西漢時代243 成帝(一) 成帝劉驁

今回から西漢成帝の時代です。
 
孝成皇帝
元帝の太子で名を劉驁、字を太孫といいます。「驁」は良馬を意味します。
 
以下、『漢書帝紀』からです。
成帝の母は王皇后(王政君)で、元帝が太子だった頃、太子宮甲観画堂で劉驁を生みました(宣帝甘露三年51年)
宣帝は劉驁を世嫡皇孫として非常に愛し、常に左右に置きました。
劉驁が三歳の時、宣帝が死んで父元帝が即位しました。劉驁は太子になります。
劉驁は成長してから経書を愛し、寬博謹慎(寛大慎重)になりました。
 
劉驁はかつて桂宮に住んでいました。
顔師古注によると、桂宮は太子宮ではなく、宮城内の北宮に近い場所にありました。
 
元帝が急用で劉驁を招いたことがありました。
劉驁は龍楼門(『漢書帝紀』の注によると、門楼の上に銅龍がありました)を出ると、馳道(天子が通る大通り)を横切ろうとせず、西の直城門(『漢書帝紀』の注によると、西側の南から第二の門)に至ってやっと馳道を渡り、戻って作室門に入りました。
劉驁が来るのが遅かったため、元帝が理由を問いました。劉驁が事情を説明すると、元帝は大いに喜んで著令(文書化した令)を発し、太子が馳道を横切ることを許可しました。
 
ところが後に劉驁は酒を愛し、燕楽(宴楽)を楽しむようになりました。元帝は劉驁に能力がないと判断します。
定陶恭王劉康元帝時代は済陽王、または山陽王です。成帝時代に定陶王になります)には材芸(才芸)があり、母の傅昭儀も愛幸されていたため、元帝は劉康を後嗣に立てたいと思うようになりました。
しかし侍中史丹が太子家を護り、力を尽くして補佐しました。また、先帝(宣帝)も特に太子(劉驁)を愛していたため、ついに劉驁を廃すことができませんでした。
 
元帝竟寧元年(前33年)五月、元帝が死にました。
六月己未(二十二日)、太子劉驁が皇帝の位に即きました。これが成帝です。
成帝は高廟を拝謁してから、皇太后(宣帝の皇后王氏。卬成王皇后)を尊重して太皇太后にし、皇后元帝の皇后・王政君)を皇太后にしました。
また、元舅(母の兄弟で最年長者)で侍中衛尉陽平侯の王鳳を大司馬大将軍尚書事にしました元帝竟寧元年のこれ以降の出来事は既述したので省略します
 
 
 
次回に続きます。