西漢時代46 文帝(九) 劉興居の反乱 前177年(1)

今回は西漢文帝前三年です。二回に分けます。
 
西漢文帝前三年
甲子 前177
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
冬十月丁酉晦、日食がありました。
十一月丁卯晦にも日食がありました。
 
中華書局『白話資治通鑑』は「十月丁酉晦」と「十一月丁卯晦」を恐らく誤りとしています。
漢書五行志(巻二十七下之下)』にも同じ記述がありますが、『史記孝文本紀』は「十月丁酉晦」の日食しか書いていません。
 
[] 『史記孝文本紀』『漢書帝紀資治通鑑』からです。
十一月、文帝が詔が発しました「以前、列侯が封国に赴くように詔を発したが(前年)、ある者は理由を探していこうとしない(或辞未行)。丞相は朕が重んじているので、朕のために列侯を率いて国に赴け。」
 
十二月、丞相周勃を罷免して封国(絳県)に行かせました。
乙亥(十四日)、太尉潁陰侯灌嬰を丞相に任命しました。太尉の官を廃して職務(軍権)を丞相に属させます。
資治通鑑』胡三省注によると、漢は秦制を踏襲して丞相、太尉、御史大夫を三公にしました。
太尉の官を廃止したのは三公が常設ではないことを示します。但し、太尉は軍権を掌握していたため、その職務職責は下の官ではなく上の丞相に属させました。
 
[] 『史記孝文本紀』『漢書帝紀』『資治通鑑』からです。
夏四月、城陽劉章(景王)が死にました。
史記斉悼恵王世家(巻五十二)』によると、劉章の子劉喜が継ぎました。共王といいます。
 
[] 『史記孝文本紀』『漢書帝紀』『資治通鑑』からです。
以前、趙王張敖が高帝に美人を献上しました。美人は寵愛を受けて妊娠します。
しかし貫高の事件西漢高帝九年198年)が起きたため、美人も連座して河内に繋がれました。
美人の同母弟趙兼が辟陽侯審食其を通して呂后にとりなしを頼みましたが、呂后は美人を嫉妬していたため取り合いません。美人は子を生んでから憤慨して自殺してしまいました。
官吏が美人の子を高帝に届けると、高帝は後悔して長(劉長)命名し、呂后を母として育てさせました。実母は真定に埋葬されます。
後に劉長は淮南王に封じられました西漢高帝十一年196年)
 
淮南王劉長は母を早く失って常に呂后に従っていたため、孝恵皇帝と呂太后の時代も迫害されませんでした。しかし心中では、「審食其が呂后に強く進言しなかったから母は恨んで自殺した」と思っていたため、常に辟陽侯審食其を憎んでいました。
文帝が即位すると、淮南王は文帝と一番親しい関係にいたため(高帝の子で生きているのは文帝と淮南王のみです)、驕慢横柄になってしばしば法も無視しました。しかし文帝は寛大に対処します。
 
本年、淮南王・劉長が入朝し、文帝に従って苑囿に狩猟に行きました。淮南王は文帝と同じ車に乗り、常に「大兄」と呼びました(本来は「陛下」と呼ぶべきです)
 
淮南王には材力(勇力)があり、鼎を持ち上げることもできました。
淮南王は辟陽侯審食其に会いに行くと袖から鉄椎を出して辟陽侯を撃ち倒し、従者魏敬に首を斬らせました。
その後、淮南王は闕下まで走って肉袒謝罪します。
文帝は淮南王の心が母親の仇討ちにあったことを想い、罪を赦しました。
当時、薄太后も太子や諸大臣も皆、淮南王を恐れていたため、淮南王は帰国してからますます驕恣になり、外出の際には警蹕(帝王が外出する時に道を清めて警護すること)を設け、国内では天子と同じように称制(天子が命令を発すること。政治をすること)しました。
 
