第九十二回 秦武王が踁を絶ち、楚懐王が秦に陥る(中編)

*今回は『東周列国志』第九十二回中編です。
 
秦武王は背が高く力も強かったため、勇士と角力(格闘技。力較べ)をして遊ぶのが好きでした。勇士の烏獲と任鄙は先王の時代に秦将となり、武王にも寵任されて禄秩が増やされました。
斉人の孟賁、字は説という者も大力で名が知られており、水の中を進めば蛟龍から逃げることもなく、陸の上を進めば虎狼を避けることもなく、怒って気を吐いたら声が響いて天を震わせました。
孟賁はかつて野外で二頭の牛が戦っているのを見つけ、間に入って素手で両側に分けました。一頭の牛は地に伏しましたが、もう一頭の牛はまだぶつかろうとします。
怒った孟賁は左手で牛の頭を抑え、右手で角をつかんで抜き取りました。角を奪われた牛はその場で死んでしまいます。
人々は孟賁の勇猛を畏れたため、敢えて逆らう者はいませんでした。
 
孟賁は秦王が天下の勇力の士を求めていると聞き、黄河を西に渡ろうとしました。岸の上ではたくさんの人が船を待っています。通常は順に船に乗ることになっていますが、孟賁は最後に来たのに無理矢理先に船に乗ろうとしました。船人は孟賁の不遜な態度に怒り、楫で頭を敲いて「汝はそのように用強(強引、横暴、道理をわきまえない)だが、孟説ではないか?」と言いました。
すると孟賁は目を見開いて船人をにらみました。怒りで髪が逆立ち、目じりが裂けます(髪植目裂)。大声を挙げて一喝すると、突然、波濤が起きました。舟中の人々は驚き慌てて転倒し、ことごとく河に落ちてしまいます。
孟賁が足を踏みしめて橈(檜)を振ると、船は数丈も進み、瞬く間に向こう岸に到着しました。
 
孟賁が咸陽に入って武王に謁見しました。武王は孟賁を試して勇猛を知り、大官を与えます。孟賁は烏獲、任鄙と共に寵任されるようになりました。周赧王六年、秦武王二年の事です。
 
秦は六国全てに相国の名があるため、同列でいることを嫌って丞相の職を設けました。左右各一人です。甘茂が左丞相に、樗里疾が右丞相になりました。魏章は相位を与えられなかったことに不満で梁国に奔りました。
ある日、武王が張儀の言を思い出し、樗里疾と甘茂にこう言いました「寡人は西戎に生まれたので中原の盛を見たことがない。もし三川を通して鞏洛の間で一遊できたら、たとえ死んでも恨みはない。二卿のうちで寡人のために韓を討伐できる者はいないか?」
樗里疾が言いました「王が韓を討伐するには、宜陽を取って三川の道を通さなければなりません。しかし宜陽への路は険阻なうえ遠いので、師を労して財を費やしてしまいます。梁(魏)趙の援軍もすぐに到着するでしょう。臣が見るに、討伐するべきではありません。」
武王が甘茂にも意見を求めると、甘茂はこう言いました「王のために臣を梁に使いさせてください。共に韓を攻めることを約束してきます。」
喜んだ武王は甘茂を派遣して梁王を説得させました。梁王は秦を助けて兵を出すことに同意します。
 
