第三十一回 晋恵公が慶鄭を殺し、介子推が股を割く(後編)

*今回は『東周列国志』第三十一回の後編です。
 
公子・重耳は一心に斉を目指しました。しかし「高い所に登るには低い所から。遠い所に行くには近い所から(登高必自卑,行遠必自邇)」といいます。一行はまず衛国に行くことにしました。
重耳は翟境を去った時から貧窮に苦しんでいます。
数日後、衛の境に来ると関吏が来歴を問いました。趙衰が言いました「我が主は晋の公子・重耳だ。難を避けて国外におり、今、斉に向かおうと思っている。上国(貴国)に道を貸していただきたい。」
関吏は関を開いて招き入れ、急いで衛侯に報告しました。
上卿・寧速が都城に入れてもてなすように請うと、衛文公はこう言いました「寡人は楚丘に国を建てたが、晋人の半臂(腕)の力も借りたことがない。衛と晋は同姓だが、盟好を通じたこともない。しかも出亡の人(亡命者)ではないか。軽重に関係があるか?もし迎え入れたら宴を設けて財物を贈らなければならない。費やす物が多く得る物が少ないのだから、追い出すべきだ。」
衛文公は門を守る閽者に命じ、晋公子の入城を拒否させました。重耳一行は城の外に沿って進みます。
魏犨と顛頡が言いました「衛燬の無礼に対して、公子は城に臨んで譴責するべきです。」
趙衰が言いました「蛟龍でも勢いを失ったら蚯蚓(みみず)と同じです。公子は暫く我慢してください。いたずらに他者の無礼を責めることはありません。」
魏犨と顛頡が言いました「彼等が主人の礼を尽くさないのなら、村落を剽掠(略奪)して朝夕(食糧)の足しにしましょう。彼等も我々を責めることはできません。」
重耳が言いました「剽掠をする者は盗賊と同じだ。私は飢えを忍ぶことはできても、盗賊のまねはできない。」
 
その日、公子君臣は朝食も食べていませんでしたが、飢えを堪えて前に進みました。
正午を過ぎた頃、五鹿という場所に着きました。
数人の田夫が隴(畦道)の上で食事をしていたため、重耳は狐偃を送って食物を求めさせました。
田夫が問いました「客はどこから来た?」
狐偃が言いました「私達は晋の客です。車上の者が我々の主です。遠くから来ましたが食糧がありません。一餐を恵んでいただけませんか。」
田夫が笑って言いました「堂堂とした男子が自分を食べさせることもできず、我々に食物を求めるのか?我々村農は腹が一杯になってやっと鋤を持ち上げることができる。他人に与えるような余分な物はない。」
狐偃が言いました「食物が得られないとしても、食器の一つだけでもいただけませんか。」
田夫は戯れに土の塊を与えて言いました「この土で器が作れるぞ。」
魏犨が怒って「村夫!我々を侮辱するのか!」と怒鳴り、食器を奪って投げ割りました。重耳も激怒して鞭で田夫を打とうとします。しかし狐偃が急いで止めて言いました「飯を得るのは易しく、土を得るのは難しいものです。土地は国の基です。天は野人の手を借りて土地を公子に授けたのです。これは国を得る兆でしょう。何を怒るのですか?公子は車から降りて拝受するべきです。」
重耳は言われた通り、車から下りて土の塊を拝受しました。田夫達にはその意味が分からないため、笑いながら集まって「彼は本当の癡人(白痴。愚者)だ」と言いました。
 
再び十余里ほど進みました。従者が飢えのため動けなくなったため、樹の下で休みます。
重耳は飢えて眠くなり、狐毛の膝を枕にして横になりました。
狐毛が言いました「子餘(趙衰)がまだ壺餐(壺に入れた食糧)を持っており、後から来ます。もう少し待ちましょう。」
魏犨が言いました「壺餐があっても子餘一人の分も足りない。恐らくもうないだろう(子餘が食べてしまっただろう)。」
従者達が争って蕨薇(山菜)を採り、煮て食べましたが、重耳は飲みこむことができません(ひどい味だったためです)
すると突然、介子推が一盂(食器)の肉湯を持ってきました。重耳はその味に満足し、食べ終わると「この肉はどこで得たのだ?」と問いました。
介子推が言いました「臣の股肉です。『孝子は身を殺して親に仕え、忠臣は身を殺して君に仕える(孝子殺身以事其親,忠臣殺身以事其君)』といいます。公子の食が窮乏したので、臣は股を割いて公子の腹を満たしました。」
重耳が涙を流して言いました「亡人(亡命者。私)は子(汝)に大きな難を及ぼしてしまった。どうすれば報いることができるだろう。」
介子推が言いました「公子が早く晋国に帰り、臣等の股肱の義を成し遂げてくだされば、臣が報いを望むことはありません。」
 
