商王朝1 成湯以前

商王朝の始祖は契といいます。
の母は簡狄(または「簡翟」)といい、有娀氏の娘で、帝嚳の次妃です。
春分、玄鳥(神鳥)が現れる日、簡狄は帝に従って郊禖(郊外で行う子を求める祭祀)に参加しました。
この時、簡狄が一族の三人と玄邱(玄丘)水浴びをしました。すると玄鳥が五色の美しい卵をくわえて飛んで来ました。玄鳥は三人の近くに卵を落とします。簡狄は妹と争って取りあい、玉筐を被せ、先に卵を飲み込みました。やがて簡狄は契を妊娠しました。
契は簡狄の背から産まれたとも、簡狄の胸を割いて産んだともいわれています。
 
契は成長すると禹の治水を助けて功をあげました。そこで帝舜は契を司徒に任命しました。
契は司徒としても大きな功績を残したため、商に封じられて「子」という氏を賜りました。
契は帝堯から帝舜、大禹の時代に渡って重用され、百姓を安定させました。
 
『春秋左氏伝・襄公九年』には「唐陶氏(帝堯)の火正・閼伯が商丘に住み、大火(二十八星宿の心宿)を祀り、その運行を観察して一年の自然の変化や吉凶を予測した」という記述があります。閼伯とは契のことです。帝堯の時代に火を掌る「火正」を勤めたようです。
 
『春秋左氏伝・昭公元年』には閼伯(契)と弟の話が描かれています。それによると閼伯には実沈という弟がいましたが、仲が悪く、いつも武器を持って争っていました。父・帝嚳は成す術なく、閼伯を商丘に封じ、実沈を大夏に封じて二人を離したそうです。
その後、閼伯は辰(大火星)によって時節を観測し、その方法は商王朝に受け継がれました。辰が商王朝によって崇められる星になります。
実沈は参星によって時節を観測し、後に唐という国に継承されました。唐国は夏王朝商王朝に仕えます。西周時代、武王の子・叔虞が唐国に封じられ、叔虞の子が晋水の辺に遷って国号を晋に改めました。これが春秋時代に覇者を輩出した強国・晋の始まりです。晋は唐国の伝統を継いで参星を崇めました。
『春秋左氏伝・昭公元年』の記述契は兄弟の仲が悪かったため商に封じられた)を採ると、契が功績を挙げたため帝堯によって商に封じられたという説は成り立たなくなります。
 
 
契が死んで子の昭明が立ちました。
昭明は砥石に住んでいましたが商に遷りました。
 
昭明が死んで子の相土が立ちました。
相土は夏帝・相の時代にあたります。当時の商国は「乗馬(馬を使って重い物を輸送する技術)」を開始し、機動力を持つようになりました。
羿に国を奪われた夏帝・相が商丘(商国の都)に遷ったのはこの頃のことです。
 
 
相が死んで子の昌若が立ち、昌若が死んで子の曹圉(または「糧圉」)が立ち、 曹圉が死んで子の冥が立ちました。曹圉と冥の間に根国という君主を置くこともあります(『世本』)。その場合は根国は曹圉の子、冥は根国の子になります。但し、曹圉は糧圉と書かれることがあり、糧圉が誤って根国と書かれ、後世に伝えられる間に曹圉と根国が重複したという説もあります。
 
は夏帝・少康の時代に水官となり、治水を担当しました。資治通鑑外紀』によると冥は司空に任命されたようです。
杼の時代、治水の途中で水死しました。
 
 
冥が死んで子の振が立ちました。恐らくこの頃、商丘から殷に遷りました。
亥・垓・核・胲・冰・子亥・王亥等とも書かれます。夏帝・泄の時代、有易国に殺され、その子・微が有易国を滅ぼしたことは既に書きました。
 
 
振を継いだは上甲微、昏微ともいいます(昏微は別人とする説もあります)
商王朝に入る前に」で書きましたが上甲微の「甲」は十干の一つで、廟号とも氏族を表す文字ともいわれています。『帝王世紀』は「上甲は字であり、甲日に生まれたため」としています。十干が王の名称(字・廟号等を含む)に使われるのは上甲微から始まるようです。
振が有易国に殺されて商国は一時衰えましたが、微によって復興されました。この後、商国の人々は微の祭祀を続けるようになります。
 
夏帝・不降の時代に商国が皮氏(国名)を滅ぼしました。恐らく微の時代だと思いますが、微の即位から四十年以上経っているので、子孫の代になってのことかもしれません。
 
微が死んで子の報丁が立ち、報丁が死んで子の報乙が立ち、報乙が死んで子の報丙が立ち、報丙が死んで子の主壬が立ち、主壬が死んで子の主癸が立ちました。
恐らくこの頃、殷から商丘に還りました。
 
主癸が死んで子の天乙が立ちました。これが成湯(商侯・湯)です。契を第一代とすると、湯は第十四代目になります。夏王朝は暴君・桀の時代です。