甘茂は樗里疾と意見が合わなかったため(原文「相左」。一致しないという意味)、樗里疾の妨害を恐れました。そこでまず副使向寿を帰らせて秦王にこう報告させました「魏は命を聴きました。しかしやはり韓を討伐するべきではありません。」
秦武王はこの言を不思議に思い、自ら甘茂を迎えに行きました。息壤で甘茂に会います。
武王が問いました「相国は寡人のために魏を訪ね、共に韓を攻める約束をしてくると言った。今、魏人が既に命を聴いたのに、相国が『韓を討伐しない方がいい』と言うのはなぜだ?」
甘茂が言いました「千里の険を越えて勁韓(強国韓)の大邑を攻めるのは、歳月では計れないことです(どれくらいの時を要するか判断できません)。昔、曾参が費に住んでいた時、魯人で曾参と同姓同名の者が人を殺しました。するとある人が走って曾参の母に『曾参が人を殺した』と伝えました。機織りをしていた母は『我が子は人を殺しません』と応えて織物を続けます。暫くしてまた一人が走って来て『曾参が人を殺した』と伝えました。母は梭(機織りの道具)を止めて少し考えましたが、『我が子がそのような事をするはずがありません』と言って再び機織りを始めました。また暫くして、三人目の人が走って来て『人を殺したのはやはり曾参だ』と伝えました。母はとうとう杼(機織りの道具)を投げ捨てて機械から下り、壁を越えて逃走しました。曾参には賢才があり、母は子を深く信じていましたが、それでも三人が『人を殺した』と言ったら、慈母にも疑いが生じたのです。今、臣の賢才は曾参に及ばず、王の臣に対する信用も、曾参の母には及ばないはずです。しかも『人を殺した』と言って臣を謗る者は、恐らく三人ではすまないでしょう。臣は大王が杼を投げ捨てることを恐れるのです。」
武王が言いました「寡人には他人の言を聴くつもりはない。子と盟を結ぼう。」
こうして君臣が歃血して誓いを結び、誓書を息壤に隠しました。
秦王は兵五万を動員し、甘茂を大将に、向寿を副将に任命します。
 
秦軍が宜陽に至って城を囲みましたが、宜陽の守臣が固く守ったため五カ月経っても攻略できません。
果たして、右相樗里疾が武王に言いました「秦師は疲労しています(老矣)。撤兵させなければ恐らく異変が起きます。」
武王は甘茂に班師(撤兵)を命じました。
すると甘茂は一函(箱)の書信を送って武王に謝しました。武王が函を開くと書信には「息壤」の二字だけが書かれています。
武王は意を悟ってこう言いました「甘茂には事前の言がある。これは寡人の過ちだ。」
武王は更に五万の兵を動員し、烏獲を派遣して甘茂を助けさせました。
 
韓王も大将公叔嬰に宜陽を助けさせます。両軍は城下で大戦しました。
烏獲が一対の鉄戟を持って単独で韓軍に突入しました。戟の重さは百八十斤もあります。韓の軍士は皆倒され(原文「披靡」。風で草が倒されること)、誰も対抗できません。
甘茂と向寿がそれぞれ一軍を率いて並進しました。勢いに乗った秦軍を前に韓軍は大敗し、七万余人が斬首されます。
烏獲が一躍して城壁に登ろうとしましたが、手を城堞(城壁の上の小さな壁)にかけた時、堞が崩れ落ちました。烏獲は石の上に転落して肋骨を折り、死んでしまいました。
 
秦軍は勝ちに乗じて宜陽を攻略しました。
恐れた韓王は相国公仲侈に宝器を持たせて秦軍に派遣し、講和を求めます。
武王は喜んで同意しました。甘茂に班師を命じ、向寿を留めて宜陽地方を平定させます。
また、右丞相樗里疾を先行させて三川の路を開かせ、武王自ら任鄙、孟賁等の勇士を率いて出発しました。武王一行は雒陽に直進します。
周赧王は使者を送って郊外で迎え入れ、自ら賓主の礼(賓客をもてなす礼)を用いて武王を待ちました。しかし秦武王は周王に会うのを遠慮し、会見を辞退しました。
 
