西漢時代126 武帝(四十五) 南越離反 前112年(2)

今回は西漢武帝元鼎五年の続きです。
 
[(続き)] 漢軍が国境を越えたため、呂嘉等が離反し、国中に号令して言いました「王は年が若く、太后は中国の人であり、しかも使者と乱して(姦通して)専ら内属を欲し、先王の宝器を全て天子に献上して自ら媚びようとしている。また、多くの人を従えて行こうとしているが、長安に至ったら虜売されて僮僕になってしまうだろう(「虜売」の「虜」は恐らく「奪う」「捕える」の意味で、「虜売」は「漢人に捕まって売られる」という意味になります。または、「虜」は主語で「彼等」を指し、「彼等に売られて」という意味かもしれません。原文「虜売以為僮僕」)自分の一時の利を得るために、趙氏の社稷を顧みようとせず、万世のために計を考慮する意思もない。」
呂嘉は弟と共に士卒を率いて南越王趙興、王太后樛氏および漢の使者を攻め殺し、人を送って蒼梧秦王や諸郡県に別の王を立てることを伝えました。選ばれたのは明王趙嬰斉の長男で、越人の妻が生んだ趙建徳(趙興の異母兄)です。
史記建元以来侯者年表』『漢書景武昭宣元成功臣表』によると趙建徳は越では高昌侯でした。
資治通鑑』は趙建徳を術陽侯としており、胡三省注は「漢に降って術陽侯に封じらた」と解説しています。いつ漢に降って封侯されたのかははっきりしません。
史記建元以来侯者年表』では元鼎四年(前年)を術陽侯・趙建徳の元年としており、本年に罪を犯して(恐らく漢に対抗した事を指します)国が廃されています。
漢書景武昭宣元成功臣表』では元鼎五年(本年)三月壬午に術陽侯に封侯されており、四年後に南海を大逆不道にさせたため(恐らく南越が漢に謀反したことを指します)誅殺されています。
漢書景武昭宣元成功臣表』の封侯と誅殺の年は誤りで、『史記建元以来侯者年表』が正しいはずです。
趙建徳は越で高昌侯に封じられており、漢からは南越王・趙興が即位した時(前年)、王の兄ということで術陽侯に封じられました。しかし本年、南越王に立って漢に対抗したため、術陽侯国は廃されました。
翌年、南越が破れて趙建徳は捕えられます。『漢書』『史記』の列伝や『資治通鑑』等は趙建徳が捕えられてからどうなったのか明記していませんが、『漢書景武昭宣元成功臣表』から誅殺されたことが分かります。
 
韓千秋の兵は南越に入ってからいくつかの小邑を破りました。
そこで越人は道を開いて食糧を提供し、漢軍を深入りさせました。漢軍が番禺(南越の都)から四十里ほど離れた場所まで来た時、南越が兵を出して韓千秋等を襲います。韓千秋軍は全滅しました。
南越は漢の使者が持っていた符節を函()に入れて封をしてから辺塞の上に置き、耳障りの良い偽りの言葉で謝罪しました。同時に兵を発して要害を守ります。
 
春三月壬午(初四日)、南越が反したと聞いて武帝がこう言いました「韓千秋には功がないが、軍鋒の冠(先鋒の筆頭)となった。その子延年を成安侯に封じる(『資治通鑑』胡三省注によると、成安侯の食邑は潁川郡の郟県で、韓千秋の故郷です)。樛楽の姉は王太后で、率先して漢に属すことを願った。よってその子広徳を龍亢侯に封じる。」
「龍亢侯」は『史記建元以来侯者年表』『史記南越尉它列伝(巻百十三)』および『資治通鑑』の記述で、『漢書景武昭宣元成功臣表』は「龍侯」、『漢書西南夷両粤朝鮮伝(巻九十五)』では「龒侯」としています。
 
[三] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏四月、天下に大赦しました。
 
[四] 『漢書武帝紀』と資治通鑑』からです。
丁丑晦、日食がありました。
 
[五] 『漢書武帝紀』からです。
秋、鼃()と蝦蟇(ガマ)が闘いました(秋,鼃、蝦蟇闘)
 
