西漢時代165 昭帝(九) 昭帝と霍光 前80年(1)

今回は昭帝元鳳元年です。二回に分けます。
 
西漢昭帝元鳳元年
辛丑 前80
 
資治通鑑』胡三省注によると、始元三年に鳳凰が立て続けに現れて東海、海西、楽郷に下りたため、八月に元鳳に改元しました。
 
[] 『漢書帝紀』からです。
春、長公主(鄂邑長公主。昭帝の姉)が昭帝を養っていたため、労苦に報いるために藍田を長公主に与えて湯沐邑を増やしました。
 
[] 『漢書帝紀』からです。
これ以前に泗水戴王が死に、後嗣がいないため国が廃されていました。
ところが、実際には泗水王の後宮に遺腹子(妻の腹に遺された子)劉煖がいたのに、相も内史も報告していませんでした。
昭帝はこれを憐れみ、劉煖を泗水王に立てました。
相や内史は全て獄に下されました。
 
以下、『漢書景十三王伝(巻五十三)』からです。
泗水王は武帝元鼎四年(前113年)に常山憲王劉舜の子劉商が立てられました。劉舜は景帝の子です。
泗水王劉商は諡号を思王といいます。死後、子の哀王劉安世が継ぎましたが、一年で死に、子がいませんでした。
武帝は泗水王の家系が絶えるのを憐れみ、劉安世の弟劉賀に王位を継がせました。これが戴王です。
今回即位した遺腹子・劉煖は諡号を勤王といいます。
尚、『漢書諸侯王表』は勤王の名を「劉綜」としています。
 
[] 『漢書帝紀』からです。
三月、各地の郡国で義行のある者を選び、涿郡の韓福等五人に一人当たり五十匹の帛を下賜しました。
昭帝が韓福等を帰郷させてから詔を発しました「朕は官職の事をもって労すのを憐れむ(韓福等に官職を与えて労役させるのは忍びない)。よって孝弟(悌)を修めることに務めて郷里で教育せよ。郡県には、正月になったら常に羊酒を(韓福等に)贈ることを命じる。もし不幸の者があったら(死んだ者がいたら)、衣被一襲(死者の衣服と布団一式)を下賜して中牢(少牢。羊と豚を犠牲にする祭祀の様式)で祀ることにする。」
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
武都郡の氐人が反しました。
資治通鑑』胡三省注によると、この氐人は白馬氐を指します。氐人は山谷に分散して隠れ住み、ある者は青氐と号し、ある者は白氐と号しました。
 
漢朝廷は執金吾馬適建、龍韓増、大鴻臚田広明に三輔(近畿)と太常に属す徒(囚徒)を指揮させ、全ての刑を免じて討伐させました。
 
資治通鑑』胡三省注によると、馬適建は馬適が氏、建が名です。
太常は諸陵がある県の治民を主管していました。「太常に属す徒」というのは太常が管轄する県の徒衆です。
韓増は韓王・信の子孫です。以下、『漢書高恵高后文功臣表』と『漢書魏豹田儋韓王信伝(巻三十三)』からです。
侯は武帝元朔五年(前124年)に韓説が封じられました。韓説は弓高侯韓頽当(韓王信の子)の孫です。後に酎金事件武帝元鼎五年112年)で侯位を失いましたが、武帝元封元年(前110年)に改めて按道侯に侯じられました。
衛太子が挙兵した時、韓説は殺されました武帝征和二年91年)。韓説の子韓興が跡を継ぎましたが、皇帝を呪詛したため、巫蠱の罪で誅殺されます。
武帝後元元年(前87年)、韓興の弟韓増が再び龍侯に封じられました。
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
夏六月、天下に大赦しました。
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
秋七月乙亥晦、皆既日食がありました。

