第百六回 王敖が李牧を殺し、田光が荊軻を薦める(後篇)

*今回は『東周列国志』第百六回後編です。
 
太子丹は田光が来たと聞くと自ら宮殿を出て迎え入れました。轡を持って田光の下車を手伝い、先導するために後ろ向きに歩いて田光を宮内に連れて行きます。
部屋に入ると再拝して敬意を尽くし、跪いて席を払いました。老齢な田光は猫背になって上坐に登ります。その様子を見ていた者達は皆隠れて笑いました。
太子丹は左右の人払いをし、席を下りて教えを請いました「今日の形勢において、燕と秦は両立できません。先生は智勇とも兼ね備えていると聞きました。奇策を奮って燕を目前に迫った滅亡から救っていただけないでしょうか。」
田光が言いました「臣はこう聞いています『騏驥(駿馬)が盛壮な時は一日に千里を駆けるが、衰老に及んだら駑馬が先を行く(騏驥盛壮之時,一日而馳千里,及其衰老,駑馬先之)。』今、鞠太傅は臣が盛壮の時だけを知り、臣の衰老の時を知りません。」
太子丹が言いました「先生が交遊している方々を見渡して、智勇が先生の少壮の時に匹敵し、先生に代わって持籌(計を練ること)できる者はいませんか?」
田光が首を振って言いました「難しいことです(大難,大難)。しかし試しに探してみましょう。太子が自分で門下の客を看て、用いられる者は何人いますか。光(私)(門客を)看させてください。」
太子丹は夏扶、宋意、秦舞陽を呼んで田光に会わせました。田光は一人一人と会って様相を確認してから姓名を問います。
その後、太子に言いました「臣が太子の客を窺い観ましたが、用いられる者はいません。夏扶は血勇の人で怒ると顔が赤くなります。宋意は脈勇の人で怒ると顔が青くなります。秦舞陽は骨勇の人で怒ると顔が白くなります。怒形が顔に出たら人に悟られます。どうして成功できるでしょう。臣が知っている荊卿という者は神勇(精神の勇)の人で、喜怒を形にしません(血、脈、骨、精神は体の表面から内側に向かう等級を表します。精神が最も崇高になります)。恐らく、荊卿なら彼等三人に勝るでしょう。」
太子丹が問いました「荊卿は何という名ですか?どこの人氏ですか?」
田光が言いました「荊卿は名を軻といい、元は慶氏でした。斉の大夫慶封の子孫です。慶封は呉に奔って家を朱方に置きましたが、楚が慶封を討って殺したため、その家族は衛に奔って衛人になりました。荊卿は剣術をもって衛元君に遊説しましたが、元君は用いることができませんでした。やがて秦が魏の東地を占領して濮陽を東郡にすると、軻は燕に奔って氏を荊に改めました。そのため人々は荊卿と呼んでいます。彼の性は酒を好みます。燕人の高漸離が筑(楽器)を得意としているため軻に気に入られ、毎日燕の市中で飲むようになりました。酒がまわると漸離が筑を打ち、荊卿が和して歌います。歌い終わったらいつも天下に自分を知る者がいないことを嘆いて涕泣しています。この者は沈着慎重で謀略があり、光は万に一つも及びません。」
太子丹が言いました「丹は荊卿と交わりがありません。先生に招いていただけないでしょうか。」
田光が言いました「荊卿は貧しいので臣がいつも酒資(酒代)を都合しています。臣の言なら聞くでしょう。」
太子丹は田光を門の外まで送り、自分が乗る車を与えて内侍を御者にしました。
田光が車に乗ろうとした時、太子が言いました「丹が話した事は国の大事です。先生は他人に漏らさないようにお願いします。」
田光は笑って「老臣はそのようなことはしません」と答えました。
 
田光が車に乗って酒市で荊軻を訪ねました。荊軻は高漸離と一緒に飲み、既に酒がまわっています。高漸離がちょうど筑を調音した時、田光が筑の音を聞きました。車を下りて酒市に入り、荊卿を呼びます。高漸離は筑を持って去りました。
 
