第五回 周鄭が質を交換し、魯宋が衛を助けて兵を興す(中編)

*『東周列国志』第五回中編です。
 
人質を交換してから鄭伯(荘公)は周に留まって輔政し、何事もない年月が続きました。
やがて、平王が在位五十一年で崩御します。
鄭伯は周公・黒肩と共に朝政を行い、世子・忽を鄭に帰らせ、周の太子・狐を周に迎え入れて位を継がせることにしました。ところが太子・狐は父の死を強く悲しみ、哀痛が極限を越えたため、周に入ってすぐに死んでしまいました。平王を棺に入れる前のことです。
太子の子・林が即位しました。これを桓王といいます。
 
諸侯が平王の喪と新天子への謁見のために集まりました。虢公・忌父が真っ先に到着します。その挙動が全て礼に則っていたため、人々から愛されました。
桓王は父が鄭の人質の身で死んだことを怨み、また鄭伯が久しく朝政を専断していることにも疑いを抱きました。そこで秘かに周公・黒肩に言いました「鄭伯は先太子(父)を質として国においていたから、朕を軽視しているはずだ。これでは君臣の間が安定することはない。虢公は事を行う姿勢が恭敬なので、朕は政権を彼に移そうと思う。卿の意見はどうだ?」
周公・黒肩が答えました「鄭伯の為人は惨刻少恩(酷薄で情が薄いこと)で、忠順の臣ではありません。しかし我が周が洛邑に東遷した時、晋と鄭の功労が最も大きなものでした。改元(即位)の日に鄭から政権を奪って他者の手に移したら、鄭伯は憤怒して跋扈の挙に出るでしょう。よく考えなければなりません。」
しかし桓王はこう言いました「朕は坐して制を受けるつもりはない。朕の意は決している。」
 
翌日、桓王が早朝(朝会。朝廷)で鄭荘公に言いました「卿は先王の臣である。朕には卿を班僚(群臣)の中に屈させることができない(偉大な先王の臣を才能が劣る今の群臣の中に置いておくわけにはいかない)。卿は自ら安んじよ(身の置き場を決めよ)。」
荘公は「臣は久しく謝政(引退)するべき立場にいました。今、ここで拝辞いたします」と言うと、不満を表に出して去っていきました。
退出した荘公が知人に言いました「孺子(子供。桓王)は情義に背いた。補佐するには足りない!」
即日、荘公は車を駆けさせて国に帰りました。
 
鄭では世子・忽が諸官員を率いて郭(外城)で荘公を出迎えました。世子・忽が帰国の理由を聞くと、荘公は桓王が政権を奪ったことを詳しく話しました。人人は不平を抱きます。
大夫・高渠彌が言いました「我が主は二世に渡って周を補佐し、その功労は甚大です。しかも前太子が我が国の質となりましたが、礼を失したことはありません。今、我が主を避けて虢公を用いるとは、なんという不義でしょうか。師(軍)を起こして周城を破り、今王を廃して別に賢胤(賢能の子孫)を立てるべきではありませんか。そうすれば、天下の諸侯で鄭を恐れない者はなくなり、方伯(諸侯の長)の業が完成できます。」
潁考叔が反対して言いました「いけません。君臣の倫とは母子の関係と同じです。主公は母を仇とすることができなかったのに、なぜ君を仇とするのですか。暫く忍んで時が経つのを待ち、改めて周に入って朝覲すれば、周王は必ず後悔します。主公は一朝の不満によって先公の死節の義を損なってはなりません。」
大夫・祭足が言いました「二臣の言を兼用するべきです。臣が兵を率いて周の境に至り、歳凶(不作)を理由に温・洛の間で食糧を収穫しましょう。もし周王が使者を送って譴責したら、我々には返す言葉があります。もし譴責の言葉がないなら、それを見極めてから主公が入朝しても遅くありません。」
荘公は同意して祭足に一隊の軍馬を与えました。
 