尚、「七月乙亥晦」は、『漢書五行志下之下』では「七月己亥晦」としています。成帝河平元年(前28年)の劉向の発言を見ると、「己亥晦」が正しいようです。 

[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
八月、「始元」から「元鳳」に改元しました。
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
上官安の娘が昭帝の皇后になり、上官桀と上官安の父子が尊位に登ったため、上官桀父子は二人に協力した長公主(蓋主。鄂邑蓋長公主)に深く感謝しました。そこで丁外人(長公主と私通しています)を封侯するように求めましたが、霍光が拒否しました。
上官桀父子は丁外人を光禄大夫にして昭帝に召見される資格を持たせようとしましたが、霍光はこれも拒否しました。
長公主は霍光を強く怨み、上官桀と上官安も度々丁外人のために官爵を求めたのに全て拒否されたため恥辱と思うようになりました。
 
上官桀の妻の父が充国という者を寵愛していました。充国は名で、姓氏はわかりません。
充国は太医監になってから、殿中に闌入したことがありました。
資治通鑑』胡三省注によると太医監は少府に属します。
漢の制度では、宮殿の門に入る者は全て登記されていました。許可なく宮内に入ることを「闌入」といいます。
 
充国は獄に下されて死刑に処されることになりました。
ちょうど冬が終わろうとしている頃だったので、急いで刑が執行されるはずです(漢代は春が来たら死刑を行いませんでした)
そこで長公主は充国のために馬二十頭を献上して贖罪し、死罪を免じさせました。
これらの事があったため、上官桀と上官安の父子は霍光を深く恨み、長公主をますます感謝するようになりました。
 
武帝の時代、上官桀は既に九卿になり、位は霍光の右(上)にいました。
資治通鑑』胡三省注によると、武帝時代の上官桀は太僕で、位は九卿に当たり、秩は中二千石でした。霍光は奉車都尉、光禄大夫で秩は比二千石だったので、上官桀が霍光の上になります。
 
しかも上官父子は共に将軍になり(上官桀は左将軍、上官安は車騎将軍です)、皇后は上官安の実の娘です。これに対して霍光は皇后の外祖父でしかありません。それなのに霍光が朝事(朝政。政事)専制していたため、上官父子は霍光と権力を争うようになりました。
 
燕王劉旦は昭帝の兄なのに即位できなかったため、常に怨みを抱いています。
御史大夫桑弘羊は酒や塩鉄の専売によって国のために利を興し、自分の功績を自負していました。そこで子弟のために官職を得たいと思いましたが、意が叶わず、政権を握る霍光を怨んでいました。
こうして霍光の治世に不満を持つ長公主、上官桀、上官安、桑弘羊が劉旦と結んで密謀するようになりました。
 
燕王劉旦が孫縦之等を使者にして前後十余回にわたって京師に派遣しました。金宝や走馬(良馬)を大量に運ばせて長公主、上官桀、桑弘羊等に贈ります。
上官桀等も偽って人に命じ、燕王の代わりに上書させました「霍光は外出して郎や羽林を都肄(閲兵訓練)した時、道上で称(「」は「蹕」と同じです。「称蹕」は天子が外出する際、道を清めて通行を禁止することです)して太官を先に置きました。」
資治通鑑』胡三省注によると、太官は少府に属し、皇帝の食事を管理します。皇帝が外出する際、太官が先行して飲食の場を準備をしました。
 
また別の者はこう上書しました「蘇武は使者として匈奴に行き、二十年も降らなかったのに、典属国でしかありません。しかし大将軍長史敞は功もないのに搜粟都尉になりました(『漢書百官公卿表下』によると、大将軍長史楊敞は大司農になりました。『漢書公孫劉田王楊蔡陳鄭伝(巻六十六)』および下の内容でも大司農です)。また、(大将軍は)勝手に莫府(幕府。大将軍府)の校尉を増員しました。霍光は専権してほしいままに振る舞っているので、非常(謀反)の疑いがあります。臣旦は符璽(燕王の印璽)を返し、入京して宿衛し、姦臣の変を監視することを願います。」
 
