西漢時代204 宣帝(二十八) 西羌平定 前60年(1)
今回は西漢宣帝神爵二年です。三回に分けます。
西漢宣帝神爵二年
辛酉 前60年
二月、宣帝が詔を発しました「最近、正月乙丑に鳳皇と甘露が京師に降集し、それに従う群鳥が万を数えた。朕は不徳だがしばしば天福を得たので、恭敬に事を奉じて怠らず(祗事不怠)、ここに天下を赦すことにする。」
こうして大赦が行われました。
夏五月、趙充国が上奏しました「羌には元々約五万人の軍があり、そのうち斬首は七千六百級、降者は三万千二百人、河・湟(黄河と湟水)で溺れたり餓死した者は五六千人いるので、ここから計算すると生き延びて煎鞏、黄羝と共に逃亡した者は四千人を越えません。そして、羌の靡忘等(既に漢に帰順しています)は彼等を必ず得ることを自分の責任としています(自詭必得)。よって屯兵を解くことを請います。」
上奏は許可されました。
趙充国は軍を整えて帰還します。
趙充国と仲がいい浩星賜が趙充国を出迎えました。
『資治通鑑』胡三省注によると、浩星賜は浩星が姓氏で賜が名です。漢代に浩星公という者がおり、『春秋穀梁伝』を修めました。
浩星賜が趙充国に言いました「衆人は皆、破羌と強弩(破羌将軍・辛武賢と強弩将軍・許延寿)が出撃して多数の斬首と生降(降伏した者)を得たので、虜(敵)が破壊(破滅)したと思っている。しかし見識がある者は、虜の形勢は窮困しており、兵を出さなくても自ら服したはずだと考えている。将軍が(陛下に)謁見したら、功を二将軍の出撃に帰し、愚臣(趙充国自身)が及ぶところではないとするべきだ。こうすれば将軍の計を失うことはない(将軍のためになる)。」
趙充国はこう言いました「わしは年老いたし爵位も既に極まった。どうして一時の事を誇るのを嫌って(一時の功績を隠して)明主を欺くことができるだろう。兵勢(兵事の形勢。軍事)とは国の大事であり、後法(後生が遵守するべき前例)としなければならない。老臣が余命を使い、(自分のためではなく)陛下のためだけを思って兵の利害を明言しなかったら、わしが突然死んだ時、誰がこれを話すのだ。」
趙充国は自分の意思のまま報告しました。
宣帝は趙充国の計に納得し、辛武賢の兵権を解いて酒泉太守に戻しました。
また、諸豪(諸長)の弟沢(「弟沢」が人名)、陽雕、良児、靡忘が皆、煎鞏、黄羝に属す四千余人を率いて漢に降りました。
『漢書・宣帝紀』では本年夏五月に「羌虜が降服し、首悪の大豪・楊玉と酋非(猶非)を斬った」としていますが、『趙充国辛慶忌伝(巻六十九)』では五月に趙充国が屯兵を廃止する上奏をし、秋に羌が猶非と楊玉を斬って降ります。『資治通鑑』は列伝に従っています。
漢は若零、弟沢の二人を帥衆王に封じ、残りを全て侯や君にしました。
また、初めて金城属国を置いて帰順した羌族を住ませました。
四千人を率いて降った四人のうち、陽雕は言兵侯に、良児は君(号は不明です)に、靡忘は献牛君になりました。弟沢は帥衆王です。
宣帝が詔を発して護羌校尉に適している者を推挙させました。
すると趙充国が急いで立ち上がり、こう上奏しました「辛湯は使酒(酒癖が悪いこと)なので蛮夷を管理させてはなりません。辛湯の兄・臨衆を用いるべきです。」
辛湯が既に拝命して符節を受け取っていましたが、宣帝は詔を改めて辛臨衆を用いることにしました。
ところが辛臨衆は後に病が理由で免じられます。
五府(五府のひとつに当たる後将軍は趙充国なので、四府の誤りではないかと思います)は再び辛湯を推挙しました。
果たして趙充国が言った通り、辛湯はしばしば酒に酔って羌人に暴虐な態度をとったため(酔䣱羌人)、後に羌人を背反させてしまいました。
