夏王朝 太康の兄弟

帝啓の時代、啓の季子(末子)・武観が西河で背いたため、彭伯寿が討伐して帰順させた、という事件がありました。武観は五観ともいわれています。
 
帝啓の子・帝太康は政治を疎かにし、狩猟に明け暮れていたため、都から放逐されて国を失いました。
この時、太康の弟五人が太康の失国を怨んで、『五子の歌』を作ったといわれています。
 
しかしこの二つの出来事は後世偽造された話で、実際の出来事ではないとする説があります。呂思勉の『大中国史』等を参考に、ここでは本編と異なる説を紹介します。
 
一番の問題は太康の兄弟が何人で、五観とは誰かです。
『大中国史』は『漢書』と『潜夫論』からこう引用しています。
 
漢書・古今人表』
太康は啓の子で、昆弟(兄弟)五人。五観と号す。
 
『潜夫論・五徳志』
啓の子・太康、仲康が相次いで立つ。兄弟五人、皆徳に暗く、帝事に堪えることができなかったため、洛汭に降る。これを五観という。
 
この二つの記述から、太康は啓の子で、五人兄弟だったことがわかります。
『五子の歌』を作ったのは「太康の五人の弟」とされていますが、太康が五人兄弟だったのなら、弟は四人しかいないはずです。
また、五人をまとめて「五観」と称したのだとしたら、「五観」は個人の名前ではありません。つまり、「五観(武観)が背き、彭伯寿が討伐して帰順させた」という記述が成り立たなくなります。
彭伯寿が五観を討伐したという記述は『竹書紀年』(今本)に出てきますが、『大中国史』はこれを『逸周書・嘗麦』にある「啓之五子,忘伯禹之命。(略)皇天哀禹.賜以彭寿,思正夏略」という内容を元に作られた偽造と判断しています。
『逸周書・嘗麦』のこの部分は「啓の五子が禹の命を忘れて国を乱したため、天が禹を憐れみ、彭寿に夏の経営を正させた」という意味です。彭寿がどのような人物かは分かりません。
 
『大中国史』は『水経』『左伝』等を引用し、「五観」の「観」とは地名であろうとしています。但し、具体的な位置ははっきりしません。
 
 
墨子・非楽』に「武観」という書籍名が出てきます(もしくは書籍名ではなく『尚書・夏書』の一篇)。そこにはこう書かれています。
「啓乃淫溢康楽(後略)。」
この部分は「啓乃淫溢康楽」の誤りとされ、「啓の子(太康)が放蕩な人物だった」と読まれることが多いようですが、「子」の文字を加えず、そのまま「帝啓が放蕩な人物で国を乱した」と理解することもできます。
 
『楚辞・離騒』には「啓九辯与九歌兮,夏康娯以自縦。不顧難以図後兮,五子用失乎家衖」とあります。
この部分も複数の訳が存在します。
例えばこういう訳があります「啓が『九辯』『九歌』という音楽を手に入れたため、その子・太康は娯楽に耽って好き放題振る舞い、後の禍を考えることなく、五子が帰る家を失うことになった。」
またはこうです「啓は天から『九辯』『九歌』という音楽を手に入れ、人の世に戻って娯楽に耽るようになった。その結果、五人の子が民心を失った。」
いずれにしても、夏王朝の衰退は太康に始まるのではなく、帝啓の時代からすでに始まっていたと考えることができ、『墨子』の「啓乃淫溢康楽」とも符合するようです。
 
 
以上の内容をまとめると、本編とは異なるこういう説が成り立つと思います。
帝啓と帝太康の時代、政治が疎かにされ、夏王朝の支配力が衰え始めました。その隙を突いて羿が夏の都に入り、政治の実権を握るようになります。太康と弟四人(次に即位する仲康を含む)は都を追われて「観」という場所に住みました。
五人兄弟は「五観」と呼ばれました。「五」は「武」と同音のため、「五観」が「武観」に置き換えられることもあったようです。あるいは、末子の名が「武観」だったため、混同を招いたのかもしれません。『墨子・非楽』に「五観」ではなく「武観」という書籍名(または篇名)が登場するのは、実際に武観という人物が存在したためだと考えられます。
五人兄弟は帝禹の徳が衰え、国を失ったことを嘆いて『五子の歌』を作りました。五人兄弟が作ったのではなく、末子・武観が作った歌なのかもしれません。