霍光が沐日(休暇)で朝廷にいない隙に上書が提出されました。
上官桀は禁中(昭帝)がこれらの事を官吏に下して調査させたら、桑弘羊が諸大臣と共に霍光を逮捕して執政の地位から退けさせることになると思っていました。
しかし上書が報告されても昭帝は案件の調査を官吏に命じませんでした。
 
翌朝、上書の事を聞いた霍光は画室に留まって入殿しませんでした。
漢書霍光金日磾伝(巻六十八)』の注は「画室」を「近臣が計画する部屋」、または「彫刻絵画の部屋」と解説しています。顔師古は「彫刻絵画の部屋が正しい」としています。
 
昭帝が「大将軍はどこだ?」と問うと、左将軍上官桀が「燕王が罪を報告したので入れないのです」と答えました。
昭帝が詔を発して「大将軍を召せ」と命じました。
霍光は入殿すると冠を脱ぎ、頓首して謝りました。
昭帝が言いました「将軍は冠をつけよ。朕は書が偽物であることを知っている。将軍に罪はない。」
霍光が問いました「陛下はなぜそれを知っているのですか?」
昭帝が言いました「将軍が広明(『資治通鑑』胡三省注によると、広明は亭の名です。長安城東の東都門外にあったようです)に行って郎を都(訓練)したのは最近の事だ。校尉を手配してからもまだ十日も経たないのに、燕王がどうしてそれを知ることができるか。そもそも、将軍が非を為すのに校尉は必要なかろう。」
当時、昭帝はまだ十四歳(実際は十五歳のはずです)だったため、尚書も左右の近臣も的確な判断に驚きました。
 
尚書」について『資治通鑑』胡三省注等を元に簡単に解説します。
少府の属官に尚書等十二官の令丞と中書謁者等七官の令丞がいました。尚書令は秩千石です尚書令と中書謁者令を同じとする説もあります。下述します)
尚書は秦代に置かれた官で、漢が踏襲しました。漢初には「尚冠」「尚衣」「尚席」「尚浴」「尚食」「尚書」がおり、これを「六尚」といいました(「尚」は「主」の意味です)
秦代の尚書に関しては「少府から四人の官吏を派遣し、殿中で文書を主管させたため、『尚書』と呼んだ」という説と、「秦代の尚書には令、僕射、丞がいた。漢代になると全て少府に属した」という説があります。前者では「少府の四人の官吏が尚書」のようですが、後者の場合、尚書は少府に属す四人の官吏だけではなく、独立した部門が存在しており、漢代になって少府に属すことになったと考えられます。
また、「武帝が宦者(宦官)を用いて尚書令を中書謁者令としたが、成帝時代に士人を用いて元に戻した」という説もあります。但し、胡三省は「尚書」と「中書」は別の官としています。
白寿彝の『中国通史(第四巻秦漢時期)』は「宦官を用いて尚書令にした場合は中書令と呼んだ」と解説しています。
武帝は左右曹や諸吏に尚書の政務(皇帝の文書の管理)を処理させました。
昭帝が即位すると、霍光が尚書の政務を兼任しました。これを「領尚書事」といいます。「領」は兼任の意味です。
尚書は皇帝が発する詔等を管理したため、大きな権力を握るようになります。
 
本文に戻ります。
燕王に代わって偽の上書を行った者達は逃走しました。昭帝は厳しく追及するために逮捕を命じます。
陰謀の発覚を恐れた上官桀等が昭帝に「小事を追求するには足りません」と言いましたが、昭帝は聞こうとしません。
この後、上官桀の党与の者が霍光を讒言することがあっても、昭帝はいつも怒って「大将軍は忠臣であり、先帝が託して朕の身を補佐させた。敢えて誹謗する者は罪に問う」と言いました。
そのため、上官桀等は何も言えなくなりました。
逆に霍光はこの一件があったおかげで昭帝に対して忠を尽くすことができました。
 
 
 
次回に続きます。