袁盎が文帝に「諸侯が驕りすぎたら必ず患が生まれます」と言って諫めましたが、文帝は聞きませんでした。
 
[] 『史記孝文本紀』『漢書帝紀』『資治通鑑』からです。
五月、匈奴の右賢王が北地や河南の地に入って居住ました。
資治通鑑』胡三省注によると、右賢王は匈奴の西方にいました。その地は上郡の西にあたり、氐族や羌族と接しています。河南は北地郡の北、黄河の南に位置し、白羊王が住んでいる場所とする説と、北河黄河北の河の南を指すという説があります。
右賢王は上郡の保塞(辺境の守塞にいる)にいる蛮夷(異民族)を襲って奪い、人民を殺して略奪しました。
 
この頃、文帝が甘泉宮を行幸しました。
 
六月、文帝が言いました「漢と匈奴は盟約を結んで昆弟(兄弟)となり、辺境を害さないことにした。だから匈奴に厚く物資を贈ったのである。ところが今、右賢王はその国を離れ、衆を率いて河南の降地(漢に帰順した地域)に居住した。これは今までの通例に背くことだ。往来して塞に近づき、吏卒を捕殺し、保塞の蛮夷を駆逐して、彼等を元から住んでいた地に居られなくした。辺吏を陵轢して(虐げて)入盗しており、甚だ傲慢無道で盟約に違反している。よって辺境の吏と騎八万五千を動員して高奴に向かわせ、丞相潁陰侯灌嬰を送って匈奴を撃たせる。」
 
こうして丞相灌嬰が車騎八万五千を率いて高奴で右賢王を撃ちました。
また、中尉が指揮する材官(歩兵。または地方の予備兵)を衛将軍の管轄下に入れ、長安に駐軍させました。
 
右賢王は塞外に走りました。
 
[] 『史記孝文本紀』『漢書帝紀資治通鑑』からです。
辛卯、文帝が甘泉宮から高奴に行き、これを機に太原郡も行幸して代王だった頃の群臣に会いました。それぞれに賞賜を与えます。
特に功がある者には別に賞賜を与え、民にも里ごとに牛酒を下賜しました。
 
また、晋陽と中都の民の租を三年間免除しました。
代国の都は晋陽でしたが、劉恒(文帝)が代王だった頃に中都に遷されました。
 
文帝は太原に留まって十余日遊楽しました。
 
[] 『史記孝文本紀』漢書帝紀資治通鑑』からです。
大臣が呂氏を誅滅した時、朱虚侯劉章の功績が最も大きかったため、大臣達は趙の地を全て劉章に封じ、梁の地を全て東牟侯劉興居(劉章の弟)に封じることに同意しました。
 
文帝が即位してから、劉章と劉興居は元々斉王劉襄を帝に立てようとしていた西漢少帝八年180年)と知りました。
そこで諸子を封王する時になって二人の功績を落とし、斉から二郡を割いて城陽(劉章)と済北王(劉興居)に封じました(前年)
劉興居は手に入れるはずだった地位を失って功績も奪われたと考えて怏怏(不満な様子)としていました。
 
この頃、文帝が太原に行幸したと聞いた劉興居は、天子が自ら胡匈奴の討伐に行ったと思って挙兵し、滎陽を襲おうとしました。
それを知った文帝は丞相灌嬰と行兵匈奴討伐のために動員された兵)の出征を取りやめて全て長安に帰らせ、棘蒲侯柴武(または「陳武」)を大将軍に任命し、四将軍十万の兵を指揮して劉興居を撃たせました。
また、祁侯繒賀を将軍に任命して滎陽に駐軍させました。
資治通鑑』胡三省注によると、柴武、繒賀とも高帝の功臣です。
柴姓は高柴孔子の弟子)の子孫で、繒は国名から生まれた氏です。繒は姒姓の国だったといわれています。
 
秋七月辛亥、文帝が太原から長安に戻って詔を発しました「済北王は徳に背いて上に反し、吏民を詿誤(巻添え)にして大逆を為した。済北の吏民で、(朝廷の)兵が至る前に自ら決断した者(帰順した者)および軍や城邑を挙げて投降した者は全て赦して官爵を復す。王・興居と共に居た者(共に背いた者)でも、興居から去って帰順すれば赦す。」
 
八月、朝廷軍が済北王劉興居を敗って捕えました。劉興居は自殺します。
済北の吏民で王と共に謀反した者は赦されました。
 
 
 
次回に続きます。