この記述が何を意味しているのかは分かりません。
漢書五行志中之下』を見ると、「武帝元鼎五年秋、蛙と蝦蟇の群れが闘った。この年、四将軍(『漢書』の注によると、伏波将軍路博徳、楼船将軍楊僕、戈船將軍厳、下瀨将軍田甲)が衆十万を率いて南越を征伐し、九郡を開いた(九郡を置くのは翌年です)」としているので、南越遠征を象徴しているのかもしれません。
 
[六] 『漢書武帝紀』と資治通鑑』からです。
武帝が南越討伐の兵を発しました。伏波将軍路博徳が桂陽を出て湟水を下り、楼船将軍楊僕が豫章を出て湞水を下ります。また、帰義越侯(厳が名です。越から漢に降ったため、帰義越侯に封じられました)戈船将軍にして零陵から離水を下らせ、甲(人名。『資治通鑑』胡三省注によると、甲も漢に降った越人です。厳と甲の二人とも帰義越侯かもしれません。上述の『漢書五行志中之下』の注では「田甲」としています)を下瀨将軍にして蒼梧に向かわせました。
それぞれ罪人を指揮し、江(長江)(淮水)以南からも楼船の兵十万人を動員しました。
更に越人の馳義侯(遺が名)を別将にして巴蜀の罪人を指揮させ、夜郎兵を動員して牂柯江を下らせました。全軍が南越の都・番禺で集結する予定です。
 
[七] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
斉相卜式が上書し、卜式父子と斉人で船に習熟している者が南越に赴いて命を懸けることを請いました。
天子は詔を発して卜式を褒め称え、関内侯の爵位と金六十斤、田十頃を下賜して天下に布告しました。
しかし天下で従軍に応じようとする者はいません。
当時は列侯が百を数えたのに、彼等の中にも従軍して越を攻撃したいと願い出る者は一人もいませんでした。
 
九月、嘗酎(祭祀で新酒を味わうこと)の時になり、宗廟を祀りました。列侯が黄金を献上して祭祀を賛助します。
しかし少府が黄金を検査したところ、規定よりも軽い物や色が悪い物がありました。
武帝は全て不敬の罪で弾劾し、百六人の爵位を奪いました。
 
漢書武帝紀』の注によると、諸侯は八月に酎金(祭祀のために提供する金)を献上しました。諸侯は毎年戸口の数に応じた量の黄金を献上しており、重量が規定に達していなかったり色が悪かったら王は県を削られ、侯は国を廃されました。
 
辛巳(初六日)、丞相趙周が「列侯の酎金が軽いことを知っていた」という罪で獄に下され、自殺しました。
 
[八] 『資治通鑑』からです。
丙申(二十一日)御史大夫石慶を丞相に任命し、牧丘侯に封じました。
 
当時の国家は多事多忙でした。桑弘羊等は利を得る方法を謀り(致利)、王温舒等は厳しい法を執行し(峻法)、児寬等は文学(学問)を推奨しました。皆、九卿として代わる代わる政治を主宰しており、丞相に裁決を仰ぐことはありません。丞相石慶は醇謹(敦厚慎重)でいるだけでした。
 
[九] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
五利将軍欒大が旅の仕度を整えて東に向かいました。海に入って師(仙人)を求めるためです。
しかし欒大は海に入ろうとせず、太山祠に行きました(または「太山に行って祭祀を行いました」。原文「之太山祠」)
武帝は人を送って欒大の跡をつけさせていたため、神仙が現れなかったことを知っています。
ところが欒大は自分の師に会ってきたと偽りました。この頃は欒大の方術も全て使い果たし、多くが上手くいかなくなっていたため、武帝は誣罔(欺瞞)の罪によって腰斬に処しました。
欒大を紹介した楽成侯丁義も棄市に処されました。
 
[十] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
西羌の衆十万人が反して匈奴と使者を通じさせました。
西羌は漢の故安を攻め、枹罕を包囲します。
 
漢書武帝紀』『資治通鑑』とも西羌が攻めた地を「故安」としていますが、『資治通鑑』胡三省注は「故安県は涿郡に属すので、西羌の兵が至るはずがない。『安故』の誤りである」としています。
 
匈奴は五原に進攻して漢の太守を殺しました。
資治通鑑』胡三省注によると、五原郡は秦の九原郡です。武帝が改名しました。五原郡には五カ所に原野がありました。龍遊原、乞地于原、青嶺原、岢嵐真原、横槽原です。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代127 武帝(四十六) 南越平定 前111年(1)