新更始時代23 新王莽(二十三) 俸禄 16年(1)
今回は新王莽天鳳三年です。二回に分けます。
新王莽天鳳三年
丙子 16年
関東が特にひどく、雪が一丈も積もり、竹や栢(柏)でも枯れるものがありました。
『資治通鑑』胡三省注によると、竹柏は本来、冬に青くなります。それが枯れることもあったというのは、正常な寒さではなかったことを意味します。
大司空・王邑が上書しました「視事(着任すること。政治を行うこと)して八年が経つのに功業に成果がなく(不效)、司空の職だけが特に廃頓(停滞)しているので、地震の変(変異)をもたらすことになってしまいました之。よって引退を乞います(願乞骸骨)。」
王莽は同意せずこう言いました「地には動があり、震がある。そして、震には害があるが、動には害がない(今回の現象は地が震えたのではなく動いたのだと解釈しています)。『春秋』は地震を記録している(『春秋』は天譴として「地震」だけを書いており、「動」には触れていないという意味です)。『易繋(易経・繋辞)』は坤の動きについて書いており、動静が辟脅して万物が生まれるのである(「辟」は開くこと、「脅」は収縮することです。「坤」は八卦の一つで、『漢書』顔師古注によると、『易』に「坤とは、その動は闢(開く)であり、その静は翕(合)であり、こうして広くを生む」とあります)。災異の変にはそれぞれ意義がある。天地が威を動かしたとしても、それは予の躬(身)を戒めているのであって、公に何の辜(罪)があるというのだ。引退を乞うのは(乞骸骨)、予を助けることにはならない。諸吏・散騎・司禄・大衛(ここまでは官名です)・脩寧男遵(「脩寧男遵」は恐らく「脩寧男爵」で名が「遵」です)を送って予の意を諭させよう。」
王莽は自分を粉飾するのが好きで、いつもこのように経典を都合よく解釈して自分を正当化しました。
これまで王莽は制度が確定していないことを理由に、上は公侯から下は小吏に至るまで、規定の俸禄を与えていませんでした。
五月、王莽が吏禄制度(官吏の俸禄制度)を公布して言いました「予は陽九の阸(厄)、百六の会(どちらも災厄の周期です)に遭い、国用(国費)が不足し、民人が騷動した。そのため、公卿以下、一月の禄が十緵布(「十緵布」は粗い布です)二匹、あるいは帛一匹しかなかった。予はこれを念じるたびに、悲傷しないことはなかった(未甞不戚焉)。今、阸・会が既に過ぎ、府帑(国庫の蓄え)はまだ充たすことができないが、少しずつ余裕ができたので(略頗稍給)、六月朔庚寅を始めとし、吏禄(官吏の俸禄)を賦して(与えて)全て制度の通りとする。」
王莽は四輔・公卿・大夫・士から下は輿僚(下級官吏)に至るまで合計十五等に分け、僚禄は一年に六十六斛とし、位が上がるごとに増やして最上の四輔は一万斛になるようにしました。
『漢書・百官公卿表上』の顔師古注によると、漢制も十五等に分けられていましたが、王莽の俸禄制度と大きく異なります。漢制では最上位を三公とし、万石と号しました。実際の俸禄は月三百五十斛の穀物で、一年で四千二百斛になります。
以下、中二千石は月百八十斛、二千石は月百二十斛、比二千石は月百斛、千石は月九十斛、比千石は月八十斛、六百石は月七十斛、比六百石は月六十斛、四百石は月五十斛、比四百石は月四十五斛、三百石は月四十斛、比三百石は月三十七斛、二百石は月三十斛、比二百石は月二十七斛、一百石は月十六斛、一年で百九十二斛になります。
王莽は最上位の一年の俸禄を漢代の二倍以上の一万斛とし、最下位を漢代より大きく減らして六十六斛にしました。格差が拡大します。
王莽がまた言いました「『広大な天の下において、王土ではない土地はなく、四海の内側で、王臣ではない者はいない(「普天之下,莫非王土。率土之賓(濱),莫非王臣」。『詩経・小雅・北山』の句です)。』これは天下をもって(汝等を)養うということであろう。周礼の膳羞(天子に献上する美食)は百二十品あった。今の諸侯はそれぞれ同、国、則を食し(公爵は同の収入を、侯爵と伯爵は国の収入を、子爵と男爵は則の収入を得ました。「同」は公爵の封地で方百里、「国」は侯・伯の封地で方七十里、「則」は子・男の封地で方五十里です)、辟(国君の意味です。王莽が作った爵位です)、任(女性の爵位です)、附城(漢代の関内侯です)もその邑を食しており(その邑の収入を得ており)、公、卿、大夫、元士もその采を食している(原文「食其采」。采地の収入を得ているとも読めますが、全ての大夫や元士が采地を持っているとは限らないので、恐らく穀物を俸禄として得ているという意味です)。これらの多少(大小多寡)の差には全て條品(等級の規則)がある。古の者は、その年が豊作なら(歳豊穰)礼を充たし(規定に則って俸禄を与え)、災害があったら損なわせ(規定より俸禄を減らし)、百姓と憂喜を共にしたものである。よって上計(年末に地方政府が中央に財政の状況を報告すること)の通計(統計)を用いて(根拠とし)、天下に幸いにも災害がなかったら、太官は膳羞にその品を備え(天子の食事を規定通りとし)、もしも災害があったら什率の多少(比率。十等分した中でどれだけ占めるか)によって膳を減少させよ。
西嶽国師、寧始将軍は西方一州二部二十五郡を保て(これは『漢書・王莽伝』の記述で、『資治通鑑』胡三省注は「二州二部三十五郡」としています。恐らくどちらも誤りで、正しくは「二州一部二十五郡」です。二州は梁州と雍州です)。
大司馬は納卿、言卿、仕卿、作卿、京尉、扶尉、兆隊(河東)、右隊(弘農)、中部の左から前(原文「中部左洎前」。「洎」は「及ぶ」「到る」です)の七部を保て(「七部」が何を指すのかは分かりません。「納卿」から「中部左洎前」を指すとしたら「九部」になります。あるいは下の文では「部」ではなく「五郡」や「十郡」としているので、「七部」ではなく「七郡」の誤りかもしれません。その場合は、「中部左洎前」に「七郡」があったのだと思います)。
大司空は予卿、虞卿、共卿、工卿、師尉、列尉、祈隊(滎陽)、後隊(河内)、中部から後ろ十郡(中部洎後十郡)を保て。
六司(『資治通鑑』胡三省注によると、「六監」を指します。司中、太御、大衛、奮武、軍正、大贅官です)、六卿(羲和・作士・秩宗・典楽・共工・予虞です)に及んでも、皆、それぞれが属す公(十一公)に従ってその災害を保ち(受け持ち。担当し)、また十率(什率)の多少に基いて(災害の比率・程度に基いて)その禄を減損する。
郎、従官、中都官吏で都内(銭を蓄える官府)の委(貯蓄)を禄として食す者は、太官の膳羞の備損を節とする(太官の膳羞の増減を目安にする)。
諸侯、辟、任、附城、郡吏もそれぞれその災害を保て(受け持て)。
王莽の制度はこのように煩碎(複雑)だったため、課計(計簿の査定)がうまく処理できず、結局、官吏は禄を得られませんでした。それぞれ官職を利用して姦を為し、賕賂(賄賂)を受けとって自給するようになります。
次回に続きます。