略したのでここで紹介します。 まずは『韓詩外伝(巻第六)』からです。 かつて晋平公が西…

第七回 公孫閼が考叔を射ち、公子翬が隱公を殺す(後編)

*『東周列国志』第七回後篇です。 帰国した鄭荘公は瑕叔盈に厚い賞を与えました。 潁考叔を忘れることができない荘公は矢を射た者を憎みましたが、誰が矢を射た犯人か分かりません。そこで従軍した兵に命じ、百人を一卒として豚一頭を出させ、二十五人を一…

春秋時代207 東周景王(二十九) 陳氏の台頭 前532年

今回は東周景王十三年です。 景王十三年 前532年 己巳 [一] 春正月、婺女(女宿。星座名)から一つの星が現れました。 鄭の裨竈が子産に言いました「七月戊子(初三日)に晋君が死にます。今年は歳星(木星)が顓頊の虚(玄枵。歳星の軌道の一部。女・虚・危…