第百五回 茅焦が秦王を諫め、李牧が桓齮を退ける(後篇)

*今回は『東周列国志』第百五回後編です。
 
趙王が群臣を集めて共議すると、群臣はこう言いました「昔年、廉頗だけが秦兵を防ぐことができました。龐氏も楽氏も良将と称されていましたが、龐煖は既に死に、楽氏にも人がいません。廉頗だけがまだ魏国にいます。なぜ彼を召さないのですか?」
ところが、郭開が廉頗との間に仇があったため(第百二回参照)、再び用いられることを恐れて趙王にこう讒言しました「廉将軍は年が七旬(七十)に近く、筋力が衰えています。しかも以前、楽乗との間に対立が生じました。もし招いても用いなかったら、ますます怨望を増やすことになります。大王はまず人を送って様子を窺うべきです。まだ衰えていないようなら、それを見届けてから招いても遅くはありません。」
趙王はこの言に惑わされ、廉頗の様子を探るために、内侍唐玖に●猊(●は「犭」に「唐」)という名甲一揃いと良馬四頭を渡して慰労させました。
出発前に郭開が秘かに唐玖の家を訪ね、餞別の宴を開きました。黄金二十鎰を渡して寿を祝います。唐玖はあまりにも手厚い待遇を不可解に思い、謙遜して「功もないのに受け取るわけにはいきません」と言いました。
すると郭開はこう言いました「手数をかけるが、ある事を手伝ってほしい。しかしこの金を受け取ってくれなければ、口を開けない。」
唐玖は金を受け取って問いました「郭大夫にはどのような見諭(教え。指示)があるのでしょうか?」
郭開が言いました「廉将軍と某(私)はかねてから和睦できずにいる。そこで、今回、足下が確認して、もし彼の筋力が衰頽しているのなら言うことはないが、万一まだ壮健だったら、足下に数語を添えてもらいたい。老邁のため任に堪えることができないと報告すれば、趙王が彼を再び招くはずはなく、足下の私に対する厚意となる。」
唐玖は指示を受け入れて魏国に行き、廉頗に会って趙王の命を伝えました。
廉頗が問いました「秦兵が趙を侵したのか?」
唐玖が逆に問いました「将軍はなぜそれが分かったのですか?」
廉頗が言いました「某(私)は魏に数年いるが、趙王は一字を送って来ることもなかった。今、突然名甲と良馬を下賜したのは、某(私)を使う場所があるからに違いない。だから分かったのだ。」
唐玖が問いました「将軍は趙王を恨まないのですか?」
廉頗が言いました「某は日夜とも趙人を指揮したいと思っている。どうして趙王を恨むことがあるか。」
廉頗は唐玖を留めて食事を共にし、故意に元気がある姿を見せました(施逞精神)。一飯で一斗の米を全て食べ、十余斤の肉を呑み込み、虎か狼が獲物を食べるように(狼餐虎嚥)勢いよく御馳走を平らげます。
腹がいっぱいになると、趙王から下賜された甲冑を着て馬に跳び乗り、飛ぶように駆けまわりました。更に馬上で長戟を数回舞わせ、馬から跳び下ります。
廉頗が戻って唐玖に言いました「某(私)は少年時(若い頃)と較べて如何だ?趙王によく伝えてほしい。今もなお、余年を使って報效(恩に報いるために尽力すること)したいと思っている。」
唐玖は廉頗の精神が強壮な様子を確かに見届けました。しかし郭開から賄賂を受け取っているのでどうしようもありません。邯鄲に帰ってから趙王にこう報告しました「廉将軍は確かに年老いましたが、まだ肉も飯をよく食べます。しかし脾(内臓。胃の下)に疾(病)があり、臣と同席している時、わずかな間に三回も遺矢しました(厠に行きました)。」
趙王が嘆息して言いました「戦闘になったら遺矢を我慢できるか。廉頗はやはり老いた。」
趙王は廉頗を呼び戻さず、兵を増員して扈輒を援けさせました。趙悼襄王九年、秦王政十一年の事です。
後に廉頗が魏にいることを楚王が知り、人を送って招きました。廉頗は楚に走って将になりましたが、楚兵が趙兵に及ばなかったため、鬱鬱として志を得ることなく死にました。
 
