夏王朝 后羿 寒浞と少康復国

夏王朝の帝・太康が国を失ってから少康が復国するまでの出来事を、本編では『史記・夏本紀』『竹書紀年』(今本・古本)十八史略』『資治通鑑前編』を元に記述しました。
しかしこれらの記述では、后羿と寒浞が帝位に即いたかどうかがはっきりしません。
『帝王世紀』と『資治通鑑外紀』は明確に二人が即位したと書いています。
ここでは二書の内容を簡単に紹介します。
 
 
『帝王世紀』
夏の政治が衰退すると、有窮氏の羿鉏から窮石に遷りました。やがて夏の民が天子を羿と代わらせたため、羿は夏の帝相を駆逐して帝を称します。
しかし羿は射術が得意なことに安心して政治を行わず、狩猟に夢中になりました。良臣の武羅、伯姻(または「伯因」)、熊髠、尨圉(または「龍圉」)を用いず、寒浞を信任します。
寒浞は伯明氏出身ですが讒言や民衆の煽動をしたため、伯明后(国君)に放逐されました。羿はその寒浞を自分の相に任命して重用します。
 
ところが後に寒浞は桃梧で羿を殺し、その子を窮門で殺しました。
寒浞が帝に立ちましたが、有窮の号を継承します。
 
寒浞は羿の妻を後宮に入れて奡澆)を産みました。奡は力が強く、陸地でも舟を曳いて移動することができました。寒浞は奡に兵を率いて斟灌と斟尋を攻撃させ、二氏を滅ぼします。更に夏帝・相を殺させました。
奡は過に、は戈に封じられます。
寒浞は武力に頼って政治を疎かにしました。
 
帝相が殺された時、帝の妃で有仍氏の娘・后緡が逃走し、有仍国に帰ってから少康を産みました。
夏の遺臣・靡は羿に仕えていましたが、羿が殺されると有鬲氏に奔ります。そこで斟灌・斟尋二国の余党を集め、寒浞を殺して少康を帝に立てました。
少康が過で奡を殺し、后(少康の子)が戈でを滅ぼします。こうして有窮氏が滅亡しました。
 
 
資治通鑑外紀』
有窮氏の后羿が夏の代わりに政治を行いました。
元年は丙寅です。
楽正・后夔(堯・舜の時代に夔が楽官になりました。同一人物かその子孫と思われます)が有仍氏の美女・玄妻を娶って伯封を産みました。しかし伯封は貪婪で満足を知ることがなく、人々から封豕(大豚)と呼ばれるようになりました。羿が伯封を滅ぼしたため、夔の祭祀が途絶えることになりました。
 
羿は射術が得意なことに安心して政治を行わず、狩猟に夢中になりました。良臣の武羅、伯姻、熊髠、尨圉を用いず、寒浞を信任します。
寒浞は伯明氏出身ですが讒言や民衆の煽動をしたため、伯明后に放逐されました。羿はその寒浞を自分の相としました。
寒浞は朝廷内では賄賂によって徒党を増やし、外では民の支持を拡げ、后羿には狩猟に専念するようにしむけます。后羿は寒浞の陰謀に気づかず狩猟に明け暮れ、その間に、人々は寒浞に帰順するようになりました。
 
ある日、后羿が狩りから帰ろうとすると、部下達が后羿を襲って殺しました。后羿の子も窮門で殺されます。
后羿の在位年数は八年でした。
 
寒浞が即位しました。元年は甲戌です。有窮氏の号を継ぎました。
寒浞には澆・という子ができました。
澆が成長すると、寒浞は澆に命じて斟灌氏と斟尋氏を殺させ、夏后相(帝相)を滅ぼさせました。
この時、后相の(正妻)・緡は妊娠しており、逃走して有仍国に帰ってから少康を産みました。
寒浞は澆を過に、を戈に封じました。
 
少康は成長すると有仍で牧正になりました。澆に対して恨みを持ち、強く警戒します。澆が椒を送って少康を探し、有仍国に迫ると、少康は有虞国に逃げて庖正になりました。
虞思は二姚を少康に嫁がせ、少康を綸邑に封じます。
少康は田一成と兵一旅を擁し、徳を拡めて復国の計画を立て始めます。夏に仕えていた者達を集めて元の官職に就かせ、慰労しました。
 
一方の寒浞は民に対して徳を拡めませんでした。
そこで夏の遺臣・靡が斟鄩、斟灌の軍を率いて有鬲氏を発し、寒浞を滅ぼして少康を帝に立てました。
寒浞の在位年数は三十二年になります。
少康は汝艾を送って過でを滅ぼし、子の季杼を送って戈でを滅ぼしました。こうして有窮氏が滅亡しました。