商王朝に入る前に
商王朝の存在期間
中国最初の世襲王朝・夏が滅び、商の時代が始まります。
商の人々は何回も拠点を変え、遷都を繰り返してきました。しかし成湯を初代王として十九代目の盤庚が殷という場所に遷り、その後、滅亡するまで殷が都となりました。ここから商王朝は「殷」「商殷」ともよばれるようになりました。
『史記』の本紀も「商」ではなく『殷本紀』としています。
十九世紀末頃まで商王朝も夏王朝と同じく実在を疑われていました。しかし商王朝の都・殷(殷墟)から甲骨文字が発見されたことから、商王朝が実在していたことが明らかにされました。商王朝は中国で文字によって記録が残された最初の王朝でもあります(あくまでも「現時点では」です。夏王朝の文字が発見されたら覆ることになります)。
しかしその存在期間ははっきりしていません。
考古学の測年データと天文学での計算、および文献の記録を総合し、夏商の基本年代の骨格が作り出された。
『太平御覧』巻八十二に見える『竹書紀年』の一文「夏至桀十七世、有王与無王用歳四百七十一年」から、夏代が存在した年代は紀元前2070年から前1600年までとする。
盤庚(殷遷都後)、小辛、小乙は約紀元前1300年から前1251年。
武丁は紀元前1250年から前1192年。
祖庚、祖甲、廩辛、康丁は紀元前1191年から前1148年。
武乙は紀元前1147年から前1113年。
文丁は紀元前1112年から前1102年。
帝乙は紀元前1101年から前1076年。
帝辛(紂)は紀元前1075年から1046年である。
恐らく商王朝が統治した期間は紀元前17世紀頃から紀元前11世紀頃にかけてのことだと思いますが、明確な年を断定することはできないので、私の「通史」では、西暦の記載を省略します。
概要
商王朝は成湯から数えて三十代目の王・紂の時代に滅びました。
前述したとおり第十九代・盤庚が殷に遷都するまで、商王朝は遷都を繰り返していました。
殷遷都前の時代(成湯から第十八代・陽甲まで)には、第四代・太甲が伊尹に放逐されたという事件がありましたが、それ以外に大事件といえるような記述は残されていません。
伊尹による太甲放逐に関しては全く異なる説が併存します。本文の中で紹介します。
殷遷都以降、商王朝は一時国力が衰えましたが、第二十二代・武丁によって復興します。歴史上、「武丁の中興」とよばれています。
しかし武丁の死後、再び商王朝は衰退していきます。
この頃、勢力を拡大したのは西方の周でした。周は古公亶父、季歴、そしてその子・昌によって継承されました。昌は後に文王とよばれる人物です。
商王と十干
商王の名を見ると、丁、乙、丙、壬、癸、甲、己、戊、辛、庚という文字がよく使われています。これは十干(甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸)の一文字です。
十干が使われている理由は諸説あります。
① 帝王が生まれた日の干(「丁の日」等)を名とする説。
② 「天乙」等は本名ではなく廟号で、十干は帝王が死んだ日とする説。
③ 当時の商王朝では父子や兄弟間の王位継承が行われず、複数の氏族が交代に帝王を選出しており、十干は氏族名を表すという説。例えば「太丁」「沃丁」等は「丁」という文字で表される一つの氏族、「太甲」「小甲」等は「甲」という文字で表される一つの氏族。
次回から、商王朝の詳細を見ていきます。
まずは成湯までの系図です。
次は成王から盤庚兄弟までです。
中国地図出版社の『中国歴史地図集(第一冊)』を元に地図を作りました。
青字は現在の地名です。
*全て拡大できます。
以下、商王朝の目録です。
本編
年表
総目録