第八十三回 葉公が楚を定め、越王が夫差を滅ぼす(四)

*今回は『東周列国志』第八十三回その四です。
 
数日後、句践が越に兵を還しました。西施を同行させています。
しかし越夫人が秘かに人を送って西施を誘い出し、大石を背負わせて江中に沈めました。越夫人が言いました「これは亡国の物です。留めておいて何に使おうというのですか。」
後人はこの事を知らないため、范蠡が西施を舟に乗せて五湖に入ったと噂しました。そこから「西施を連れて行ったのには意味がある。もし留めたら国を傾けて君王を誤らせることになると心配したからだ」という説が生まれました。しかし范蠡は扁舟に乗って一人で去りました。妻子も棄てて行ったのに、呉宮の寵妃を隠して舟に乗せたというのは考えられないことです。また、范蠡は越王が西施の美色に迷うことを恐れ、計を設けて江に沈めたともいわれていますが、これも誤りです。
 
越王は范蠡の功を念じでその妻子を招き、百里の地に封じました。また、良工に命じて金で范蠡の像を鋳造させ、越王の座席の傍に置きました。その像は生きているようでした。
 
范蠡は五湖から海に入りました。その後、人を送って妻子を呼び集め、斉に入ります。鴟夷子皮と改名して斉に仕え、上卿になりました。
しかしすぐに官を棄てて陶山に隠居し、五牝(五畜の牝)を養いました。やがて家畜が繁殖して利を生み出し、千金を擁すようになります。范蠡は自ら陶朱公と号しました。
後人が残した『致富奇書』は陶朱公の遺術を述べたものです。
後世の呉人は范蠡を呉江で祀り、晋の張翰、唐の陸亀蒙と並べて「三高祠」と称しました。
 
句践は呉を滅ぼしたのに論功行賞を行わず、尺寸の土地も分け与えませんでした。旧臣との関係が疎遠になり、互いに会うことも稀になります。
その結果、計倪は狂人を装って辞職し、曳庸等の多くの臣も告老(引退)しました。
文種も心中で范蠡の言を想い、病と称して入朝しなくなります。
すると越王の近臣で文種を嫌っている者が越王に讒言して言いました「種は自分の功が大きいのに賞が薄いと思っており、心中に怨望を抱いています。だから入朝しないのです。」
越王は文種の才能を理解しています。しかし呉を滅ぼしてからはその才能を用いる場所がありません。もしその能力を使って乱を起こしたら誰にも制御できないので、早い時期に除きたいと思っていましたが、誅殺する名分もありません。
当時、魯哀公が季孫氏、孟孫氏、仲孫氏の三家と対立しており、三家を除くために越に兵を借りて魯を討伐しようとしました。哀公は朝見と称して越国に入ります。しかし句践は文種を危惧したため、兵を出しませんでした。魯哀公は越で死にます。
 
ある日、越王が突然、文種を見舞いに行きました。文種は病人の姿で無理に王を迎え入れます。
すると王は剣を解いて座り、こう言いました「寡人は『志士はその身が死ぬことを憂いず、その道が行われないことを憂いる(志士不憂其身之死,而憂其道之不行)』と聞いている。子には七術があり(第八十回)、寡人はそのうちの三術を用いて呉を破滅させた(どの三術を指すのかはわかりません)。まだ四術があるが、どこで用いるつもりだ?」
文種が答えました「臣にはそれをどう用いればいいのかわかりません。」
越王が言いました「四術を用いてわしのために地下で呉の前人を処理してほしいが、如何だ?」
越王は言い終わるとすぐ輿に乗って去りました。
佩剣が席に残されています。
文種が手に取って見ると剣匣(箱)に「属鏤」の二字が書かれていました。夫差が伍子胥に与えて自刎させた剣です。
文種は天を仰いで嘆息し、こう言いました「古人は『大徳は報いられない(「大徳不報」。恩徳が大きすぎたら報いられることはない、報いようがないという意味)』と言った。わしは范少伯の言を聞かなかったから、越王に戮されることになってしまった。わしが愚かだった。」
しかしすぐに笑い出してこう言いました「百世の後、論者は必ずわしを子胥に配すだろう(文種と伍子胥を対等と見なすだろう)。恨みはない。」
文種は剣に伏して死にました。
 