祭足は温と洛の境に来るとこう伝えました「本国は歳凶のため食糧が乏しいので、温大夫(温邑を治める大夫)に粟千鍾を求めに来ました。」
しかし温大夫は王命を受けていないため拒否しました。すると祭足は「ちょうど二麦(大麦・小麦)が熟した時だ。全て刈り取って食糧にできる。我々が自分で刈り取るだけのことだ。請い求める必要はない」と言って士卒を麦田に派遣し、鐮刀を持って麦を全て刈り取らせました。車いっぱいに積まれた麦が運ばれます。祭足自ら精兵を率いて戻って来た士卒を迎え入れました。
温大夫は鄭兵の強盛を知っているため、敢えて戦おうとしません。
祭足は温邑の境界で三カ月以上にわたって兵を休ませてから、成周地方に向かいました。
 
秋七月中旬、田に早稲が実りました。祭仲は軍士を商人に化けさせて、車を周辺の村里に隠します。三更(夜十一時から一時)、鄭兵が一斉に禾(稲)の頭の刈り取りを始めました。五鼓(五更。三時から五時)には全て終了し、成周の效外から稻禾が姿を消します。
守将が異常を知り、兵を整えて城を出た時には、鄭兵は既に遠くまで去っていました。
 
温邑と成周から洛京に文書が送られ、鄭兵が麦と稲を奪ったことが桓王に伝えられました。桓王は激怒して兵を起こそうとします。
しかし周公・黒肩が諫めて言いました「鄭の祭足は麦・禾を盗みましたが、辺庭(辺境。国境)の小事に過ぎず、鄭伯が知っての事とは限りません。小忿(小さな怒り)によって懿親(美親。親族)を棄てるべきではありません。もし鄭伯が心中に不安を感じたら、必ず自ら謝罪して修好を求めるはずです。」
桓王は周公の意見に同意しましたが、国境の防備を固めて客兵(国境外の兵)が入境できないようにしました。麦と稲が刈り取られた事件に関しては不問とされます。
 
鄭荘公は周王が譴責しないため、逆に不安を抱いて入朝することにしました。しかし荘公が周に向かおうとした時、「斉国の使臣が来ました」という報告がありました。
荘公は使臣を接見しました。使臣が斉僖公の言葉を伝えます。それは鄭伯と石門で会見したいというものでした。荘公はちょうど斉と関係を築こうとしていたため、石門に赴きます。
二君は互いに歃血(犠牲の動物の血をすすること。会盟の儀式です)、訂盟(盟を結ぶこと)し、兄弟の契りを結んで有事の際には協力することを誓いました。
斉僖公が問いました「世子・忽は婚娶(結婚)していますか?」
鄭荘公が「まだです」と答えると、僖公はこう言いました「私には愛女(愛娘)がいます。年はまだ未笄(未成年)ですが、才慧に満ちているので、もしも受け入れる気があるようでしたら、待年の婦(いいなずけ)とさせていただけませんか。」
鄭荘公は同意して謝辞を述べました。
 
帰国した日、荘公がこの事を世子・忽に話すと、忽はこう言いました「妻とは平等なものです(妻者斉也)。だから配偶というのです。今、鄭は小さく斉は大きいので、大小が不倫(対比できない、秩序がない、平等ではないこと)になります。孩児(子供。息子。ここでは私)は仰攀(高くを望むこと。身分が高い者と結婚すること)できません。」
荘公が言いました「請婚は彼の意志だ。もし斉と甥舅の関係を結べば、何事においても頼りにできる。なぜそれを拒否するのだ。」
忽が言いました「丈夫の志は自立にあります。なぜ婚姻に頼るのですか。」
荘公は世子・忽に志があることを喜び、強制しませんでした。
後に斉の使者が鄭に来ましたが、鄭の世子には婚姻の気がないと知り、帰国して僖公に報告しました。僖公は嘆息して言いました「鄭の世子は謙讓の極みだ。わしの娘はまだ幼い。後日また議すことにしよう。」
 
後日、鄭荘公が群臣と周王室への入朝について商議していると、突然、衛桓公の訃報が届きました。荘公が使者に詳しく問い、始めて公子・州吁が主君を弑殺したという事件を知りました。荘公は足踏みし、嘆息して言いました「我が国はもうすぐ兵禍を受けることになるだろう。」
群臣がその理由を聞くと、荘公はこう言いました「州吁は元々兵を用いることを好んだ。今、逆を行ったからには、兵威を用いて志を満足させようとするだろう。鄭と衛は以前から嫌隙がある。兵を試すとしたら、まず鄭を狙うはずだ。今のうちに防備を整えた方がいい。」
 
 
 
*『東周列国志』第五回後編に続きます。