長く待ってから趙衰がやっと到着しました。
皆がなぜ遅くなったのか問うと、趙衰が言いました「棘に刺されて足の脛を負傷したので、進めなくなりました。」
趙衰は竹笥(竹籠)の中から壺餐を取り出して重耳に献じます。
重耳が問いました「子餘は飢えていないのか?なぜ自分で食べなかった?」
趙衰が言いました「臣も飢えていますが、国君に隠れて自分だけ食べるわけにはいきません。」
狐毛が戯れて魏犨に言いました「この漿が子(汝)の手に落ちていたら、全て腹の中に入っていただろうな。」
魏犨は恥じて退席しました。
重耳が壺漿を趙衰に与えると、趙衰は水を汲んで調理し、全ての従者に分け与えました。それを見て重耳は感嘆しました。
 
重耳君臣は飢えを抱えて食物を探しながらやっと斉国に入りました。
桓公はかねてから重耳の賢名を知っていたため、公子が斉の関を入ったと知り、すぐに使者を郊外に派遣しました。重耳を公館に迎え入れ、宴を開いて款待します。
宴の席で桓公が問いました「公子は内眷(妻)を同行させていますか?」
重耳が言いました「亡人(私)は自分の一身も守ることができません。どうして家属を連れて来ることができるでしょう。」
桓公が言いました「寡人は一人で一宵(一晩)を過ごすことになったら一年を過ごすように長く感じる。公子は身を屈して旅をしているが、巾櫛(顔を洗ったり髪を梳かす道具)を持って侍る者もいない。これは寡人の憂いだ。」
桓公は宗女の中から美しい者を選んで重耳に嫁がせました。また、馬二十乗を与えたため、従行の者達も車馬を使えるようになりました。
桓公は更に廩人(倉庫の管理者)に命じて粟穀物を贈らせ、庖人(料理人)に命じて肉を贈らせ、日々の食事に困らないようにしました。
喜んだ重耳が感嘆して言いました「斉侯は賢を愛して士を礼遇していると聞いたが本当だった。伯(覇者)になったのも当然だ。」
周襄王八年、斉桓公四十二年のことです。
 
 
桓公は数年前から鮑叔牙に政治を委ね、管仲の遺言を守って豎刁、雍巫、開方の三人を追放しました。しかしそれからというもの、食事は美味しいと思えず、夜はよく眠れず、口からは冗談が出ず、顔には笑容がなくなりました。
長衛姫が言いました「国君が豎刁等の諸人を追放してからも、国が以前より治まったとは思えません。しかも容顔は日々憔悴しています。これは左右の使令(侍者)が国君の心を察することができないからです。なぜ彼等を呼び戻さないのですか?」
桓公が言いました「寡人もあの三人のことを想っている。しかし既に追放したのにまた呼び戻したら、鮑叔牙の意に逆らうことになる。」
長衛姫が言いました「鮑叔牙の左右には使令がいないというのですか(鮑叔牙自身にも気に入った侍者がいます)?国君は老いました。自ら苦を求める必要はありません。料理のためだけにまず易牙を呼び戻せば、開方と豎刁も問題なく招くことができるでしょう。」
桓公は納得して雍巫易牙を呼び戻し、五味を調和させました(料理を作らせました)
鮑叔牙が諫めて言いました「主公は仲父の遺言をお忘れですか?なぜ呼び戻したのですか?」
しかし桓公は「あの三人は寡人にとって益があり、国に対しても無害だ。仲父の言は大げさすぎだ」と言って諫言を無視しました。やがて開方と豎刁も招かれ、三人とも復職して桓公の左右に侍ります。
鮑叔牙は怒りと憂鬱のため病になり、死んでしまいました。
斉はここから大きく乱れていきます。
 
これからの事がどうなるか、続きは次回です。