荊軻と田光が挨拶を交わしました。田光が荊軻を誘って家に入れ、こう言いました「荊卿は以前から天下に自分を知る者がいないと言って嘆いていた。光もそうだった。しかし光は既に老いたので、精が衰え力も失い、自分を知る者のために駆馳できなくなってしまった。荊卿はまだ壮盛だが、胸中の奇(特殊な能力)を一度試してみたいという意志はあるか?」
荊軻が言いました「それを願わないはずがありません。しかしそういう人物に遇えないのです。」
田光が言いました「太子丹は節を折って客を重んじており、燕国で知らない者はいない。今回、光の衰老を知らず、燕秦の事を光と謀ろうとした。光は卿と関係が深く、卿の才を知っているので、私の代わりに卿を推挙した。卿にはすぐ太子宮に行ってほしい。」
荊軻が言いました「先生の命があるなら、軻が逆らうことはありません。」
田光は荊軻の志を激昂させるため、剣を持って嘆息し、こう言いました「光はこう聞いている『長者の行動とは、人に疑いを抱かせないものだ(長者為行,不使人疑)。』今回、太子は国事を光に語ったが、光に漏らさないように頼んだ。これは光を疑ったからだ。光は人を助けて事を成し遂げてやりたいと思ったのに、図らずも疑われてしまった。だから死によって自明する(疑いを晴らす)。足下は急いで太子に伝えてくれ。」
言い終わると剣を抜いて自刎しました。
荊軻が悲しんで泣いているところに、再び太子の使者が来て問いました「荊先生は来られますか?」
荊軻は太子の誠意を知り、田光が乗って来た車に乗って太子宮に行きました。
太子は荊軻を迎え入れ、田光と全く同じように遇します。
挨拶が終わってから太子が問いました「田先生はなぜ一緒に来なかったのですか?」
荊軻が言いました「光は太子から私嘱の語(個人的な頼み)を聞き、死によって言を洩らさないことを明らかにしようと思い、剣に伏せて死にました。」
太了丹は胸を撫でて慟哭し、「田先生は丹のために死んでしまった。冤死ではないか!」と言いました。
久しくしてやっと涙を抑え、荊軻を上座に座らせます。
太子丹が席から離れて頓首すると、荊軻が慌てて答礼しました。
太子丹が言いました「田先生は丹を不肖とせず、荊卿に会わせました。これは天が与えた幸というものです。荊卿が鄙棄(軽視して棄てること)しないことを願います。」
荊軻が問いました「太子が秦を憂いるのはなぜですか?」
太子丹が言いました「秦は例えるなら虎狼と同じで、吞噬(呑みこむこと。兼併、併呑)して際限がありません。天下の地を全て収めて海内の王を臣にしなければ、その欲は満足しないはずです。今、韓王が既に全土を納めて郡県にされました。更に王翦の大兵が趙を破り、その王を虜にしました。趙が亡んだら次は必ず燕に及びます。丹が臥しても寝床で安んじることができず(安心して眠れず。「臥不安席」)、食事に臨んでも箸を廃す(食事の時になっても箸を持てない。食欲が出ない。「臨食廃箸」)のはこのためです。」
荊軻が問いました「太子の計によるなら、兵を挙げて勝負を競うつもりですか?それとも別に策があるのですか?」
太子丹が言いました「燕は小さくて弱く、しばしば兵(戦)のために困窮してきました。今、趙の公子嘉が自ら代王を称し、燕と兵を合わせて秦と対抗しようとしています。しかし丹は国中の衆を挙げても秦の一将にすら敵わないのではないかと恐れています。燕は代王に附きましたが、まだその勢力の盛んな様子は見えません。魏と斉は以前から秦に附いており、楚は遠くて力が及ばず、諸侯は秦の強を畏れているので合従に同意する者はいません。そこで丹は秘かに愚計を考えました。天下の勇士を得たら使者と偽って秦に送り、重利で誘います。秦王は貪欲なので利を得ようとして必ずそばに寄ります。その隙に乗じて秦王を脅迫し、諸侯を侵して奪った地を全て返還させます。曹沫が斉桓公に行ったようになったら大善(大成功)です。もし従わなかったらそのまま刺殺します。秦は大将が重兵を掌握しており、それぞれが下になろうとしません。国君が亡んで国が乱れたら、上下が猜疑するでしょう。その後、楚魏と連合して共に韓趙の後代を立て、力を合わせて秦を破ります。これが乾坤(天地)再造の時(好機)です。荊卿だけが頼りです。」
荊軻は長い間黙って考えてからこう言いました「これは国の大事です。臣は駑下(愚鈍で能力がないこと)なので、恐らく任使(使命)に応えることができません。」
太子丹が前に進み出て頓首し、頑なに言いました「荊卿には高義があるので、丹は卿に命を委ねたいと思っています。どうか辞退なさらないでください(幸毋讓)。」
荊軻は能力がないと言って再三謙遜しましたが、最後は同意しました。
太子丹は荊軻を尊重して上卿とし、樊館の右に再び一城を築いて荊館と名づけ、荊軻に与えました。
 
太子丹は毎日、荊軻の門下を訪ねて挨拶し、太牢(牛豚の肉)を提供しました。
また、頻繁に車騎や美女を贈って荊軻の欲を満足させ、荊軻の意にかなわないことを恐れました。
ある日、荊軻が太子と東宮で遊び、池水を観に行きました。大亀が池の傍に出て来たため、荊軻が瓦を拾って亀に投げます。すると太子丹は瓦の代わりに金丸を取り出して荊軻に与えました。
別の日、二人が馬を試しました。太了丹には一日に千里を走る名馬がいます。この時、荊軻がたまたま馬肝が味美であることを話ました。するとすぐに庖人が料理した肝を荊軻に進めました。殺したのは千里の馬でした。
また別の日、太子丹が秦将樊於期について語りました。秦王の罪を得て燕国にいます。荊軻が会ってみたいと言ったため、太子は華陽の台で酒宴を開いて荊軻と樊於期を会わせました。この時、太子は自分が寵愛する美人に酒を献じさせ、更に琴を弾かせて客を楽しませました。荊軻は美人の両手が玉のように美しいのを見て、讃嘆して言いました「この手は美しい。」
酒宴が解散してから、太子丹が内侍を送って玉盤を荊軻に届けました。荊軻が開いて見ると、美人の手が入っていました。荊軻のためなら何も惜しまないという気持ちを示します。
荊軻が嘆息して言いました「太子は軻(私)をこのように厚く遇している。死をもって報いなければならない。」
荊軻はどうやって恩に報いるのか、続きは次回です。

第百七回 荊軻が秦庭を騒がし、王翦が李信に代わる(前篇)