この頃、王敖はまだ趙におり、郭開にこう言いました「子(あなた)は趙が亡ぶことを憂いないのですか?なぜ王に廉頗を招くように勧めないのですか?」
郭開が言いました「趙の存亡は一国の事ですが、廉頗は私一人の仇です。どうして彼を趙国に呼び戻せるのでしょう。」
王敖は郭開に国を想う心がないと知り、再び探って問いました「万一趙が亡んだら、あなたはどこに行くつもりですか?」
郭開が言いました「私は斉と楚の間で一国を選んで身を託すつもりです。」
王敖が言いました「秦には天下を併呑する勢いがあり、斉楚も趙魏と同じようなものです。あなたのために計るなら、秦に身を託すべきです。秦王は恢廓(寛大)大度で、自分を屈して賢人の下になることができ、どんな人でも許容しています。」
郭開が問いました「子(あなた)は魏人です。なぜ秦王を深く理解しているのですか?」
王敖が言いました「某の師尉繚子は秦の太尉です。某も秦に仕えて大夫になりました。秦王はあなたが趙の政権を得られると知り、某に命じて子と交歓させました。某が奉じた黄金は、実は秦王が贈ったものです。もし趙が亡んだら、あなたは秦に来るべきです。きっと上卿の位をあなたに授けるでしょう。趙の美田美宅はあなたの欲するままとなります。」
郭開が言いました「足下が私のために推挙してくれるのなら、あなたの見諭(教え)を全て受け入れます。」
王敖は再び黄金七千斤を郭開に与えて言いました「秦王は万金をあなたに託し、趙国の将相と結びたいと思っています。今、全てあなたに委ねるので、後の事はあなたに頼みます。」
郭開は大喜びして言いました「開(私)は秦王の厚贈を受けることができました。もし心を尽くして報いようとしなかったら、人の類ではありません。」
王敖は郭開に別れを告げて秦に帰り、残った金四万斤を返して報告しました「臣は一万金で郭開を終わらせ、一郭開で趙を終わらせました。」
秦王は趙が廉頗を用いないと知って桓齮に兵を進めさせました。
趙悼襄王は憂い懼れて病にかかり、死んでしまいました。
 
悼襄王の適子(嫡子)は名を嘉といいました。
趙に歌舞を得意とする女娼がおり、悼襄王に気に入られて宮中に入りました。やがて子が生まれ、遷と名づけられます。
悼襄王が女娼を愛したため、寵愛が遷にも及び、適子嘉が廃されて庶子遷が太子になりました。郭開が太傅に任命されます。
遷はかねてから学問を好まず、郭開も声色や狗馬(狩猟)の道に導いたため、二人は意気投合して歓楽に耽りました。
悼襄王が死ぬと郭開は太子遷を奉じて即位させ、三百戸を公子嘉に封じて国内に留めました。
郭開は相国として政治を行います。
 
桓齮が趙の喪に乗じて進攻し、趙軍を宜安で破りました。扈輒を斬り、十万余人を殺して邯鄲に迫ります。
趙王遷は太子の頃から代守李牧の能力を聴いていたため、急伝(緊急の駅伝)に大将軍の印を持たせて李牧を招きました。
李牧は代で選車千五百乗、選騎一万三千頭、精兵五万余人を擁していました。このうち車三百乗、騎三千頭、兵一万人を代に留めて守らせ、残りは全て李牧自身が率いて邯鄲の城外に駐軍しました。
李牧が単身で入城して趙王に謁見します。
趙王が秦を退かせる計を聞くと、李牧はこう答えました「秦は累勝(連勝)の威に乗じてその鋒(先端。勢い)が鋭いので、容易に破ることはできません。臣に便宜を与え、文法(明文化された規則)で縛らないなら、命を受け入れます。」
趙王はこの条件に同意してからまた問いました「代兵は戦いに堪えられるか?」
李牧が言いました「戦うには足りませんが、守るのなら余りがあります。」
趙王が言いました「境内の勁卒(強兵)を総動員すればまだ十万は集まる。趙蔥と顔聚にそれぞれ五万を与えて、汝の節制を聴かせよう(汝の指揮下に入れよう)。」
李牧は命を受けて去り、肥塁(地名)に営を構えました。壁塁を設けて堅く守り、出陣を禁止します。
毎日牛を殺して士卒を労い、隊を分けて射術を競わせました。軍士は毎日賞賜を受け取り、自然に出陣を願うようになります。しかし李牧は同意しません。
 
趙軍が出てこないため、桓齮は「昔、廉頗が堅壁で王齮に対抗した。李牧もその計を用いているのだ」と言って兵の半分を割き、甘泉市を襲いました。
趙蔥が甘泉市に援軍を送るように請うと、李牧が言いました「敵が攻めて我々が救いに行ったら、人に制されることになる(致於人)。これは兵家が忌避することだ。我々は敵の営を攻めるべきだ。敵は甘泉市を攻めており、営には必ず虚がある。しかも我々が壁を堅めて久しいから、戦いの備えもしていないはずだ。もし敵の営を襲って破れば、桓齮の気を奪うこともできる。」
李牧は兵を三路に分けて秦の本営を夜襲しました。営内は突然現れた趙兵に不意を突かれて潰敗します。名のある牙将十余員が戦死し、殺された士卒は数えられません。
敗兵が甘泉市に向かって桓齮に報告しました。
激怒した桓齮は全ての兵を集めて趙軍に戦いを挑みました。李牧は両翼を拡げて待機しており、中央の代兵が勇を奮って先を進みます。両軍がぶつかって戦いが激しくなった時、趙の左右両翼が並進しました。
桓齮は対抗できず大敗し、咸陽に逃げ帰ります。
趙王は李牧が秦軍を退けた功を称賛して「牧はわしの白起だ」と言い、武安君に封じました。食邑一万戸を下賜します。
 
秦王政は敗戦した桓齕に激怒して庶人に落とし、改めて大将王翦と楊端和にそれぞれ兵を授けました。二人は道を分けて趙を攻めます。
勝敗はどうなるか、続きは次回です。

第百六回 王敖が李牧を殺し、田光が荊軻を薦める(前篇)