文種の死を知った越王は大喜びし、臥龍山に埋葬しました。後人はこの山を種山と呼ぶようになります。
埋葬して一年後、海水が隆起して山脅(山峡)を穿ちました。たちまち冢(墓)が崩壊します。すると、ある人が伍子胥と文種の姿を見ました。二人は前後して浪と共に去って行きました。
(明清時代)、銭塘江では海潮が何層にも重なっていますが、前は伍子胥、後ろは文種といわれています。
 
句践は在位二十七年で死にました。周元王七年の事です。その後、子孫も代々霸を称えました。
 
 
話は晋に移ります。
晋国の六卿は范氏と中行氏が滅んでから智氏、趙氏、魏氏、韓氏の四卿になっていました。
荀氏から生まれた智氏は、滅ぼされた范氏(恐らく中行氏の誤り。范氏は士氏から生まれました)も荀氏から生まれていたため、その族を完全に分けるために、智罃の旧習に従って智氏に改めました(これが四卿の智氏です)。当時は智瑤が晋の政治を行っており、智伯と号しました。
四家は、斉の田氏が国君を弑殺して国を専らにしているのに討伐する諸侯がいないのを見て、自らも勝手に決議して好きな土地を封邑にしました。晋出公の邑は四卿よりも少なくなりましたが、どうすることもできません。
 
趙簡子は名を鞅といいます。数人の子がいました。長子の名は伯魯で、最も幼い者の名は無恤です。無恤は賎婢から生まれました。
人相を看るのが得意な者がいました。姓は姑布、名は子卿といいます。子卿が晋に来た時、趙鞅が諸子を集めて人相を看させました。しかし子卿は「将軍となる者はいません」と言います。
趙鞅が嘆息して言いました「趙氏は滅んでしまうのか。」
すると子卿が言いました「ここに来る時、道中で一人の少年に遭いました。従っていたのは皆、あなたの府中の人でしたが、あの少年はあなたの子ではありませんか?」
趙鞅が言いました「それは私の幼子無恤です。賎しい出身なので語る必要はないでしょう。」
子卿が言いました「天が廃す者なら貴くても賎しくなり、天が興す者なら賎しくても貴くなります。あの子の骨相は諸公子と異なるようですが、まだ詳しく視ていません。招いてみてください。」
趙鞅は人を送って無恤を招きました。遠くから無恤を眺め見た子卿は、とっさに立ち上がって「これこそ真に将軍です」と言いました。
趙鞅は笑うだけで何も言いません。
 
後日、趙鞅が諸子を集めて学問を試しました。無恤は問われたことに必ず答え、その内容も理路整然としています。
趙鞅は初めてその賢才を知り、伯魯を廃して無恤を適子(嫡子)に立てました。
 
ある日、鄭が晋に入朝しないため、智伯が怒って鄭を討伐しました。趙鞅にも兵を出すように求めます。しかし趙鞅は偶然病を患ったため、代わりに無恤を将として派遣しました。
智伯が酒を注いで無恤に与えましたが、無恤は酒が飲めません。酔った智伯は怒りだし、酒斝を無恤の顔に投げつけました。顔を怪我して血が流れます。
趙氏の将士が皆憤激し、智伯を攻撃しようとしましたが、無恤はこう言いました「これは小恥だ。今は忍ぼう。」
智伯は兵を還して晋に戻ってから、逆に無恤の過失を訴えました。趙鞅に無恤を廃させようとします。しかし趙鞅はこれに従いませんでした。ここから無恤と智伯の間に対立が生まれます。
 
やがて趙鞅の病いが重くなりました。趙鞅が無恤に言いました「後日、晋国に難があったら、晋陽だけが頼りになる。汝はよく覚えておけ。」
言い終わると息が絶えます。無恤が代わって立ちました。これを趙襄子といいます。
周貞定王十一年の事です。
 
この頃、晋出公は四卿の専横を憎み、四卿を討伐するために、秘かに使者を斉魯に送って兵を請いました。しかし斉の田氏と魯の三家は逆に晋出公の謀を智伯に伝えました。
激怒した智伯は韓康子虎、魏桓子駒、趙襄子無恤と共に四家の衆を率いて出公を攻撃しました。
出公は斉に出奔します。
智伯は昭公の曾孫驕を晋君に立てました。これを哀公といいます。
この後、晋の大権は全て智伯・瑤に帰します。智瑤は晋に代わって国君になるという志を抱き始め、家臣を集めて商議しました。
智伯の成敗はどうなるのか、続きは次回です。

第八十四回 智伯が晋陽に水を灌ぎ、豫讓が襄子に報いる(一)