辛武賢は羌を遠征して功績を挙げたのに賞がほとんどなく、兵権を解かれて元の職に戻されたため、趙充国を深く恨んでいました。
そこで上書して中郎将・趙卬(趙充国の子)が省中(禁中)の言葉を漏らしたと弾劾しました。
趙卬は吏(官吏、獄吏)に下されることになり、自殺しました。
破羌将軍・辛武賢が軍中にいた時、中郎将・趙卬と暇を見つけて話をしました。
趙卬が言いました「車騎将軍・張安世は以前、上(陛下)の心意に沿わなかったため、上が誅殺しようとしました。しかし卬家の将軍(我が家の将軍。趙充国)が、安世は元々橐(書を入れる袋)をもって簪筆(冠に筆を指すこと。皇帝の近臣や文官の装束です)し、孝武帝に数十年も仕え、忠謹とみなされていたので、全度(安全にすること。保護すること)するべきだと考えました。そのおかげで安世は免れることができたのです。」
趙充国が羌から還って兵事について報告したため、辛武賢は元の官(酒泉太守)に戻され、深く趙充国を怨みました。
そこで趙卬が省中(禁中)の言葉(趙充国が張安世を庇ったこと)を漏らしたと訴えました。
趙卬は趙充国幕府の司馬中に入ることを禁止されていたのに入ったことがあったため(司馬中は本来、宮門の中を指しますが、ここでは恐らく後将軍幕府の営門内を指します。『漢書・哀帝紀』に「司馬中」の解説があり、趙卬が入ったのは「営軍(駐留軍)司馬中」だとしています)、屯兵を乱した罪を問われて吏に下され、自殺しました。
『資治通鑑』胡三省注によると、司隸校尉は武帝が置きました。符節を持ち、中都官(京師の官)の徒千二百人を従えて巫蠱を捕えたり、大姦猾(大きな犯罪)を管理しました。後に兵が廃され、三輔、三河、弘農を監察する官になりました。徒隸を率いて巡察したので司隸と呼ばれるようになったようです。
蓋氏は斉の大夫・陳戴が蓋を食邑にしたため、子孫が地名を氏にしました。漢初には斉に蓋公がいました。
当時、宣帝は刑法を重視しており、中書官を信任していました。
また、『易伝』から引用してこう言いました「五帝は天下を官(公のもの)とし、三王は天下を家(私家のもの)としました(五帝官天下,三王家天下)。家とは子孫に伝えるもので、官とは賢聖に伝えるものです。」
少し解説します。
上奏文が提出されると、宣帝は蓋寬饒が怨恨によって誹謗していると考え、書を中二千石の官員に公開しました。
諫大夫・鄭昌は蓋寬饒の忠直憂国を憐れんで心を痛め、国事を述べるのに表現が適切ではなかったため文吏に誣告されたと考え、蓋寬饒の冤罪を訴えて上書しました「山に猛獣がいたら藜藿(薬草)が採られることはなく、国に忠臣がいたら姦邪が起きることがない(山有猛獣,藜藿為之不采,国有忠臣,姦邪為之不起)といいます。司隸校尉・寬饒は居(住居)に安らぎを求めず、食に飽(満腹)を求めず、進んだら憂国の心を持ち、退いたら死節の義があります。上には許・史(外戚)の属(恩恵。庇護)がなく、下には金・張(皇帝の近臣)の託(頼り。支持)がありません。しかし職は司察(監督。監察)で、直道(正道)を進んでいるので(直道而行)、仇が多く味方が少ない状態にいます。今回、上書して国事を述べたところ、有司(官員)が大辟(死罪)として弾劾しました。臣は幸いにも大夫の後に従うことができ(朝廷に席を置き)、官は諫を名としているので(諫大夫なので)、これを言わないわけにはいきません。」
宣帝は諫言を聴きませんでした。
九月、宣帝が蓋寬饒を吏(官吏。獄吏)に下しました。
蓋寬饒は佩刀を引いて北闕の下で自剄します。
衆人でこれを憐れまない者はいませんでした。
次回に続きます。