武王は周太廟の傍室に九鼎があると聞いていたため、さっそく見に行きました。九つの宝鼎は一の字に並べられ、整然としています。
九鼎というのは禹王が九州の貢金を集めて鋳造した物で、それぞれに各州の山川や人物および貢賦田土の数が刻まれています。鼎の足にも耳にも龍の模様があるので、「九龍神鼎」とも呼ばれています。夏から商に伝えられて鎮国の重器となり、周武王が商に勝ってから雒邑に遷されました。
雒邑に運ぶ時は卒徒(兵卒人夫)が牽引し、舟や車に乗せました。まるで九座の小さな鉄山が移動しているようで、どれだけの重さがあるのかはわかりません。
武王は鼎の周りを一周して讃嘆が止まりませんでした。
鼎の腹にはそれぞれ荊、梁、雍、豫、徐、揚、青、兗、冀という九つの字が一つずつ刻まれています。武王は「雍」の字が書かれた鼎を指さし、嘆息して言いました「これは雍州だ。秦の鼎だ。寡人が咸陽に持って帰るべきだ。」
武王が鼎を守る官吏に問いました「今まで、この鼎を持ち上げることができた者はいるか?」
官吏が叩首して言いました「鼎ができてから今まで、運べた者はいません。人々が言い伝えるには、それぞれの鼎には千鈞の重さがあるとのことです。誰が持ち上げられるでしょう。」
武王が任鄙と孟賁に問いました「二卿は多力だ。この鼎を持ち上げられるか?」
任鄙は武王が有力に頼って負けず嫌いだと知っていたため、「臣の力は百鈞を持ち上げられるだけです。この鼎は十倍の重さがあるので、臣にはできません」と答えました。
しかし孟賁が腕を振って進み出てこう言いました「臣に試させてください。もし持ち上げられなくても罪としないでください(若不能挙,休得見罪)。」
武王は左右の者に青絲(青い紐。馬の手綱)を持ってこさせて巨索(太い綱)を作り、鼎の耳に繋げて輪にしました(原文「寛寛的繋于鼎耳之上」。誤訳かもしれません)
孟賁は腰帯をきつく縛り、両腕の袖をめくり上げ、鉄のような両腕を輪に通し(原文「用両枝鉄臂套入絲絡」。誤訳かもしれません)、強い口調で「上がれ(起)!」と一喝しました。鼎は半尺ほど浮いて再び地に着きます。大力を出し過ぎたため眼球が飛び出して目じりから血が流れました。
武王が笑って言いました「卿は大いに力を費やした。卿でもこの鼎を持ち上げることができたのだから、寡人が及ばないはずがない。」
任鄙が諫めて言いました「大王は万乗の躯(体)です。軽率に試してはなりません。」
武王は諫言を聞かず、すぐに錦袍と玉帯を外し、腰を強く縛りました。更に大帯で袖を縛り付けます。
任鄙が袖を引いて固く諫めましたが、武王はこう言いました「汝は自分ができないから寡人を嫉妬しているのか?」
任鄙はついにあきらめました。
武王は大きく前に一歩踏み出し、両腕を輪に通しました(原文「将双臂套入絲絡」。誤訳かもしれません)
武王はこう考えました「孟賁は持ち上げただけだが、わしは持ち上げて数歩動かなければ、勝ちを誇ることはできない。」
武王は生平の神力を出し尽くし、息を止めてから「上がれ(起)!」と一喝しました。鼎は地面から半尺浮き上がります。武王が歩いて向きを換えようとした時、測らずも力が尽きて手を外してしまいました。鼎が地面に落ち、ちょうど武王の右足を圧して脛骨を砕きます。武王は「痛い(痛哉)!」と叫ぶと気を失ってしまいました。
左右の者が慌てて武王を抱きかかえて公館に帰りました。しかし武王は血を流し続けて床席を濡らし、我慢できないほどの痛みに苦しんだ末、夜半に至って死にました。
武王はかつて「鞏雒で遊ぶことができたら、たとえ死んでも恨みはない」と言いましたが、今日果たして雒陽で死ぬことになりました。前言は讖(予言)だったのでしょうか。
 
異変を聞いた周赧王は驚いてすぐに美棺を準備し、自ら視殮(死者を棺に入れる儀式に立ち会うこと)に行きました。哭弔して礼を尽くします。
樗里疾が喪(霊柩)を奉じて帰還しました。
武王には子がいなかったため、異母弟の稷が迎えられて即位しました。これを昭襄王といいます。
樗里疾は鼎を持ち上げた罪で孟賁を磔刑(分屍の刑)に処し、その家族も滅ぼしました。任鄙は諫言したため漢中太守に任命されます。
樗里疾は更に朝廷でこう宣言しました「三川を通したのは甘茂の謀だ!」
甘茂は樗里疾に害されることを恐れて魏国に出奔し、後に魏で死にました。
 
 
 
*『東周列国志』第九十二回後編に続きます。